童貞思考
木春凪
童貞思考
夜。雲で覆われた空には月明かりもなく、街全体はどこか重々しい雰囲気を纏う。
三月の風が、一人で街を行く俺にはまだ肌寒い。
コートを羽織り、マスクをした俺は好奇心と不安が入れ混じる感情のまま、ただ歩き続ける。
最寄りの駅は、初めて降りる駅だったが、どのように降りたのか、改札がどこにあったか、正直覚えていない。
できる限り、知り合いに会わないように気を付けたが、自分のことを不審がられないように逆に周りを見ないようにした。
そのような感情を抱く理由は、目的地にあった。
すれ違う通行人から顔を背けるように進み、たどり着いたのは、ネオンの明かりが怪しく光る看板のお店。
薄暗い夜の中で、自らの存在を主張するその建物は、住宅街から少し離れただけの場所にあった。
本当なら、もう少し、いや本当に人がいないような場所に建てて欲しかった。
通行人が俺のことを見ていたような視線を感じたことにも納得がいく。
そう、俺の目の前にあるのは風俗店だった。
俺は風俗店に入るために一人歩いてきた。
どうして? 簡単だ。
童貞を捨てるため。
現在、大学二年生。四月からは三年生になる。
彼女はいたこともある。ただ、そのような親密な関係になる前に別れた。
学部、サークルの仲間たちは次々に童貞を捨てていく。
飲み会で披露される甘酸っぱく艶めかしい猥談は、俺の下半身によく効いた。
これまで、風俗店などろくに調べたこともなかった俺であったが、まるで、単位を取るためのレポートを書くため、参考文献を調べ上げるかのように、ネットの波を必死で泳いだ。
その結果、ヘルスとソープの違いから、蟻、NSという業界用語まで学ぶことができた。
エロ漫画による知識だけで、すべての場所で望むようなことができると思っていた俺は、少なくとも今年で一番の衝撃を受けたと断言できる。
今回、俺が選んだ風俗店は、通称、ソープと呼ばれるものだ。出会ってすぐの自由恋愛を行うことができる特別な場所。
俺は今日、大人になる。
正直、ビビッている。そのため、電話予約は入れていない。
そのとき空いている娘を選ぶことができれば、なんか少しだけ運命とも思える気もした。
でも、準備はしてきた。
一応、身体も歯も磨いた。息子を元気にする飲み物を飲もうかとも考えたが、効能が怖くてそれは止めた。
それでも息子を甘やかす行為は、一週間も我慢したんだ。ぬかりはない。
俺は、優艶に青く輝く光に、少しずつ歩を進める。
ここまでこれば、もう何も怖くない。
はずだったのに……
心臓の鼓動が、やたらと大きく聞こえる気がする。
寒さのせいか、身体が、特に足が震えだす。
もし、上手くできなかったら、失望されるだろうか?
気まずい時間が、ただただ流れてしまうだけ?
興奮して、我を押えられずバットマナーをしてしまったら、どうしよう?
黒服を着た、イカツイ男たちにどこか暗い場所に連れて行かれてしまうのだろうか。
そんなことを考えている内に、俺は。
目的地だったはずのお店の前を、通り過ぎていた。
「情けねぇ……」
思えば、いつもそうだ。
前の彼女と付き合っていたときも、行為に及ぶことができる雰囲気になったことは何度かあったと思う。
そのときも、上手く出来なかったら、失望されるのではないか? 相手が初めてだったら、痛くさせてしまうかもしれない。まだ、早いか? 嫌がられたらどうしよう。
そんなことを繰り返しているうちに、すれ違うことが多くなった。
その後のことは、誰でも想像がつく。
「頑張って貯めたんだけどなぁ」
俺は、乾いた笑みを浮かべながら、コートのポケットから財布を取り出す。
そこに入っているのは三万円。
それくらい、と思われるかもしれないが、一人暮らしで、学費も自分で払っている苦学生にとっては、三万円はとても大きい。
本当は、お釣りがくるくらいかもしれないが、指名料、延長料金なども想定して多めに準備した。
我ながら笑える。
「……帰ろう」
今日は、そういう日ではなかったのだ。
寒いし、もしかしたら体調も良くないのかもしれない。
いつものように俺は、自分の弱さを別の何かのせいにして、今日も自分を守るように逃げる。
そのときだった。
「あれ、行かないの? お店」
急に人の声が聞こえ、俺は思わず背筋を伸ばす。
「……!?」
冗談ではなく、本当に心臓が止まるかと思った。
振り向くと、そこにいたのはベージュのコートに身を包んだ女性だった。
ショートパンツからスラリと伸びた細い生足はとても寒そう。
髪は明るい茶髪で、少し離れた場所にある街頭の明かりで薄く光っている。
黒のマスクをしており顔を見ることはできないが、大きな瞳から、きっと綺麗な顔立ちをしているんだろうなと思える。
「ごめん、驚かせた?」
身長は170センチの俺より少し低いくらい。
恰好は大人びて見えるが、声が幼い。
俺と同い年くらいだろうか。
「……あ、いえ」
俺は、酷く動揺して、上手く話すことができない。
というよりも、本当に俺に話しかけているのか?
