第2話 エスケープ

 ちょっと前までは、ただ、そこにいるだけで勇気づけてくれる存在だった。どんなに疲れたときでも、そこで微笑んでくれるだけでホッとできる。そんな相手だ。


 でも、今では、大逆転。


 しゃべり方も、動き方も、オレに抱きついてくるところも、全てに腐臭を感じてしまうっていうんだから、末期だよ。


 あれほど魅力的に見えた微笑みも、オレを気遣って声をかけてくる姿も、全てがわざとらしいと感じた。


 アリバイ工作のつもりなのか? 


 今朝、ホテルのフロアで見た時と服装も違うし、化粧を落としているのも、わざとらしくて笑えてしまう。


 ぷぷっ

 

 ん? ヤバい、マジで笑っちまった。紗絵が驚いた顔でこっちを見た。


 だけど目は笑ってなかったんだろう。の顔から血の気が引いた。


「たっくん? やっぱり怒ってる?」


 怒り? そんなの通り越して「無」だ。気の利いた言葉はもちろん、責める言葉も浮かばない。


 答える代わりに微苦笑を浮かべて「どうかなぁ?」と肩をすくめて見せた。


「どうしたの? いつものたっくんと違うよ」


 お前こそ、そんなに顔色を変えたら浮気がバレバレだよ?


 嫌悪も拒否も怒りも、そして哀しみも今さらか。ネックレスを握りしめて靴を履いた。


「出かけるの? バイトだっけ? でも、たっくん、出かけてたんじゃないの?」


 暖房も付けずに、窓を開け放していた部屋は、外気と大して変わらない温度だ。最近は、一人で部屋にいるときは窓を開けっぱなしにしている。同じ空気を吸うのも板だったからだ。


 お陰で、二人の関係みたいに部屋は冷え切っていた。


 ここに「温もり」なんてものは、一切存在しないんだよ。


「これで出るよ」

「そうなんだ。あの、今日、どこに行くんだっけ?」

「心配ないよ。お前がいないだから」

「え? それって、どういう意味?」


 ニッコリ笑ってドアを開けた。さりげなく、紗絵のハイヒールも手に持った。


「ねえ! その、私のいないとこってどういう意味なの!」


 玄関の靴は全てキッチンの下にまとめてぶち込んでおいたから、すぐには見つからないはずだ。


「言いたいことは書いてある。このを見ておくんだな」

「え?」


 近づいてきた紗絵の機先を制して、強ばった顔にメモを突きつける。


「なに?」


 一流ホテルはロビーに名前入りのメモ用紙を置いてくれる。もらってきた2枚だ。


 ホテルのロゴが見えたらしい。


「え? 何? あれ? このメモ用紙って、横浜ランドマ……」


 そりや、驚くだろ。自分が浮気男と泊まってきたホテルの名前が入ったメモ用紙なんだから。


「ここは朝食ビュッフェが美味しいらしいな。何が美味うまかった?」


 ドアから顔だけ残してニッコリ。


「一番美味しかったのはだったかな?」


 精一杯の嫌がらせ。あぁ、でも、極太サラミだったらオレが道化か?


「ひょっとして見たの?」


 口をパクパクさせてる。目を白黒させるってのは、こういう顔のことなんだな。どこにでもある平凡な顔が、クルクル動くのがいっそ面白いよ。


「ち、違う、違うんだからね! そう…… 違うの! あそこでたまたま仲良くなって。朝ご飯を一緒にって誘われたから! それだけだよ! 本当なの!」


 もしも事情を知らなかったとしても、その顔じゃ一発でバレるぞ?


