プロローグ

 当時八歳の少年にとって、彼女の第一印象は『天使』であった。

 しらかばに囲まれた冬のはん。彼女の幼さゆえのせんさいかみに、白い粉雪がふんわりと降り積もっていく様は、初めて雪を見たわけでもないのに思わず見守ってしまうほどのはかなさだった。なだらかな耳はちいさく、水色のひとみは宝石のようにんでいる。

 目を細めた彼に「まだみえにくい?」と少女は顔を寄せてきた。づかってくれるのはうれしいが、湖岸のきわにしゃがむ幼い彼女が、へ落ちやしないかと少年は気が気でない。瞳のきらめく彼女は、まだ五歳かそこらのちいさな体である。冬の湖に落ちたが最後、神にすがひまもなく、あっという間にこごえ死んでしまうだろう。

 ──こんなところにいてはいけないよ、はやく暖かい所へおかえり、僕に会ったことはだれにもないしよだよ。

 そうやってすぐにでも追い返さなければいけないのに、そのときの少年もまだ幼くて。

 まるで人類が初めて音楽に出会った時のように。

 一枚の絵画にれてしまったように。

 もっと彼女を見ていたい、声をいていたいと水底へかくれねばならない事実にふたをした。

 やがて家の者がむかえに来る気配がして、彼女は立ち上がる。

「じゃあね、人魚さん、かぜひかないでね」

 なおな気遣いの言葉に、少年の心もほっこりと温かくなる。あいかべた幼い少女は、まさに天使の子かと思うほど愛らしい。

 ──と言っていられるのもつかの間のこと。

めんえきにはきのこがいいわ。そしてささみ! たんぱくしつを忘れずに! 筋肉には! 筋肉には! 小魚だけじゃだめなの! 水草だけじゃだめなの!」

「……ぼくはきみがしんぱいだなぁ」

 人とはちがう知識があるらしい彼女は、はたから見れば危険人物だ。彼女が誰にも理解されなかったらどうしよう。うっかりけものと間違われてられでもしたらどうしよう。

「将来ひとりぼっちになったら、ぼくといつしよけつこんする?」

「ううん、だいじよう。婚約者がいるもの」

「……ふられちゃった」

 おどけた言い方に、少女も笑う。

 じゃあね、と今度こそ手をって、たがいにさよならを告げる。走っていく彼女の足音が聞こえなくなったところで──彼は真冬の水面へと背中からしずんだ。

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