リタイア英雄 ~地方領主からのリスタート

狭間夕

プロローグ

プロローグ

 大陸の東、ラナール地方には英雄と二人の将軍が暮らしている。

 

 英雄、ロイ=フェルディナンド。

 天才軍師、セリアス。

 悪魔の女将軍、ベアトリス。


 今は三人とも引退しているから、領主、執事しつじ、メイドとして屋敷で平穏な日々を過ごしていた。


 はず、なのに。


「領主様、トロールが攻めてきます」


「……うん? あれ、おかしいな」


 元英雄の『ロイ=フェルディナンド』は首をかしげていた。


 話と違うからである。


 隠居先は、とても平和で、牧歌ぼっか的な場所だと聞いている。戦いとは無縁の安寧あんねいの地だと聞いている。それなのに、領主として就任した早々にトロールが攻めてきた。


 これは、おかしなことだった。


「なあ、セリアス」


 ロイはソファに座って平然と本を読んでいる執事しつじのセリアスに話しかけた。セリアスは鮮やかな銀髪の、丸い眼鏡をかけた背の高い男だ。今は屋敷の執事をしているが、彼はかつて、大陸全土に名をせた天才軍師である。


「どうして、トロールが攻めてくる?」


「オークが指揮しているからです。トロールに戦争の意思はありません。オークが先導しているのです」


 セリアスは本から視線を外さない。さも、当然のように言ってのけた。


「いや……そういう意味じゃない。どうして平和でヒマな場所に、トロールが攻めてくる?」


「それはここ、ラナール地方が豊かな土地だからです。盆地で水も豊富で、気候も温暖です。周辺勢力からすれば、ラナールが欲しくてたまらないわけです」


「……あん? 周辺勢力って何だ? ここは独立した、争いとは無縁の中立国家なんだろ?」


「ええ、中立ですよ。少なくとも、私達は中立だと思っていますが――侵攻してくる側には中立なんて、関係ないんじゃないですかね」


「……あの、領主様」


 部屋の入口で、扉の外に立ったままのメイドが二人の会話をさえぎった。


「それで、トロールを先に始末しますか? それとも、食後のデザートを食べてからにしますか?」


 メイドは両手をスカートの前にえて、元英雄、ロイの指示を健気に待っている。紫色のぱっつんヘアーに、胸は大きく、スタイルは抜群。はたから見れば屋敷に仕える美しい女メイドだが――


 メイドは、かつて『最悪の女将軍』として恐れられた、女悪魔だった。


「え、あ~、トロールは、どの辺にいるんだっけ?」


「国境、二キロ前方の物見砦からの報告です。せっかく入れたコーヒーと、アップルパイが冷めてしまいます。よろしければ、私が行ってきますが」


「じゃあ……頼もうかな」


「はい。では、こちらをどうぞ」


 紫髪のメイドはワゴンからコーヒーとデザートを部屋に運ぶと、一礼して、パタンと扉を閉めた。


 しばし、沈黙が部屋を包む。


 ロイはコーヒーに口をつける。それから、形がぐちゃぐちゃの、リンゴが飛び出してぺしゃんこに潰れているパイを見て、ため息をはいた。


「……なあ……セリアス。お前、知ってたな」


「そりゃあ、ベアトリスに料理は無理でしょう。彼女は一騎当千の猛者もさですが、家事はサッパリです。先週も、皿を七枚ほど割っていましたよ」


「違う。ラナールだ。どこが平和だ」


「以前に比べたら、だいぶ、平和になったじゃないですか。暇にならないように気をつかっただけです。だって退屈でしょう? 何も起こらないなんて」


 セリアスは、本から視線を外さない。


 ロイは、もう一度、ため息をはいた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 一方、その頃。


 ラナール南側にある国境の門では――


「あんなデカブツ、どうしろってんだ!」


 になっていた。


「やっと独立して、落ち着いてきたところなのに……」

「この前にオークどもを撃退したから、意趣いしゅ返しのつもりなんだろ」

「俺、あんなの無理だって。もうおしまいだ、ラナールは終わりなんだ!」


 兵士達のなげきが充満していた。


 破壊された門の向こうには、数十人のオークの群れ。その最前列には、五メートルほどの緑色の巨人。トロールの、ズン、ズンという地響きが兵士達の心臓にも伝わってくる。


「せっかく再就職先を見つけたばっかりだってのによぉ……」


 独りだけ、威勢のいい男がいた。


 彼は流浪るろう傭兵ようへいだった。


「ここで追い返せばいいだけだろ。戦場ではトロールなんざ、めずらしくもない。みんなで固まって陣形を組めば多少は抵抗できる……って、あら?」


 ドガン!


 勇気を奮い立たせる発言もむなしく、トロールが上から棍棒こんぼうを降り落として、地面が派手にえぐれた。あまりの衝撃に、兵士達の体が飛び上がった。


「無理だぁぁぁ!」

「勝てるわけない!」

「お前ら! 待てって!」


 町の方向へ、敵とは真反対の方向に走っていく兵士の群れ。


「ふあぁははは、腰抜けどもめ。全員、突っ込め!」

「させるかよ!」


 オークのボスと、一人の傭兵が剣を交えた。互角のり合いように思えたが、ここでも巨体のトロールが立ちはだかった。


 棍棒が頭上から、影となって落ちようとする。


 さすがに厳しいか、と男が思った瞬間に――


 逃げる兵士の群れを逆走する、紫色の疾風が視界を追い越した。


 謎の影はそのままトロールに突っ込むと、


「はぁぁぁぁあ!」


 右の拳を一閃。


 まるで風船を殴るかのようにして、緑色の巨体を豪快に吹っ飛ばした。


 ……


 ……


 しばらく、時間が止まる。


 男も、オークも、何が起きたのか、よく分からない。遠くで大の字にへばっているトロールの股間こかんを見つめて、口をポカーンと開いて、それから――右の拳を前に突き出したまま立っている女性を見て、「メイド……さん?」と皆が同じ疑問を頭に思い浮かべた。


「どうか、お引き取り下さい」


 メイドはスカートをパンパンと払い、両手をえて、ぺこりと軽く、頭を下げた。


「訪問のご予約が、入っていませんので」

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