外伝6 前編 父と母


 新しい部屋のカギを渡したおいた甲斐があったと言うべきだろう。


 拓哉が入社してからも美羽はちょくちょく部屋に来ていた。というか、ほぼ毎日、訪れていた。


 たいていは、そのまま泊まっていくから、もはや同棲と言っても良い。


 一人暮らしのはずが、美羽の私物が着々と増えていく。着替えはもとより、食器、化粧品、枕…… 次々と。


 拓哉自身も新しく何かを買うときは初めからペアを考えるようになったほどだ。


 この部屋を借りた時は全く考えてなかったのだが、ベッドをダブルにしていたのは神の啓示だったのかも知れない。


「美羽がいてくれて、良かった」

「いさせてくれて、ありがとう」


 正直、隣にいてくれるのは嬉しかった。しかし、誰かさんと違って美羽は自宅生だ。こんなに外泊して良いのだろうかと心配するのは当たり前。


『いったいどんな言い訳をしているののだろう』


 心配するのは当たり前である。


『ちゃんとしたご家庭の子だもんね』


 興信所や弁護士さんを紹介していただいた時に初めて家に伺った。そして、解決した後にも、お礼に伺ったことがある。


 渋谷区の高級住宅街。


 お父さんはエリートそのものというパワーを感じさせつつも、それを包み込むような柔らかな眼差しを持った紳士だ。お母さんも「良妻賢母」という古い言葉を思い出してしまうような、美羽とよく似た眼差しを持った静かで優しそうな女性だった。


 合間に見える親子の会話、さりげない受け答え、部屋に趣味よく飾られる家族の写真。


 両親が娘を心から愛しているということはありありと伝わった。


『外泊なんて絶対に許しそうにないタイプだと思うんだけどなぁ。ひょっとしたら、うちに泊まるためにいろいろと無理させちゃってないか?』


 どんな苦労をしていても、それを口に出すタイプではないし、自分がどれほど苦労しても、拓哉にそれを喋るのを嫌がる子だ。


 それがわかっているだけに、逆に心配になるのは当然だ。


 とうとう、ある日、聞いてしまった。


「いつも泊まってくれるのは嬉しいけど、ご両親は大丈夫?」

「はい。ちゃんと拓哉さんのところにいますって言ってありますので」

「えっ! もろ?」


 まさかのだった。


 がびーんとショックはハンパない。


 良いところのお嬢さまなのに、男の部屋に泊まるって言ってきちゃっていたとは。ある意味、衝撃だ。


 よく、許してくれるなぁ。


「あ、名前を出したらダメでしたか? でも、さすがに、どこの誰なのか知らない人のところだと母も不安になるでしょうから」

「いや、言うのは良いんだけど、ほら、男の所に泊まってるって…… あの、その、親は、いろいろと心配しない?」

「あ、はい! 大丈夫です。母は私を信頼してくれてますし、まして拓哉さんのところですから」


 ニッコリ、満面の笑み。


「すぐに挨拶に来てくださったおかげで、母は拓哉さんを認めてくれてますので、ちっとも心配なんてされません」


 「父」が出てこないのが気になるのだけど。


 拓哉の心の声が聞こえたのか、美羽はクスッと笑った。


「母さえ認めていれば、父は何も言えませんので」


 キッパリ。


 やっぱり、町田家のパワーバランスは、圧倒的らしい。


 拓哉は自然と、この間、挨拶に行ったときのことを思い出していた。




・・・・・・・・・・・



 一昨日、美羽を泊めてしまったばかりだった。


 とにもかくにも、拓哉は挨拶にやってきた。


 付き合い出す前の事情が事情だったから、ケジメをつけるのは拓哉としては当然だった。


『弁護士さんや興信所を紹介してもらったお礼を言いにきて以来か』


 しかもあの時とは意味が全く違った。


『お父さんは怖い人じゃないけど、キレ者だからなぁ。何を言われるんだろ』


 初めて会ったときも、お礼に行った時もは「悩める若者にアドバイスする人生の先輩」として、むしろ雄弁に、なおかつ的確なアドバイスを次々と提示してくれた。先の展開を明瞭に予想したし、問題の整理の仕方も的確。弁護士の使い方も証拠の使い方も、さすがに社会人経験の豊富さを物語っていた。


 さすがの超エリートとしての片鱗に、拓哉は恐れを抱くほどだった。


 しかし、違った。


 母親が手ずから入れてくれた紅茶。これはいつも通り。手作りのお菓子が並ぶのは、前回と同じ。


 しかし、父親の態度が何もかも真逆だったのである。


が、わざわざ、挨拶に来てくれた誠意はわかる……」


 そこから、ずっと無言である。頻りに紅茶を口に運んでいるだけ。


 これは怖い。


 沈黙に耐えきれないと思った時に母親が「ふふふ」と小さく笑った。


 その笑いは、まるで「自分の悪さに驚いている大人を見て、楽しくて仕方ないイタズラッ子」とでもいうような笑い方だ。


「あなたには、ちょっと早かったかな?」


『!!!』


 優しそうなお母さんだと思っていた。それに、美羽の話では自分が母親に気に入られたと思っていた。だから、こうして正面から「お前なんてまだ早い」と言われてしまうとは思わなかったのだ。


