一章 運命の日①

 銀の星がちりばめられたてんの下。

 どこまでも続く純白の雪原を、少女はひた走る。

 耳が痛いほどの静けさと、はだを切るような冬の空気。

 きすさぶ寒風がかみを散らし、銀糸のレースにふちられたドレスが大きくひるがえった。

 硝子ガラスのようにするどい氷雪に、絹のすそが千々にかれても。

 くつくした裸足はだしの足に、ひようへんさり傷ついても、少女は構わずに走り続ける。

 しかし、そんな必死のていこうあざわらうかのように、背後からせまどうもうなけだものは、そのきやしや身体からだやすやすらえ、いた。

 白銀の毛並みをした、きよだいおおかみだ。

 おそおののく少女の前で、はくろうそうぼうを光らせながら、のどをそらせてほうこうする。同時に、その身がまばゆい光に包まれ、美しい青年の姿へとへんぼうした。

 雪よりも白くかがやく白銀の髪。夜のせいひつけものの獰猛さをあらせ持つ双眸は、夜天に座す金のいてづき

 人間の姿に似ながらも、獣の耳とを持つ異形のかいぶつ──じゆうじんの国の王。

 心を持たないれいこくな怪物は、美しい姿で人間をあざむき、その血肉をなによりも好み、らうという。

 きようふるえる少女のうでを、獣人の王は躊躇ためらいなく捕らえ、自らの腕の中に引き寄せた。月色のひとみが冷たく細まり、むようにゆがんだこうしんはしで、えいきばが光る。ざんにんに、命をうばうためのそれが少女の白いのどもとれた、そのとき──


    ● ● ●


 ──手元にある本のページは、ここで終わってしまっている。

 れてしまった物語の先を、しんの髪の少女──ニーナは、毎日のように思いかべてきた。かべぎわほんだなにたくさん並んだ本の中でも、一番好きなとぎばなしだ。主人公がニーナと同じ、森に捨てられたてんがいどくの少女だというところが特に気に入っている。

 森の守り神に育てられ、いやしの力をさずかったこの少女は、ある日、森の中でをした王子様を助け、生まれて初めてのこいに落ちる。二人は仲を深め、やがてけつこんを約束するが、とこふゆの王国を支配する悪い獣人の王に癒しの力の存在を知られてしまい、彼の王国へと連れ去られるのだ。げれば喰らうとおどされても、少女は愛する王子様のもとへ必死に帰り着こうとする。だが、そんな切なるおもいを獣人の王は嘲笑い、白銀の巨狼に身を変じて追いめる。

「きっと、次の巻では王子様がけつけて、悪い獣人の王のの手から、少女を救い出すのよね。ちゃんと結末まで読みたいけど……でも、やっぱりっ!」

 バタン! と、迷いをり切るように本を閉じ、勢いよくテーブルを立つ。

 晩秋。深く色づいた森の木々が、最後のくちを散らす季節。あさぎりに冷えた丸太小屋の室内を、窓からこぼれ差す夜明けの光が照らしている。その燃えるようなあかつきそらよりも、なおあざやかなニーナの真紅の瞳は、るぎない決意にきらめいていた。

 もう決めたのだ。

 わかりきっている物語の結末を知るよりも、ずっと昔からの夢をかなえるのだと。

「長かったわ……! 森で育って十五年。しようの課題を全部達成したら、絶対にこれをたのむんだって決めてたんだから。今まで散々断られてきたけど、今度こそはどんな手を使ってでも、うんと言わせてみせる……っ!!」

 はねっけのある真紅の髪を、かわのリボンでぎゅっとい上げたとき。

 耳慣れた足音が近づいて、丸太小屋のとびらが開いた。

「ただいま、ニーナ。どうした、今朝はずいぶんと早起きだな?」

 現れたのは、ばした灰色の髪を前髪ごとひっつめたそうねんじようだ。師匠こと、名をソウエンというニーナの育て親だが、名前どころか父と呼ばせてもらえたことすらない。

 えりもとからのぞはがねのような肉体は、彼がかつて世界をしようようしていた旅人であり、旅の果てに辿たどり着いたこのアルカンディア神聖王国で、王に仕えるとして勤めていたあかしでもある。

 だが、根っからの自由人のため、かたくるしい都暮らしはしように合わないと、引退後は森の奥深くに小屋を建てて引きこもり、ゆうゆうてきいんとん生活を大いに楽しんでいた。そこに、十五年前、森に捨てられていた赤子のニーナが転がり込んだというわけだ。

