オシゴトでいいなら
麦本素
始業
始業前のかすかな喧噪が遠くに聞こえ、パソコンの起動とともに少しずつ身体に血が巡っていく心地。目を閉じてほう、と息をつく。
「やーっ、おはざいまっす!」
軽薄な男性社員の声とともに女子の黄色い声が耳をつんざき、朝の平穏は破られた。
「木村、何しけた顔してんだよ」
「低血圧」
「ふぅん、俺がちやほやされる声に集中切れたんかと」
にぱぁっと悪びれない顔で笑って隣の席にどっかと座る男、麦野。数少ない同期にして、会社一の遊び人。常に女の取り巻きがいるというのは疲れないのだろうか。
「もう月末か、忙しくなるな」
「おいこら、帳簿ぶん投げるな」
この華やかなルックスに反してこの男、経理部である。経理部というものはもっとこう、目立たないものなんだが。この平々凡々な俺が言っているんだから間違いない。
「麦野、今日は昼また女はべらせるのか。できれば今日中に終わらせたい案件があるから早めに帰ってきてくれ」
「じゃあ今回してよ、昼までに処してランチ行くから」
「……仕事はできるんだよなぁ」
「そりゃあもう」
ぱちんと音がしそうなウインクを決めて案件を受け取る麦野に溜息が止まらない。嫌味にも様になる。
「部長、こいつどうにかしてください」
どら焼きを食べていた部長は、小首をかしげて、
「むぎくんと木村くんは仲がいいねぇ」
中小企業であるわが社において、経理部は無論お世辞にも花形部署とは言えない。なんならたった三人で構成されており火の車。シゴデキ遊び人麦野、信頼の堅実凡人木村、お地蔵様部長。不本意な二つ名を頂きつつも、社員から届く領収書を処す。
麦野の元には女子社員の領収書が山のように届く。彼女らに俺が見えていないのはいつも通り。もくもくとデータを打ち込んでいると、
「木村くん、お疲れ様」
珍しく女の声がした。この絹のようなアルトの持ち主は見なくてもわかる。
「月末だからとかけこみで申し訳ない、処理お願いします」
「了解」
ピンヒールを軽やかに鳴らし、颯爽と去っていく。無駄のない仕事ぶりと身のこなし。もう一人の同期、雪枝という女は鬼のように仕事ができる。社内外の全てを把握しているんじゃないかという圧倒的な情報力。一方彼女のプライベートは誰も知らない。
「白雪姫来てた?」
「二十代後半の女捕まえて姫呼ばわりは本人も不本意なんじゃないか」
「俺だけじゃなくて皆呼んでるよ」
姫と言ってもどちらかというと、畏怖の念が多そうだがな。
営業部の若きエース、白雪姫こと雪枝有紗、か。なんで俺の同期はこんな怪物ばかりなんだ。
「せっかくなら俺がいるときに来てくりゃよかったのに」
「白雪姫と仲いいのか」
「おまえだって姫呼ばわりしてるじゃん」
移るんだよ。本意じゃない。本当にこの会社の二つ名文化やめた方がいいぞ。痛いから。
「白雪姫ね、割と話すよ」
雪枝でさえ麦野に熱上げてるのか。
理不尽なのはわかっていてもなんとなく失望した、なんとなく。
「そういうのじゃねぇよ、俺は残念ながら奴の眼中にない」
まだまだだな、と肩をすくめている。的外れな失望を見透かされたことが、それなりに極まりが悪い。
「さすがの女たらしでも歯が立たないか」
「恋人持ちには手を出さない主義なんだ」
恋人がいるのか。そういったゴシップに興味を持つのも癪だからしれっと流す。あの仕事量をこなしながらどこにそんな時間が生まれるんだろう、と気になりはしたが。
麦野が仕事を再開する気配がしたため、俺も雪枝から受け取ったファイルを開く。
「あっ忘れてた」
素っ頓狂な声を出して麦野が椅子をぐるんと回転させた。
「さっきさおりちゃんが、月末のごたごたが片付いたら総務部の飲み会おいでって。木村も来る?」
さおりちゃんって誰だよ。
「総務部部長」
恐れを知らないのかこいつは。
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