 目の前が真っ暗になる気がしたのは痛烈に記憶となった。


『そうだよな。こんなムシのいい話はないよ。就職が決まったと言っても、まだ学生だし。他の女と別れたばかりで。お嬢さんと付き合わせてくれだなんてさ』


 未熟者がウチの娘と付き合いたいなんて百年早い、そう言われた気がした。


「あなた」


 ツッとヒザごと夫に向き直ったお母さんは、ピシャリと言った。


「もう! ほら、ちゃんとしてください。美羽も困ってますよ」

「いや、あ、えっとだな」


 そこにあるは夫を非難するための目だったのだ。どうやら「あなた」とは、夫を指す言葉だったというのは意外すぎだ。


 美羽と面影の似た母親が、今度は拓哉を見た。


 優しい笑顔だ。


「ごめんなさいね、いざとなると、パパは意気地無しなの」


 ペコリと頭を下げてきた。


「め、めっそうもない!」


 お父さんはこっちを見ない。苦虫を噛みつぶしたとはこのこと。まさしく、そんな表情だ。


「あ、な、た。いい加減にしましょうね」


 再び、語気が強い。


「え? あ、う、う、ん、あ、よろしく頼むよ」


 父親は逃げるようにして、ササササッと豪奢ごうしゃな応接間から出て行ってしまった。


 両肩をククンとあげて見せた母親は「ごめんなさい。娘の話になると、てーんで、弱虫なんだから」と再びペコリ。


 慌てて、拓哉も頭を下げる。


「大丈夫よ。あれで、拓哉さんのことをすごく気に入っているから。こんなに早く、ちゃんと挨拶にも来てくださったし。あなたのお人柄も娘からよ~く聞かされてますもの」


 品の良い笑顔は娘とそっくりだ。


「パパには私が後で、よーく、言い聞かせておきますから、安心してくださいね」


 前回は、父親の横で、ただニコニコしてお茶やお菓子を勧めてくれる以外、物静かだったお母さんの美しい笑顔の裏側に、なにか怖いものを見た気がして、拓哉の背中に冷たい汗が流れた。


「さ、召し上がって? 拓哉さんのためにって、美羽が昨日から作っていたんですから」

「え? 美羽さんが?」

「ええ。あ、ちゃんと私が味見をしてあるし。小学生時代から教えてきてるのよ。拓哉さんに召し上がっていただけるって、緊張はしてたみたいだけど、そこまでドジな子じゃないから。安心して召し上がってね」

「あっ、はい。いただきます」


 クッキーやケーキが目白押しである。前回は、お母さんが作ったケーキが出てきた。今日は、本人である。


『これを全部作ったの?』

 

 目顔で尋ねると、美羽が恥ずかしそうに頬を染める。


 一口、食べる。


「すごい。美味しい」


 和食が得意なのは知っていたが、お菓子までもが得意だったとは。


 ごく普通のショートケーキだが、見映えは素人が作ったものとも思えない。


 しかも、ケーキのクリームが絶品だったし、スポンジ部分も均等に膨らんでいるから、作り慣れてないとこうはならない。


 何気ない定番モノを、レベルで作れるのは、相当に腕があると言うことの証明でもあることを、拓哉はちゃんと知っていた。


「拓哉さんはとても優しそうだもの。ちょっと心配よ」

「え?」

「あんまり甘やかしちゃダメよ。この子は私に似て気が強いんだから。きっと、そのうちワガママを言い始めると思うわ」

「そんな。私、拓哉さんに、そんなこと言ったりしません」

「ふふふ。どうかしら。あ、そういう時はウチを頼ってね? ちゃんと叱ってあげる。ただ、ケンカはいくらしても良いけど、この子、けっこう意地を張るでしょ? だから、仲直りのキスだけは拓哉さんからしてあげて下さいね」


 お願いしますと頭を下げられる。


 拓哉は、飲み込みかけたケーキを慌てて飲み込みながら、しどろもどろで、頭をさげるしかできない。


 完全に、お母さん無双のターンであった。


 そこで、ガチャッとドアが開いた。


 の再登場だ。


 ゴルフバッグをかついでいる。


「はい!」

「君はゴルフはやるかね?」

「いえ、生憎、やったことがなくて」

「ビジネスマンとして、出世したいならゴルフもできるようになっておきなさい。これは、私のお古ですまないが、もらってくれないか」

「あ、ありがとうございます」

「いろいろと忙しいだろうが、来年までには、ぜひとも一緒にラウンドに出られるようになってくれ」

「頑張ります」

「うん。招待する客の都合もあるんでね。予定が立ったら早めに教えてくれ」

「はい。わかりました」


 ゴルフクラブの一式をバッグ付で持たされてしまった。ネットで調べると、バッグも中のクラブも拓哉の給料では数ヶ月分となる高級品だ。


『しかも、傷一つないって言うか、あっちこっちのカバーも剥がされてないよね』


 帰り道で美羽に尋ねた。


「これ、ホントにいただいてしまって良かったのかな? 絶対に新品だと思うんだけど」


 お古って言ってたけど、絶対に新品だよね?


 美羽は肩をすくめるようにして微笑むと、拓哉の二の腕に優しくタッチしてきた。


「いいんです。だって、ほら、私は女の子だったから、ゴルフを嫌がっても無理やりさせられなかったでしょ? 父は拓哉さんとコースに出るのを楽しみにしてるみたいなんです。忙しいのにごめんなさい」


 美羽は女の子だったからゴルフをさせられない? そしてオレとコースに出るのを楽しみにしている。


 あ……

 

 わかっちゃった。


 つまりは、一種の謎かけである。


 と一緒にコースを回る日が来るのを、お父さんは楽しみにしているよってこと。そして「招待する」っていうのは、当然、ゴルフのことじゃない。の話だ。


 結婚式の来賓の話にこと寄せて「早く結婚を決めろよ」と言っているわけだ。


 プロポーズする前に、ご両親に許可をもらってしまったらしい。と言うよりも、これは「早くしろ」という催促だったのである。


 ふっと、隣を見ると、頬を赤くした美羽は、知らん顔をしている。


 こんな時の照れ隠しをする美羽が、世界一可愛いと思う拓哉だった。





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