外伝5 前編 紗絵の教室

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

序盤の国語の授業のシーンは

かったるいと感じられるかも知れません。

読み飛ばしていただいて構いませんが

紗絵の恋愛観が変わった後の一端が

言葉になっています。

そして

中学時代の「授業」が懐かしい方は、どうぞ。


飛ばす方は途中にある

△△△△△△△△ 


のマークの下からお読みください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





拓哉がシカゴへ転勤していた頃の話。

舞台は紗絵の地元にあるF市立富士川中。

10月のこと。


・・・・・・・・・・・



3年2組の教室で、紗絵は半ば暗唱するようにして『レモン哀歌』を朗読した。


普段は大人しい紗絵だが、教室の声は朗々とよく響く。


「レモン哀歌」 高村光太郎


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

私の手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関ははそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう



「これは、ね、光太郎の愛する妻の智恵子が心を病んで亡くなった後、その死をいたんだ詩なの」


 教室を見渡した。


 一部の男子は、うっとりと紗絵を見つめていた。世間的には平凡な顔立ちの紗絵だが、年頃の男の子達にとっては「大人の女性」がそこにいるだけでもボーッと見つめてしまう存在だ。まして、思春期の男子として、教科書の下に見えるふっくらした盛り上がりに目を奪われてしまうのは当然かも知れない。


 そんな視線に気付かないふりをしたまま、紗絵は声を張った。


「この詩は色彩とイメージに注目してほしいわ」


 紗絵は黒板に素早く書き上げる。


(病室の)床・きれいな歯……白

レモン……黄色

香気……トパァズ色(宝石のようにきらめく色)

天のものなるレモンの汁……金色

澄んだ眼……青

山巓……緑

桜……ピンク


「どの色も爽やかで明るいでしょ? この色遣いが、死をテーマにした詩だというのに、読み手に明るいイメージを持たせているのだと思うの」


 生徒達がノートを取る姿を見定めてから出席簿を覗き込んだ。


「次にキーワードね。今日は7日かぁ。じゃあ、27番堀内君。なんだと思う?」


 内向的なのだろう。大きな身体を縮めるようにして下を向いてしまう。


「たまには答えてくれると嬉しいんだけどな」


 けれども、石像のようになった少年は動こうともしなかった。

 少しだけ待った後、苦笑いで隣の女子を当てた。


「じゃ、左に行こうか。三上さん。答えてくれる?」

「レモンだと思います」

「そうね、その通り。タイトルにもなってるわ」

「三上さんが答えてくれたみたいに、キーワードになってるレモンは爽やかで瑞々しい果物としての意味があるの。じゃあ、詩の中で、どんな役割を果たしているかな?それを今から話し合って各班発表して。はい、7分間」


 いつもの通りに机をくっつけた生徒達は、班ごとに話し合うと、手慣れた様子でタブレットに打ち込み始める。


 そして7分が経ち、各班ごとの発表。それをまとめた紗絵が、パッと各自のタブレットに「正解」を送り込む。


・智恵子の意識を正常に戻し、浄化する神聖なもの

・亡き妻の写真の前に毎日供える、愛のあかし


「レモンは、この二つの象徴ね。みんなが発表してくれたのでOK。大事なのは智恵子の意識を正常にするっていうことと、愛の証ということね」


 そこで、お調子者の鈴木健太が「先生は愛の証って持ってるの?」と叫ぶ。


 お年頃の中学生だ。一斉に「美人教師」に視線が集まる。


 街では平凡な顔として分類される紗絵も、学校という場所で教師のブランドを付けると「美人」と言うことになるのはスクールマジックだ。


 一瞬、眉をひそめた紗絵は、左斜め上の虚空に視線を流した後、生徒達をゆっくりと見渡す。


「そうね。持ってるって言えば持ってるわ」


 うぉおおお!と健太がなぜか吠え、おませな女子達がキャァーと黄色い声を上げる。


 の担任が「私。彼氏がいます」宣言をしたと受け止めたのだ。


「先生、センセイ、せんせ! お付き合いしている人って、同い年? まさか、原ちゃん? それとも1年の大島センセ?」


 原ちゃんとは1組の担任だ。一部の女子にも人気がある中堅の先生。大島先生はサッカー部顧問の若手だ。若い女性の先生がいれば、生徒は常に「誰と付き合ってるのか」が気になるに決まってる。