 ニーナは師匠の手からますが入った魚籠びく竿さおを受け取り、満面のみを浮かべた。

「おかえりなさい、師匠! 今日の朝ごはんは、師匠が大好きなくま肉のステーキよ!」

「熊肉? 確か、ちくはなかったはずだろう。朝っぱらからくまりにでも行ったのか?」

ちがうわ。──この子をねらって、小屋に近づいてきたところを弓で仕留めたのよ!」

 扉が開く音に反応して、部屋の奥からすっとんできた雪色の毛玉──小さな狼の子どもをき上げて言う。

「この前、ひぐまおそわれていたところを助けたって言ってたでしょう? ものを横取りされておこっていたから、絶対に取り返しに来ると思って、待ちせしたの!」

「おいおい! 獲物を奪い返しに来た羆を仕留めたのか!? また腕を上げたじゃないか。きもわったいい狩人かりうどになったもんだ!」

「そうでしょう? 焼き立てを食べさせてあげるから、座って待っててね」

 じようげんでテーブルにつく師匠を横目に、つかみは成功だ、と心の中でこぶしにぎる。

 あとはぶくろをガッチリと摑んで、かんらくさせるのみ。羆を狩るのに着ていたしゆりよう服の上にエプロンを着け、台所に立つ。革長靴ブーツくつひもにじゃれつく狼の子をあやしながら、分厚い熊肉をじっくりとあぶり、切りわけて木皿に盛りつけていく。

 とうみん前でたっぷりとぼうたくわえた熊肉はどこを切ってもやわらかく、ナイフを入れれば熱いにくじゆうはじけるほどあぶらが乗っている。仕上げに、師匠の好物であるこけももしおけをえ、テーブルの上にドンと置く。彼は天色の瞳を子どものように輝かせ、早速かじりついた。

美味うまいっ! 肉質は最高だし、さっぱりした苔桃の甘酸っぱさとの相性もばつぐんだな!」

「喜んでもらえてよかったわ! いっぱい食べてね! まだまだ、たくさんあるから」

 二人でごくじようの熊肉を味わいながら、ゆかの上で舌を出している狼の子どもにもえさあたえてやる。木の実や穀物をつぶし、細かく刻んだ羆の肉を加えた、ニーナ特製のにゆうしよくだ。

 お気にしたのか、うれしそうに振りまわす尻尾しつぽ可愛かわいらしい。

「そのチビ助。拾ってきたときはずいぶんと弱っていたが、もうすっかり元気になったな。名前はつけたのか?」

「ううん、つけるつもりはないの。この子は狼だから、大人になったら自分のつがいを探す旅に出るものでしょう? ひとりで獲物を狩れるようになったら、森に帰すつもり」

「そうか。それにしても、狼の子どもまでなつくとは、ニーナは本当に動物に好かれるな。最初は翼を痛めた小鳥。それから、栗鼠りすに、きつねに、さんがくに、野生馬……植物を育てる才能がある者の手を〝緑の手〟と尊ぶが、お前には動物を育てる才能があるらしい」

 きっとめんどうがいいからだろうが、としみじみとつぶやく師匠に、思わず笑みがこぼれる。ニーナからしたら、彼の方がよっぽど育てる才能を持っているのに。

(なにしろ、こんなへんな森の奥で、赤んぼうだった私をここまで育てて……きたえ上げてくれたんだから)

 さんぞくも裸足で逃げ出すほどの、猛獣うごめく広大な樹海。

 もしも、自分になにかあったとき、非力な子どもでは生きいていけない。そう考えた師匠は、彼が旅で得た様々な知識をはじめ、弓術やり、わななど狩猟による食料調達技術を、しむことなくニーナに教えてくれた。師匠が出した課題を達成するたびに、ごほうとして旅の合間に集めた本がもらえるのだが、そのどれもが、ニーナにとって大切な宝物だ。

 植物や動物のかん、学術書、胸おどぼうけんたんや戦記、そして、はなやかな宮中でり広げられる、甘いこいものがたり──森での暮らししか知らないニーナにとって、物語の世界を旅することは、なによりの楽しみだった。

 だが、課題はどれも難易度が高い。一朝いつせきで達成できるものは一つもなく、ニーナは師匠との暮らしの中で、彼とともに身体からだを鍛え、たんれんを積んで技術をみがいていったのだった。

 そして、ついに、残る課題はただ一つ。

 これを達成したら、望むものは本ではない──本物の、森の外にある広い世界だ。

「──っ、師匠、あのね!」

 高鳴るどうが背中を押す。

 これまではいくら頼んでも、実力不足、残りの課題を達成したらの一点張りで、相手にしてはもらえなかった。だが、今は違う。

 あせばんだ手をぎゅっと握りしめ、ニーナはその願いを口にした。

「〝森にむ羆を百頭狩ること〟! このステーキにした羆で百頭目よ。とうとう、師匠からの課題を全部達成したの。だから、お願い! 私、この森を出て師匠と旅がしてみたい!!」