もちろん、目の前にいる女性のような知り合いはいない。
「頑張って貯めたんでしょ? ここで使うために」
それ、と明らかに俺の財布が入っている方のポケットを指差される。
あ、これ、独り言聞かれていたやつだ。
サーと血の気が引いてから、一瞬。羞恥で顔が熱くなる。
女性に、風俗店に行こうとする姿を見られた。その上、直前でビビッて躊躇したところまで。
恥ずかしいという言葉以外で表現できない。
「……ただ、通りかかっただけ、なんで」
咄嗟に口から出たのは、苦しい言い訳だった。
我ながら、苦し過ぎていまにも走って逃げ出したい。
「恥ずかしがらなくていいと思うよ? お店、使っている人、たくさんいると思うし」
「あ、そうです、よね」
俺の言葉を聞くと、女性はくすりと笑う。
「きみ、童貞でしょ?」
「え、いや……どうでしょう」
突然の予想外の質問に、俺はまるで肯定しているかのように言葉を濁す。
これ、そうですって言ってるようなもんだ。
「いいの、今日。ここで捨てなくて」
「それは……」
俺は一体、何をしているのだろう。
この寒空の下、風俗店の近くで、見知らぬ女性に童貞扱いされ、尋問を受けている。
いや、実際に童貞ではあるが。
というか、そもそも、この女性は何者なんだ?
どうして、俺にわざわざ話しかけた?
「あの……」
「ん、なぁに?」
「あなたは……」
その続きを言いかけて、俺は気づく。
この場所にいる人なんて、二通りしかいない。
一つはこの近くに住んでいる近隣住民だ。ただ、その人が風俗店に入ろうとしていた男性に声をかけるメリットは皆無に等しい。
となれば、もう一つ。
風俗店に入ろうとしている利用者、または関係者、か。
女性が男性を対象とした風俗店に入ろうとしているなんて、あまり聞いたことがない。とすれば、彼女は関係者。
つまり、風俗嬢?
「……どう思う?」
俺の思考を察してか、女性はどこか挑発的な視線で俺を見る。
ただ、俺の考えの通りであれば、すべて納得がいく。
女性は風俗嬢で、店を利用するつもりだったがビビッてしまい素通りした俺を引き留めたのだ。お店を利用してもらうために。
俺は、思わず足元から上半身まで、女性の身体を視線で追ってしまう。
その視線が、コート越しの胸元まできたところで、女性はわざとらしく、両腕で身体を抱きかかえるように隠す。
「わかりやすいね、きみ」
「ち、ちが……」
俺は思いっきり視線をそらず。
目の前にいるのが、風俗嬢だと、そう意識してしまうとより緊張感が増す。
それと同時に、情けないことに下半身に少し熱が灯る。
「一緒に行ってあげようか?」
「えっ」
「お店まで」
思わぬ提案に、俺は素っ頓狂な声をあげる。
「それって……」
この女性と一緒にお店に行けば、その、できてしまうのだろうか、いろいろなことが。
「勇気が出ないんでしょ? 一緒なら、行けそう?」
マスク越しに表情は見えないが、きっと微笑みかけてけれているような、そんな優しい声。
汚れた心を持った俺には、いけそう、が違う意味にも聞こえた。
これは、チャンスなのではないのだろうか。
諦めかけていた自分を、ここまで後押ししてくれるような機会に、今後巡り合えることなんてあるのだろうか。
間違いない。
神が、俺に童貞を捨てろと言っている。
「……一緒なら、行けます」
俺の全身が熱を灯り、奮い立つ。
女性の方に、一歩近づこうとしたそのときだった。
あらためて、お店に入ると決めたことで、多くの不安が再び俺を襲う。
どこかすっきりとしない、モヤモヤとした感情が溢れる。
それは恐らく、不安という感情以外にも、本当に童貞を風俗で捨てていいのか、という思いもあるのだろう。
