第19話 この地の異変


 ぱちり、ぱちりと燃える火を眺める。いただいた味噌汁は飲み終わり、今は白湯を口にしている。

 誰も口を開くことなく、ただ火を眺めるだけの時間。忙しない日常から切り離された時間に、心が凪いでいくのを感じた。


 「さて、一つお尋ねしたいのですが」


 そんな中、沈黙を破ったのは本居だ。湯呑を板の間に置き、お婆さんへ視線を送る。

 彼の動きに自然と場の空気が引き締まった。いつまでものんびりしているわけにはいかない。本居の話では、この地は限界に達しているという。それが事実なら一刻の猶予もないはずだ。


 「今は梅雨。ひと月もすれば夏が来る頃です。にもかかわらず、この国では雪が降っている。寒暁の国にとっては、これが普通なのでしょうか?」


 不自然な降雪について尋ねる本居に、お婆さんは眉を下げる。その表情を見る限りこれは異常なのだろう。お婆さんが語ったのは予想を裏付ける言葉だった。


 「昔はこうじゃなかった。雪が降るのは冬だけだったんだがねぇ。

 ここ数十年、冬以外にも雪が降るようになった。梅雨にまで降るようになったのは、数年前からさね。どんどん雪が降る時期が増えていったのさ」


 今じゃあ降らないのは夏くらいのもんさ。そう言うお婆さんに、本居は口を閉ざした。頭の中で情報を整理しているのだろう。

 気にかかるのは、なぜ雪が増えたのかだ。


 秋や春に雪が降るのは分かる。季節外れだと思うものの、あり得ない話ではないからだ。実際に、現代日本でも観測されている。

 しかし、梅雨にまで雪が降るというのは異常だ。それも大人が足をとられるほどの積雪である。真冬の季節ならばともかく、この時期では説明がつかない。


 これが単なる異常気象なのか、それとも瘴気による影響か。それを判断するには不明瞭な点が多い。


 香織にとってここは異世界。過去の気象データなど知るはずもなく、これがどの程度異常性のある現象なのかは不明だ。この世界では稀に起こり得るという可能性も否定できない。後ほど本居に確認すれば分かるだろうが、答えが出せないのが現状だ。


 そして、瘴気の影響か否かも判断が難しい。瘴気が人体に影響を及ぼすことは聞いていたが、気象すら狂わすことができるのだろうか。

 現代日本で暮らしていた頃に、瘴気の影響などなかった。人を狂わせるというのなら極度の酩酊や薬物使用が真っ先に浮かぶものだ。間違っても、瘴気の影響とやらを真剣に議論することはない。


 「あの、先ほどの女の子は?」


 本居が考え込むのを尻目に、香織は話題を変える。

 香織はこの世界の出身ではない。本居と比較して判断材料が著しく少ないのだ。現時点でこの問題の答えを出せるはずもない。

 ならばこの問題を考えるのは本居に任せようと、意識を切り替えた。


 香織たちを連れてきた少女は、いつの間にか部屋からいなくなっていた。一体どこへ行ったのかと視線を巡らせると、お婆さんが答えてくれた。


 「あぁ、桃花ももかのことかい。あの子なら今は外に出ているよ。野菜を取りに行っているんだ」

 「野菜、ですか?」


 香織が首を傾げると、彼女は穏やかに微笑む。「都会の人らには、ピンとこないかもしれないね」と笑いながら説明をしてくれた。


 「この雪だからね。野菜を雪の中に埋めておく方が日持ちするのさ。食糧もそうあるわけじゃない。極力長く保たせるために、雪の中で保存するんだよ」


 その言葉に、香織は感心したように息を吐いた。雪国ならではの発想だろう。厳しい土地で生きていくために生まれた手法のようだ。

 「雪の中に埋めた野菜は甘くて美味しいんだ」そう告げるお婆さんに、香織の頬が緩む。雪国で生きるための知恵が、嬉しい効果を生んでいるらしい。雪深く生活には困る場所だが、人々が知恵を絞って暮らしていく。その営みは素晴らしいものだ。