「全部だとっ!? 本当に全部か? あっ、あれは? 〝けいこくの底に投げ入れた石を拾ってくること〟!」

「そんなの、五歳のときにはとっくに達成してたわよ!」

「それじゃあ、あれは!? 〝真冬の湖を泳いでわたり、対岸に隠された木札を見つけて来ること〟!」

「それは、八歳の冬ね。水が半分こおってて、大変だった」

「〝一日に百本の矢を的の中心に射ること〟!!」

「十歳。──もうっ! 本当に全部達成したんだってば!!」

「はっはっはっ! わかってるさ、じようだんだ。可愛いお前の成長を見過ごすもんか! よくがんったな。これでお前も一人前の狩人だ。──だが、旅か。しかしだな、ニーナ……」

「断らないで、師匠っ!! 今までは、この大森林を抜け出す力も、旅をする技術もなかったから、無理だって言われるたびにあきらめてた。でも、今の私になら、森中を飛びまわることだってできるわ! 私、一度でいいから、自分の目で外の世界を見てみたいの。こことは違う場所で、いろんなものを見て、たくさんの人に出会いたい。──しように貰った物語の、主人公みたいになりたいの!」

「……そうか」

 椅子いすを立ち、前のめりにうつたえるニーナを、師匠はじっと見つめ返してくる。まるで、そのみ切ったそら色のひとみの中に、ニーナの顔を刻みつけるかのように。

 不意に、その目が細められ、くしゃりと微笑ほほえんだ。

あせらなくても、お前の旅はもうじき始まるさ。だから、どうかそれまでは俺のそばにいてくれないか?」

「私の旅……? それってどういう意味? 師匠はいつしよに行ってくれないの?」

「ああ。残念だが、俺はお前とは行けないよ」

「ど、どうして!? 師匠は旅が好きだったじゃないの。こんな森の奥よりも、もっといいところがたくさん見つかるかもしれないわ! 旅をやめてしまったこと──私を拾ったことを、こうかいしていないの!?」

「そんなもの、するわけがないだろう。ニーナ、少し落ち着きなさい」

 かたい大きな手のひらが、ニーナのしんかみをかき混ぜるようにでていく。昔から、わがままを言ったり、泣いてぐずったりしたときに必ずされる仕草だ。

 だが、子どもあつかいはされたくなかった。

 これは我儘などではない。ニーナが長い間、願い続けてきた夢へのこんがんだ。

 師匠の手からのがれるように椅子に座り直し、興奮のあまりあらっていた呼吸を整える。

 師匠はそんなニーナを一人残して、部屋の奥にある彼の自室へと姿を消した。皿の上の熊肉のステーキは、まだ半分以上残っている。

(……もしかして、怒らせた? でも、あのおおらかな師匠が、あれくらいで怒るなんておかしいわ)

 考え込むうちに、とびらが開いて師匠がもどってきた。彼はニーナの側にかがんで目線を合わせると、絹で織られた小さなぬのぶくろを差し出した。結び口のひもは長く、首から下げられるようになっている。

「こいつは、俺の生まれ故郷に伝わる旅の御守りタリスマンだ。いつかそのときが来て、助けが必要になったら中を見なさい。それまで、はだはなさず身につけておくこと」

「御守り?」

「ああ。俺はもう、自分の旅の終わりを見つけちまったから、お前と一緒には行けないよ。そいつが俺の代わりだ」

 おだやかながら、師匠の言葉はいつになくしんけんだった。

「たとえば、ずっとながめていたい景色。ほうっておけないだれかの側……この世界の誰もが、そういうものを探すために旅をしているようなものだ。たとえ、難所にさしかかって進めなくなっても、どう歩いていけばいいのか、なにを旅の終わりにすればいいかは、旅をする中で段々とわかってくる。俺にとって、それはお前だった。旅をしていたとき以上の幸福を、ニーナは毎日俺に与えてくれた。だから、後悔なんかしていないさ」

「師匠……」

 ニーナにとって一世一代の、夢をかなえるためのこうしようだった。

 だと言われても、簡単に引き下がるつもりはなかったのに、まさか一人で行けと言われるとは思わなかった。

 師匠が、これまでに見せたことのないようなさびしげな顔をしている気がして、ニーナはこれ以上の言葉をのみ込んだ。その澄んだ目の色とおなじ、あざやかな天色に染められた御守りをわたしながら、彼は静かにまぶたを閉じる。

「ニーナ。今年の初雪が降ったら、お前もとうとう十五歳になるんだな……おめでとう」

「……ありがとう、師匠。わかったわ。そのときっていうのが来るまで、大切に持っておくわね」

 胸にふくらむ不安を押しめて、ニーナは手の中の御守りをぎゅっとにぎりしめた。

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