序 太子の初恋



 かつて地上には、しんせんと人とが共存していた。

 天界を治めるぎよくこうたいていの命により、神仙が人の世を去り、いくせんねん

 神仙界に上った者たちは伝説となり、びようまつられ、しんこうされる存在となった。

 神仙は山にんで人界に下りず、人は深山にみ込まず神域をおかさない。

 たがいにかかわらず、深入りせず──今ではそうほうは完全に分かたれている。

 それでも、境界をえる神仙がいないわけではない。

 里へ下りて人を助ける者。その逆に悪さをする者。けんぞくえてれんじよういだく者──。

『おまえ、二十歳はたちまで生きられないわね』

 貴人のむすに堂々と予言する者も。


 しかし境界を越えるのは神仙ばかりではなかった。

 神をそそのかし、あやつり、のろいをかけさせ、たたりを起こして人心をほんろうする──。

 そんな人間たちが王朝の運命を左右し、皇宮をばつしているのである。


   ● ● ●


 ──太子が乱心した。

 その発言を聞いた時、朝議の場にいただれもがそう思ったにちがいない。

「……た、太子よ。それは……もちろん、れ言なのであろうな?」

 そう思った筆頭であろうこうていが、おそるおそるたずねる。そく以来、さいこくの頂に君臨し時にはしゆもくぐりけてきた彼だが、今そのこわもてにはどうようかんでいた。

 彼だけではない。皇后も、居並ぶちようてい高官たちも、閉じられたしやまくの向こうをなんとかしてうかがおうと必死に目をらしている。

 やがて、紗幕しにくぐもった声が返ってきた。

「本気で申しております。私には忘れられない初恋の人がいるのです。ですからこうの公主とはけつこんできません」

 二度目となる宣言に、その場はいよいよざわめいた。やはり聞き違いではなかったと判明したのである。

「お、おそれながら、太子殿でん。煌とのこんいんは国と国との問題でございます。そういった理由でお断りできるようなことではございませぬ。どうか冷静に、お考え直しください」

「そ、そうだぞ。そなたもこの国の太子なら定めをわかっておろう。先日公主とのえんだんを持ちかけた時にはかいだくしたではないか。なにゆえ急にそのようなことを言い出すのだ」

 さらに動揺したさいしようと皇帝に口々に言われ、紗幕の向こうはちんもくした。

 どんな答えが返ってくるかと、一同はかたんで見守る。

 皇帝のひとつぶだねの男子として生まれ、それこそちようよ花よと朝廷総出でいつくしみ守り育てた太子。生まれつき病弱で今この朝堂でも紗幕の向こうで横になっているほどだったが、かしこやさしくおんこうで、親を敬い臣をいたわり、非の打ち所がない青年に成長した。そんな彼が初めて逆らったのである。しかも、りんごくとのえんぐみというこの上なく政治的に重要な局面で。

 たのむ。気の迷いだったと言ってくれ──全員の目がそんな思いで血走っているのも無理はなかった。

 その思いが届いたのかどうか。くぐもった声がため息まじりに返ってきた。

「……わかりました。采国のためです。縁談はお受けします」

 ぱあっと一同の顔がかがやく。

「ただし条件があります。それがかなわねば結婚はしません」

 ぎょっと一同の顔が引きつった。

「条件とな? 一体、何をせよというのだ?」

 皇帝の問いに、待ってましたとばかりに答えがあった。

「彼女に──初恋の人にどうしても会いたいのです。一目でいい。それさえ叶えば心残りはありません。何も言わずに煌の公主とふうになります」

「……わ、わかった。そこまで言うならば叶えてやろう。して、そのむすめはどこの誰なのだ」

「それはわかりません。たおやかで美しい人だったとしか」

 あっさりとかわされ、皇帝はがくりとかたを落とす。それだけの条件で国中さがせというのか。見つかったころには煌との縁談など空の彼方かなたに消え去っているだろう。

「太子よ……。乱心するのもたいがいにせよ。そなたが背に負っているものがどれほどのものか、忘れたわけではないだろう」

 さすがに皇帝はいかめしい声をあげた。だんできあいしている一人息子とはいえ、国事をなげうってまで甘やかすことはできない。今こそ皇帝のげんを見せる時である。

 空気が張りめる中、太子の返事を待って一同はうわづかいに紗幕を見つめたが──。

「──忘れてはおりません。皇帝陛下」

 ふいに、さっと紗幕が引かれた。

 休んでいたはずの太子がびんな動きでしんだいから下り立ったのを、誰もがおどろいて見上げる。

 そして──全員があんぐりと口を開けた。

「彼女と……ほうしゆんとの再会を願うのがそんなにいけないことでしょうか。それさえ叶えば太子の責務をまっとうすると申しておりますのに」

 りんとして言い放った太子に、皇帝はふるえる指を向けた。

「たたたたた太子よ、そなた、その顔は……っ」

 そこにいたのはいつものはくせきぼうの太子ではなかった。

 いや、太子なのだろう。……顔がかくれているから見えないだけで。

 やけに声がくぐもっていたのはこのせいか──とのんに思っている場合でないのは確かだ。

 やはり乱心としか思えないいでたちを見て舌も回らぬ父に、太子がたんたんしやくする。

「私は正気です、皇帝陛下」

 ふーっ、と皇后が失神した。

 あわてて支えたかんたちは一様に真っ青になっている。もちろん皇帝も例外ではない。

 真面目まじめな太子が生まれて初めて見せたぎもを抜かれ、絶句し──。

 やっと事の重大さに気づいた彼は、ただちにちよくめいを発した。

「さ……捜せっ、捜すのだ! 草の根分けてもその萌春とやらを見つけてまいれーっ!!」

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