 それにしても、言うに事欠いて 「たまたま」ねぇ。白々しいったらねぇな。あまりの馬鹿馬鹿しさに、言わずもがなの言葉が口をついて出てしまう。


「あれ? ミューちゃんのお部屋に泊まったんじゃなかった?」


 飲み会で遅くなって帰れなくなったって設定だ。服だけは昨日のままだけど、足下のカバンにはお泊まりセットが詰め込まれてるんだもんなぁ。ここで、カバンをひっくり返したら、どんな言い訳をするのかと、チラリと思ってしまうよ。もちろん、触らないよ? 汚らしい。


「あっ! そ、それは、その……」

「まあ、もうどうでもいいよ。あ、今朝は外してた、その指輪だけどさ」


 パッと左薬指を右手が覆った。さすがに指輪を奪い取るのは無理か。いや、むしろ自分で捨てさせよう。


SDGsの世の中資源ゴミだし、その辺に捨てるなよ」


 一呼吸。


「水曜日は金属回収の日だ。その婚約指輪を出しやがれ!」


 目を見開いた強ばった顔。平凡な顔立ちなのに、そこに浮かんでいるのはホラー女優顔負けの恐怖だ。これが演技なら凄いね。


 ワナワナと全身を震わせている。あれ? 口はパクパクしてるけど、息、止まってない? ま、いっか。いっそ永遠に止まれよ。


「オレの分とコイツは責任を持って処理しとくからな」


 リングを外したで見せつけるようにして、外したネックレスをぷらんと振りながら「じゃ、ね~」とドアを閉めた。


 その瞬間に我を取り戻したんだろう。


「ま、まって! たっくん、待って! 違うの! 誤解なの!」


 待つわけねーじゃん。それに「誤解」ってなんだよ。テンプレみたいなことを言いやがって。


 廊下をダッシュ。


 手に持ったサックスブルーのハイヒールはオレがプレゼントした靴だった。「一番のお気に入りだよ」と言って、大切な何かがある度に履いていた靴だ。


 それを昨夜は履いていった。つまりは、そういうこと。


 結婚相手は捕まえた。だから、後の楽しいことは「大切な他の男」とするって意味だろ?


 ヤツとはカレカノ? でも、紗絵が婚約してるのは知ってるはずだろ? じゃあ、セフレ? それとも真実の愛に目覚めたか?(笑)


 ま、後は好きにしろ。少なくとも11月からオレはヤッってないからな。


 バッチいヤツと、今さらやる気になれないし。だから妊娠してたら確実にヤツの種だ。托卵失敗っと。


 あ…… ヤツの種だよね? 他にいたりする?


 ぷぷっ、もう、全部ブラックジョークの世界だよ。笑っちまう。


「二度と顔を見せるなよ」


 捨て台詞を聞いてるかどうかは知らんけど、そう叫ばずにはいられなかった。


 エスケープ! 全てから脱出だ!


 階段への折り返しから飛び降りる。


 後ろで「なんで? いやああ! え? え? 靴は?」という声が聞こえた気がした。


 後でゆっくり探してくれたまえ。


 およ! クツも履かずに飛び出してきたよ。まあ、その程度の「ふり」はするだろうとは計算済み。


 もちろん電話は着信拒否にしてあるし、全てのSNSはブロック済みだ。いつも使っているヤツも、さっきブロックしたから、これでカンペキ。


 汚物との関係は、これで全て断ち切ったぜ。


「まってぇええ!」


 な。


 セミロングの黒髪を振り乱しながら、安達ヶ原の鬼婆オニババもどきで追いかけてくる。


 でも、オレの脚に着いてこられるはずもない。わざと直線に走って少しずつ距離を広げていく。お前がオレの人生に、二度と関われないってことを分からせるためにね。10分も走れば、もう大丈夫。動けないみたいだ。


 ふぅ〜


 そこからは歩きに変えて小さな公園をショートカット。ついでにゴミ箱に片方の靴をたたき込む。


 もう片方は駅前のゴミ箱だ。あ、家庭ゴミの持ち込みはお断り? ごめん。でも、その辺に放り出すよりはマシでしょ? 駅員さん、許してね。


 駅の階段を上った窓から、この街を振り返った。


 4年という時間を過ごした街。人生の伴侶を見つけた…… 見つけたつもりが汚点を付けただけだった街。


 楽しいこともいっぱいあったはずなのにな。


 たぶん、二度とこの街並みを見ることはないんだろう。


 外をもう一度確認した。


「さすがに、ここまでは追ってこないよな」


 クルンと踵を返したオレは、痛快な、それでいて何とも惨めな気分で颯爽と改札を通り抜けたんだ。


「紗絵かぁ」


 ホームへの階段を降りながら、初めて会った頃を思いだしてしまったんだ。




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