 「なるほど。それで先ほども外に出ていたんですね」

 「そうさ。私もすっかり腰が悪くなってしまってね。代わってやれればいいんだが、どうにも身体が上手く動かないんだよ」


 歳かねぇ、そう呟く彼女の腰は曲がっている。この身体で雪を掘るのは重労働だろう。幼いお孫さんを心配するのも無理はないが、お婆さんが雪を掘るのも危険なように思える。


 「……あまり無理しない方がいいと思いますよ。あの子が、かえって心配するでしょうから」


 聞こえてきたのは紬の声だ。お婆さんを心配するかのような言葉に、一同の視線が紬へ集中する。

 それに気づいたのか、彼女はバツが悪そうに視線を逸らした。


 「お嬢さんは優しい子だね」

 「っ、そんなことは……」


 お婆さんの言葉に紬が口ごもる。お婆さんは紬へ微笑みかけると、ゆっくりと口を開いた。


 「お嬢さんの言葉に甘えておこうかね。今となっては、桃花を育てられるのは私しかいないからね」

 「……そうなの?」


 逸らしていた視線を戻し、紬が怪訝そうに聞き返す。彼女の反応も無理はない。

 桃花という少女は、7歳程度の子どもだ。通常なら親は健在のはず。もちろん、何らかの不幸に見舞われた可能性はあるが。


 香織の脳裏に、桃花と出会ったときのことが浮かぶ。あのとき、彼女は何と言っていただろうか。


 「桃花ちゃんのご両親は、他の国へ出られたのですか?」


 そう問いかける香織に、紬の視線が刺さる。驚愕の視線を送る彼女を横目に、香織はお婆さんへ言葉を続けた。


 「初めて桃花ちゃんと会ったとき、「本当に来たんだ」と言っていました。桃花ちゃんは、誰かを待っているのではありませんか?」


 お婆さんが目を伏せる。言葉を選んでいるのだろうか。視線を左右へさ迷わせていた。

 十秒ほどの間が開いて、彼女は重い口を開いた。


 「お姉さんの言うとおりさね。桃花の両親は、あの子がまだ3歳の頃に出て行ったんだ。この国では、到底生きていけないと言ってね。出稼ぎをしてくると言ったきり、知らせがないままさ」


 地方で暮らす人が出稼ぎに出る、これは決して不自然なことではない。現代日本ではそうないことだが、かつては当然にあった話だ。3歳という幼い娘を置いていくことの是非はともかく、稼ぎたいというのは理解できる。


 冬だけでなく、一年の多くを雪に囲まれる土地だ。食物を得ることすら困難だったに違いない。そんな生活を変えるため、働きに出るというのは合理的でもある。


 しかし、一点ほど疑問が残るが。


 「知らせがないって……連絡一つないの? もう4年くらいは経つんじゃない?」


 紬の言葉に、香織は内心で頷く。


 そう。そこが一番疑問の残る箇所だ。決まった時期のみ出稼ぎに出るなら、一年の内に村へ戻る機会があっただろう。そうでなくとも、何かしらの連絡はあって可笑しくない。

 そもそも、出稼ぎが目的ならば当然実家への送金がされるはず。自身で持ってくるか、何らかの方法で送るのかはともかく、知らせ一つないというのは不自然だ。


 「お嬢さんの言うとおり、もう4年が経った。未だに一度も、知らせは来ないんだがね」


 紬の問いに、お婆さんが暗い声で答える。その内容は、あまりにも悲しいものだった。知らせがないということは、彼らの生死すら分からない状態ということ。


 巡国は瘴気に蝕まれている。ここ寒暁の地だけでなく、他の地域も同様だ。もしかしたら少女の両親も瘴気に苦しめられているのかもしれない。はたまた、船舶事故にあっている可能性もある。

 口にすることは憚られるが、生存そのものを疑う時期に来ているだろう。


 「せめて、元気にやっていてくれたらと思うがね」


 ぽつりと吐き出された呟きは悲しげだ。お婆さんの言葉を聞き、香織は唇を噛み締める。4年という月日、決して長くない時間を待ち続けていたのだ。不安で胸が引きちぎられるような日もあっただろう。


 香織は一人、過去へ思いを馳せる。彼女にも同じような不安を抱えた日々があった。連絡一つなく消えた斗真を、心配しない日などなかった。ただ待ち続けるということが、いかに苦しいかは想像に難くない。

 もしこの世界に来ていなかったら、香織は今も斗真の姿を探していたことだろう。


 「ただいまー!!」


 家の中に明るい声が響き渡る。あの少女だ。どうやら野菜を取って帰ってきたらしい。


 「ばっちゃん! 野菜取ってきたぞ! 今日はお客さんもいるし、ごちそうだな!」


 にこにこと笑う彼女の手には、大きな白菜や大根があった。香織は慌てて立ち上がると少女から野菜を受け取る。


 「姉ちゃん?」

 「ここからは私が運ぶね。お婆さん、持っていく場所を教えてもらっていいですか?」


 香織がそう問いかけると、お婆さんは笑顔で頷いた。よっこらしょ、と呟き腰を上げている。


 「桃花ちゃん、あなたは囲炉裏の前に座っていて。雪の中野菜を取ってきてくれたんだもの。身体が冷えているはずだから」


 少女の手は赤く染まっている。しもやけになっては大変だと、すぐに温めるように伝えた。

 斗真に少女の面倒を見るように頼むと、香織はお婆さんの先導で厨へと向かう。その背中に、弾むような声がかけられた。


 「ね、姉ちゃん! ありがとうな!」


 頬を紅潮させて礼を言う少女に、香織は微笑みかける。軽く手を振ると、少女は嬉しそうに手を振り返してきた。

 少女が室内に戻るのを確認して、香織も視線を前に戻す。黙ったまま待っていたお婆さんへ声をかけた。


 「桃花ちゃん、きちんとお礼の言えるいい子ですね。

 きっと、お婆さんの愛情をたくさん受けて育ったのでしょう」


 そう告げる香織に、返事は来ない。

 隣へ視線を向けると、手を握りしめて涙ぐむお婆さんの姿があった。深く皺が刻まれた手には所々あかぎれがある。言葉より雄弁に、彼女のこれまでを物語っていた。


 「おばあさん、厨へ行きましょうか」


 外はしんしんと雪が降り続けている。雨戸の隙間から外を見ると、音もなく雪が舞っていた。まるで無声映画を見ているかのようだ。


 静まり返った廊下に、小さく鼻をすする音がする。香織は黙したまま、隣を歩く背を撫でた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る