自己に絶望していた私より。
鈴谷凌
1.自覚
始まりは小学校に上がって、周りの席の子たちとグループワークの授業を受けていたときのこと。
確か道徳の授業だったかな。
教科書を机に広げて、そこに書かれている事例を読んで、それぞれが自分の意見を語る、大切な授業。
でもこういうのってあらかじめ答えが決められているような気がして。
私はこれなら問題ないだろうという答えをせっせと拵え、静かに座って発表の時間を待っていた。
机をくっつけて四人くらいのグループを作る。
目の前の男子から、隣の女子まで順繰りに話して、いよいよ私の話す番。
澄ました態度だったけど、実はドキドキしていた。
家族でもない人と、こんな真面目なことを話し合うなんて中々ない機会だもの。
変なこと言わないよね。意味が分からないなんて顔されないよね。
少し緊張しているのを自覚していたけど。何を話せばいいのかは、明確に頭に浮かんでいた。
そうして、私が準備した言葉は。
「――――」
私の思い通りに空気を震わすことはなかった。
びっくりして、心臓が跳ねて、私は必死に第一声を紡ごうとしたけれど。
私の口は、まるで弾が込められていないピストルみたいで、虚しい空気を発するだけ。
いや、もしかしたら弾は入っているけど、私がそのとき引き金を引いていなかったのかもしれない。
どちらにせよ、私は焦っていた。
事情を知らない周りの子が、不審な顔で私を見ている。
自由にならない口の筋肉を無理やりに動かす。
「わーたしの、い、いいい、意見……は」
言葉が出たと思ったらへんてこに音が伸びてしまったり。
壊れたラジオみたいに、不必要に音が連続したり。
かと思えば、また言葉が出てこなくなって。
くすくすと笑い声が聞こえる。変なしゃべり方だとからかう声が聞こえる。
私は、どうしたらいいのかも分からず、とりあえず愛想笑いを浮かべた。
それから気分が優れないと体調を偽り、その後の授業をかわすことにした。
緊張していたのだろうと思って、その時はあまり気に留めなかった。
見知った顔とはいえ、授業だし。
そういうこともたまにはあるんじゃないのかなって。
偶然のことだと気持ちを切り替えて、私は早々に帰路についた。
今日は家族みんなで回転寿司に行く予定だったから。
ただいまって言う時ほんの少しだけ緊張したけど、この時の「ただいま」はすんなりと言葉にできた。
なんだ、大したことないじゃない。
意気揚々と帰宅して、私はしばらく時間をつぶした。
そして父が帰ってきて、家族そろって近所の回転寿司に行くことに。
何名様ですか、四名です、って。テーブル席にどうぞって言われて。
席につく。
ここはパネルで注文もできる店らしく、母はそれで率先して飲み物を頼んでくれた。
父はおしぼりで顔を拭いているし、弟は店内の様子にはしゃいでる。
私はといえば、側を流れる寿司をじっと目にして、何を食べようかと考えていた。
程なくして注文した品が到着し、父の合図で乾杯した。
こういうのってお酒を酌み交わすときにやるものだと思うけど?
お酒は父しか飲まないんだけど?
思うところはあったけど、なんだか楽しいし黙っていた。
目の前にはサーモンもある。小さなことには構まっていられない。
さて、寿司を食べるには醤油が欠かせないよねってことで、私はテーブルを見渡した。
ああ。母の近くにあるけど、ここからでは手が届かない。
仕方ない。醤油取ってって言おう。そう決めたのだけれど。
「――――」
またしても言葉が出ない。
驚愕と共に、今度は微かな不快感を覚えた。
けれどもそんな感情に身を任せているわけにはいかなかった。
何かを言いかけた私に、母はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
心臓が再び強く跳ねたけど、二度目、それも家族の前という状況が、私をいくらか冷静にさせた。
「……それ、取って」
素っ気ない言い方になってしまったけど、辛うじて意思は伝えることができた。
「醤油」という単語は出ないことが分かったので、「それ」という言葉に言い換える形で。
少しだけ妙な間が空いてしまったが、特に気にした様子もなく母は私に醤油を手渡してくれた。
「あ、あありがとう」
お礼を言おうとしても、相変わらず恰好がつかない。
なんだか口にしてしまったことを後悔して。私はひょいと、自身の不出来な口に寿司を放り込んだのだった。
その日の出来事で私はすっかり意気消沈し、部屋に帰るなり布団に飛び込んだ。
否、その日だけではない。私はこれより、ほとんどの日々を暗澹たる気持ちで生きなければならなかった。
言葉が急に出なくなる、この不可解な現象によって。
いつ起きるか、どの言葉が出なくなるのか、仕組みは分からなかった。
分かったことと言えば、緊張しているかどうかは発生にあまり関係がないこと。
言葉が出なくなるといっても、実態は最初の音が伸びたり、連続したりと種類があること。
ある言葉が出なくなっても、別の言葉なら代わりに口に出せる時があるということ。
そして、そんな爆弾を抱えながら人と話すのは、心底不愉快な気持ちになること。
小学生時代、私は徐々に自分がどこか他と違っているのではないかと自覚し始めていた。
けれどそんな異常を認めることや、ましてや外に曝すことなんて、私には恥ずかしくてできなかった。認めること自体が傷だった。
幸い、見知った顔であるクラスメイトや家族相手には、何とか誤魔化すことができた。
精神的な疲労以外、生活に大した問題はなかった。
だが問題があるとするならば、人は同じ場所には留まることができないということ。
人は、同じ人の輪の中には居続けることができないということ。
飛ぶように季節は廻り、私にも卒業の時期が近づいてきていた。
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