 生徒がピーチクとウルサくなったのを黙って見つめる目が、あまりにも冷ややかなことに気付いたのは、落ち着きのある女子だった。


 ものの十秒も経たないうちに、普段、あれほど優しい担任が、ひとかけらの笑顔も浮かべてないことに気付いていた。


 水が染み通るように、教室に静けさが広がった。


 シーン


 静けさという薄氷を割るように「先生は、今お付き合いしている人はいません。この後も、できないと思うわ」と厳しい表情。


 の表情が見たこともないほど硬いのを、女子の大部分は気付いた。


 人間には触れてはいけないところがあるのだ。


 少女たちは、それを察したのである。


 いっぽうで「中三男子」は幼い。


「え~ じゃあ、振られたんだ~」


 思い浮かべた言葉を直接口に出してしまったのは、またしてもお調子者の鈴木健太だ。


 バカッ


 女子の学級委員である相川が黙って机を蹴ったが、すかさず男バスの村上が「大学時代の人ですか!」とズバリとツッコでしまう。


 あちゃぁ~


 女子は頭を抱えつつも、紗絵がなんと答えるのか興味津々だ。


「そうね。振られたの。でも、それは私のせいよ」


 サラリと言ってのける表情に、微笑が浮かぶ。


「みんなも好きな人ができたら、ちゃんと相手のことを考えなさい。自分の一番大切なものって何かをしっかり考えるの。もしも、悩んだときは相談に乗るわ」


 柔らかな笑みだが、いや、微笑んでいるからこそ、まったく笑ってない目が異様だった。生徒達は本能のレベルで恐怖した。


 優しいはずの先生の瞳の光に、虚無の闇が見えた気がしたのだ。


 その異様さには、鈴木健太ですら、ひっと小さく息を潜めるほどだ。


 怯えの混じった健太を覗き込むように話し始める紗絵。


「光太郎は、愛する人を喪ったわ。でも、ずっと、思い出を持ち続けることができたの。智恵子が亡くなる瞬間までもが、二人の時間よ。それって幸せなことだったのかも知れないと先生は思うわ」


 その瞬間、キーン、コーン、カーン、コーンとウエストミンスター寺院の鐘を模したチャイムが響き渡った。


「ごめんなさい。ちょっと中途半端だったけど、イメージと色の話はできたわね? じゃ、その点を頭に入れた上で鑑賞文を次の時間までに回答BOXに提出しておいて。あ、当日の9時を過ぎると提出できなくなっちゃうから、時間は守ってね」


「はい、号令、おねがーい」


 紗絵は、いつもの明るい声で言った。


△△△△△△△△△△△△△△


 紗絵のいる富士川中では掃除が給食の後すぐだ。放課後は部活に出る生徒以外、すぐに帰宅することになっていた。


 監督を付けてない生徒が校内にいて事故が起きると学校の責任となる。見回りは欠かせない。


 居残る生徒は、音楽室と体育館、グラウンドなど、決まった場所だけにしかいないことになっている。


 今日は紗絵の当番だった。一通り校内を見回って下校を確認。教室で生徒のワークを見ようと教卓に座ったときだった。


 不意に堀内が大きな身体をゆらりとさせるように入って来た。どこかに隠れていたらしい。


 その動きは、まるで冬眠から覚めたクマだ。


「先生。相談があるんです」

「相談って、なぁに?」


 柔らかな笑みを浮かべた紗絵は、放課後に持ち歩いているカバンから何かを取り出そうとして、一つ首をかしげてからトンと机の横に置いた。


 生徒の前で中身を取り出すのは諦めたのだろう。優しい顔が向けられると堀内はたどたどしく声を出した。


「あの、今日の話です」

「今日の話? あ、授業のこと? 堀内君は今日も答えてくれなかったわね」


 両手を机の上に手を出して、あごにチョコンと当てる。左右の親指で小さなあごを支えるようなポーズだ。


「堀内君は、わかっていても、みんなの前だと答えるのは嫌なのかな?」


 テストの点数は悪くない堀内だが、いまだかつて、当てられてみんなの前で答えたことがない。順番に教科書を読むときも、小さすぎて聞こえない声しか出さないのだ。


「先生、男に振られたって」


 紗絵の言葉を無視した声は、非難の色を帯びている。ギラッとした脂ぎった目で一歩近づいた。


「あ、そうね。そんな話、したわね? でも、あれは光太郎の愛情の話の一環よ。私の個人的な話なんてどうでも良いの」

「どうでも良くない!」


 堀内の目が据わっているのを、紗絵は困ったなと思いながら見つめている。この年頃の男の子は、年上の教師に勝手な憧憬あこがれを当てはめたがるものなのだ。


 若い女性教師として、そんなことはわかってきたつもりの紗絵である。


 特に、堀内が自分を見る目が、この頃特に、異様と言うまでのニブイ光を放つようになってきたのを感じてもいた。


「堀内君? 放課後だから、もう、帰りなさい」


 ダメ元で言ってみたが「センセイは、男と付き合ったことがあるんですね?」と、それは疑問文ですらない。目が据わっている。


「そこで止まりなさい。近づいてきてはダメよ。どうしても話したいなら職員室で聞いて上げる」


 厳しく聞こえる声を張った。悲鳴にならないようにするのは、教師としての矜持意地だ。


「警告します。それ以上近づくなら、生徒と先生という対応じゃなくなるけど良いのね?」


 しかし、何かに取り憑かれているように、堀内の巨体は、また一歩紗絵に近づいたのだ。


「止まりなさい!」


 その声は廊下に響き渡るほど大きかった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


作者より

すみません。紗絵の「先生ぶり」をしっかり書きたかったので

またしても長くなってしまいました。堀内君は紗絵に憧れていました。

彼のイメージの中では「憧れの先生は処女」です。

それだけに逆上してしまったのかも知れませんね。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

                         

それと、何度もクレクレをしてしまって申し訳ありません。


 ご面倒をおかけしますが

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 


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