第15話

 貸切の舟は、予定通り、昼過ぎに津結つゆの船着場に着いた。

 舟上でひんやりした風に当たって冷えた体は、温かな春の日差しを求めた。絢の通う学校の校門を窺える道沿いに丁度良い石段を見つけ、そこに腰を下ろすと、陽の光を浴びた。

 まだ授業中なのか、校舎の周囲はしんと静まり返っている。

 下校までには時間があるのかな。

 荷物に入れるかどうか迷ったけど、持って来て良かった。

 背にした包みから一冊の本を取り出す。何度読んでも飽きないその愛読書をパラパラとめくり、適当な頁から読みだす。

 数枚読み進めると、挿絵がある。ひとりの女の子に向かって流れ星が落ちてくる絵だ。墨で書かれているが、とても優しく温かみを感じる。その挿絵を指先でひと撫ですると、一旦本を閉じ、表紙をめくる。


 北山江きたやま こう 絵


 中表紙に記された名前———-姿も知らない、その人物の名前を、また指でなぞる。


「父さん……」


 僕は父さんの絵が好きだ。

 僕が生まれる前に父が残して行ったのは、数冊の本と胸にしまっている貝殻だけだ。絵描きをしながら、どこかに生存しているであろう父を想っても、顔は浮かんでこない。



 どのぐらい、そうしていたのだろう。読書に集中していたためか、人声に気がつくと既に校門から、ちらほら人の姿があった。

 しまったッ! いつの間にか下校の時間になっていたようだ。僕は急いで本を荷の包みにしまった。丁度その時、絢の声が聞こえた気がした。

 立ち上がり、包みを背負いながら校門へ目を向けると、やはり絢の姿があった。


「あ……」


 「絢」と名前を呼ぶつもりで声を張ろうとしたが……、僕にそれは出来なかった。

 そこには、奉公人の僕には入り込めない、別世界にいる絢の姿があったからだ。楽しそうに友人達に囲まれている絢。  

 ———-僕の知らない絢だ。

 絢は僕に気付くこともなく、向こうへ歩いて行ってしまう。

 ただ、少し遅れて出てきた煌士こうじだけが僕の存在に気付き、嘲笑って僕を一瞥した。煌士が小さい頃から僕のことを気に食わないと思っていることは分かっている。恐らくは、僕がいつも絢と一緒にいたからだろう、と予測はついている。

 彼はわざとらしく、大声で絢に近付き、話しかけながら去って行った。

 僕が絢のそばに居ない間でも、こうして絢を囲う人たちがいる。

 決して僕でないとだめな理由はない。

 僕にとって絢は誰よりも大事な唯一無二の存在なのに。

 絢にとって僕は、大勢の友人のうちのひとりでしかないのかもしれない。

 底知れない寂しさが全身を支配し、しばらくその場に立ち尽くした。広く果てしなく続く大海原にひとり取り残された様な孤独感に襲われた。



 どうやって帰路についたのか、そのうちとぼとぼ歩みを進めたらしい僕は、津結つゆから沙都さとまで何とか帰ってきた。

 沙都村の集落が見え、村の中心部へ差し掛かったところで、道の前方に若い男女が二人で歩いているのが見えた。


「姉さーんッ」


 呼びながら、姉の方へ駆けた。振り向いた真子まこは、驚いた様子でこちらを窺った。


「桜生ッ。え? 帰ってきたの? 明日の予定じゃなかったの?」


 動揺しながらも真子は笑顔で僕の両手を取り「おかえり」と言うと、嬉しそうにはしゃいだ。


「桜生、おかえり」


 真子の隣にいた低い声の主を見上げると、それは絢の一番上の兄、拓郎だ。


「拓郎兄さん、久しぶり」


 僕も首を少し傾けて二人に満面の笑みを送る。

 彼ら二人の顔を見ると、先程までの寂しさが少しずつ溶けていく。僕は姉の腰にぎゅっと抱きつき「ただいま」と告げた。


「絢ちゃんは和路先生の所だと思うから、寄って行ったらどう?」


 和路先生の所?

