いつかは、おかえり

月井 忠

妻の場合

「いってきます」

 仏壇に向かって手を合わせた。


 夕刻の弱い光が遺影を照らしている。


 リビングを抜けて廊下に向かうと、閉め切られたドアがあった。

 息子は引きこもりだ。


 大検を受けると言ってくれたときは嬉しかった。

 家庭教師をつけて応援もした。


 このまま無事に行ってくれればと思う。


 しかし、最近は不審な外出を繰り返している。

 今日も朝からどこかに行っていた。


 ドアに手をかける。


 勝手に開けるといつも怒鳴り声が返ってきた。

 ババア出て行けと言って頑なに拒んだ。


 その部屋が、このドアの向こうにある。


 手を離した。


 今はこんなことをしている場合じゃない。

 バッグを持って玄関に向かう。


 息子より夫のことを片付ける方が先だ。


 探偵はあてにならない。




 車に乗って、持ってきたバッグを開ける。

 タオルでぐるぐる巻きにされたものを手に取った。


 夫の浮気調査を依頼したものの、成果は上がっていない。


 今日、必ず夫は女のところに行く。

 女が出てきたら。


 タオルでぐるぐる巻きにした包丁を握った。




 山道に差し掛かる頃には日が落ちた。

 つづら折りの道を進む。


「憎い、憎い」

 口に出して運転する。


 アクセルペダルを踏む足にも力が入った。


 カーブを曲がり始めると、前方に自転車を漕ぐ男の姿が見える。

 自転車はよろけながら道路の中央に進み出た。


「あぶない!」

 言ったときには後ろから軽く追突していた。


 自転車は反対車線に押し出され、バランスを崩す。


 直後、眩しさに目を細める。

 対向車が迫っていた。


 対向車は自転車を避けようと、進行方向を急激に変える。

 その先にはガードレールがあった。


 ガシャンという衝突音がした後、金属のこすれる音が響く。


 バックミラーで確認すると、車はガードレールに身体を預けるようにして進んでいた。


 遠心力を殺せないまま進み、車は傾く。

 最後はズルっとガードレールの向こうに落ちていった。


 ガードレールの向こうは崖だった。


 前を見る。


 自転車は倒れ、乗っていた男も道路に倒れている。

 ハンドルを握る手は震えていた。


 後続車はいない。


 対向車もやってこない。


 その場でハンドルを切って、来た道を引き返す。

 ひき逃げをしたという実感はあった。




 家でガタガタと震えていた。


 どうやって帰ってきたのか記憶がない。

 両手を組んで祈るようにして震えていた。


 ドアの開く音がする。


「おわっ、いたのか? 電気も点けずに何してるんだ?」

 夫の声だった。


 明かりが点く。


「え? ああ、ちょっと考え事」

 適当にごまかす。


 夫は怪訝な顔をしている。


 夕食の用意をしていなかった。

 急いで料理を始める。




 ピンポーンとチャイムが鳴った。


 夫は見ていたテレビを消して席を立つ。

 こんな時間に誰だろう。


 料理の手を止め夫の後を追う。


 玄関には男が二人いた。

 こちらに気づくと会釈をする。


「すいません、警察の者です」

 そう言って、手帳を見せた。


 心臓が締め付けられた。

 思わず胸に手を当てる。


 そんなわけがない。

 早すぎる。


 心の中で呪文のように唱える。


「実は……」

 刑事は言いにくそうに言葉を紡ぐ。


「先程、事故がありまして、息子さんが怪我をしました」


「え?」

 思わず声を上げた。


「息子が?」


「はい。坂道を自転車で上っているときに後ろから追突されたようです。怪我はそこまでひどくありません」


 私が撥ねたのは息子だった。

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