 少し疑問に思ったが、絢の家と和路医師は、普段から行き来する間柄でもあるし、用事でもあったのだろう。


「ううん。今日は疲れたから、このまま家に帰るよ」


 今は絢とあまり顔を合わせたくなかったし、その勇気もなかった。それに一人になりたい気分だった。


「あら、珍しい。こっちにいると絢ちゃん一色の桜生が、ふふふっ」


「笑いごとじゃなくて、本当に疲れてるからッ。じゃ、僕先に帰ってるね。拓郎兄さん、またね」


 真子にからかわれた恥ずかしさと、絢のことを話題にされた気まずさで、僕は二人を置いて、家のある山まで走った。

 我が家に着いて「ただいま」と声を張っても、返事は返って来ない。

 母のゆうも和路医師のところなのだろうか。和路医師の屋敷の一部屋で教室を開いているという母も不在だった。家の中にいても感じる、鳥のさえずりや山を抜ける風の音が僕の心を癒していく。

 荷物を置くと、その山の音色に誘われて再び外に出た。

 そうだ、桜の様子を見に行こう。

 さらなる癒しを求めて、桜を目指す。久しぶりの山の様子を手で触れ、目や耳で愛でながら木々を抜けて行く。

 今年も健在だ。

 見上げた桜は、崖の上で満開だった。満開の桜や山々の音に癒されようとしたのに、崖の上から眺めた山々の自然の壮大さに、僕は山の中で再び孤独感に襲われた。そして、桜花の下で、僕は膝を抱え顔を埋めた。知らぬ間に我慢していたのか、今頃になって溢れてくる涙を膝に押し付けた。

 しかし、涙は永遠に流れるものではない。流し尽くした涙の後、頭に浮かんだのは、緑助が話してくれた彼の妻、四葉よつばの生き様だった。

 彼女は、たとえ自分の命が短くなろうとも、彼女にとって最高の幸せを選択し、———緑助と夫婦になり、子を宿すことを望んだ。それでも「幸せだった」と言いながら命尽きたのだ。

 僕はどうだろう。

 僕の幸せは、絢が幸せであること。

 僕の大事な人達が幸せであること。

 いや……これは建前だ。

 本当は———絢と一緒にいたい。

 これが本音だ。

 そんな僕の背中へ「桜生」と後ろから声をかける者がいる。僕は立ち上がり、振り向いた。

 ……絢。

 先程遠くからは分からなかったが、近くで見るとまた少し大人に近づいたように見える彼女は、駆けて来たであろう乱れた息を整えながら、こちらに向かってゆっくり歩みを進めて来る。


「背、伸びたね」


 僕の正面に立つと彼女は僕にそう言った。「絢も」と告げると、彼女は恥ずかしそうに、はにかんで笑った。


「元気そう……だね」


 絢は一年前と変わらず、いつも通りに笑顔で僕に話しかけた。


「うん」


 絢の目を見つめていると、彼女を抱きしめたい衝動にかられた。しかし、一瞬、先程の絢の姿が脳裏をよぎる。学校から楽しそうに出て行く彼女の姿が……。思わず、絢から目を逸らしてしまう。

 絢と一緒にいたい。……のに、それを絢に押し付けていないだろうか。

 絢はどう思ってるの?

 僕の一方的な気持ちだけではダメなんだ。


「桜生、どうしたの? いつもみたいに……」


 いつもみたいに……僕が君に抱きつくのは友達だからじゃないんだよ。


「無理して、来なくて良かったのに。今まで気付かなくてごめん。絢も友達との付き合いがあるよね」


 絢の言葉を途中で遮った僕の口は暴走する。

 本当に伝えたい言葉はそうじゃないのに。 

 でも、本当のことを君に伝えてしまったら、君は優しいから、多分それを受け入れてくれるんだろうな。可哀想な僕を。

 絢の瞳を見つめて、それを眼だけで訴えてもどうにもならない。分かってもらえる訳がない。


「桜生、なんでそんなこと言っ……」


「絢はッ、絢は優しいから、そうやって僕なんかのために、傍にいてくれようとするんでしょ」


 僕は絢の話を聞く勇気もなく、彼女の瞳を見て話すことも出来なかった。


「桜生らしくないよ。どうしちゃったの? ね、桜生ッ」


「絢……。ごめん、少し一人になりたい」


 僕は、その場に絢を置き去りにし、家の中へ駆け込んだ。

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