風俗店の前で、何を考えているんだと言われてしまうかもしれないが、男だって少々、ロマンチストな部分を持っている。
今後の人生の中で、何度でも思い起こすことができる、脱童貞が風俗店。
風俗店を貶したいわけではない。
それでもやはり、初めてはお互いに愛し合った相手とできることが理想だとは思う。
童貞ではない人に、この感情は理解できないかもしれないが、童貞はいつも自問自答しているんだ。
そして、いつも答えはでない。
理由は簡単だ、童貞を捨てる場所に、正解なんてないからだ。
そんな感情が渦巻く中で、ただ、盛りの付いたサルにはなりたくないと思う。
風俗通いするような財力もないし、誰とでも簡単に身体を許すような人間に、自分がなれるとも思わない。
俺はふと、足を止めた。
「どうしたの、行かないの」
女性は、足を止めた俺を見て、不思議そうに首を傾げる。
ああ、いまから俺は、これまでの人生の中で、一番もったいないことをすると思う。でもまぁ、それが俺か。
こんな面倒臭い性格なら、酔った勢いで何も考えず、悪友とお店に行って童貞を捨てた方が楽だったかもしれないなぁ。
でも、これが俺だ。不安で、臆病で、面倒臭くて、童貞で。
そんな自分も、結局は嫌いではない。
「や、やっぱり、やめます」
俺は女性の方を見ないようにして、話す。
「きゃ、客引きは……」
「え?」
「客引きは、法律で禁止されていると読んだので……」
風俗について調べている中で得た知識。お店の外で、お客さんを勧誘する行為は、法律、条令に引っかかる可能性がある。
「また、出直します……!」
「あ、ちょっと、きみ!」
俺はそう言うと、お店に背を向け、早足にもと来た道を戻る。
すごく、すっごくダサい。
それにせっかく声をかけてくれた女性に、申し訳なさもある。
それでも、足を止めることはしない。
少しでも早く、家に帰りたかった。
家に帰って、女性のことを想像しながら、息子を慰めてあげたかった。
そのとき、
「待ってっ」
「……!?」
後ろから、ポケットに入れていた腕を引っ張られる。
その反動のまま、振り返ると、そこにいたのは先ほどの女性だった。
「歩くの、はやいよ……」
少しだけ、はぁはぁと息を荒げているのは、マスクをしていて息がし辛いからだろうか。
でもどうして追いかけて……
そこまで俺に店を利用してほしいのか?
その強引さが少し怖くもあり、正直嬉しくもある。
生理的に受け付けないような男性を、わざわざ追いかけたりしないはずだ。
俺の心は再び揺らぎそうになる。笑えるくらい本能に赴くままだ。
「あのね」
黙っている俺を見て、女性はしていたマスクを外す。
俺が予想していた通り、顔立ちは整っていた。童顔でありながら、きめ細かい化粧から綺麗とも言えるような……ああ普通にかわいい。
「わたし、風俗嬢じゃ、ないから」
「……は?」
俺は目を丸くした。
いま、なんて?
「その顔、ほんとうにそう思ってたんだ」
女性はため息をつき、わざとらしく頬を膨らます。
「そんなに、お金を払ったらしてくれるように、見えるのかな」
まぁ、からかったのは私だけど、そう女性は少しだけ寂しそうにする。
「い、いや、ちがくて」
俺はその様子を見て、否定する。
「そういうふうに見えるとかじゃ、なくて……そうだ、あの店の前にいたし、その……」
「その?」
「……普通にかわいかったから、性的な目で見てしまいました……」
この場から消え去りたい。そう思うくらい恥ずかしかった。
「なにそれ」
俺の言葉を聞き、女性は楽しそうに笑う。
「きみ、それセクハラだよ」
「ご、ごめんなさい!」
俺はすぐに女性に向かって頭を下げる。角度は180度。セクハラという言葉に敏感な世代なんだ。
「冗談。ほら、顔上げて」
俺が恐る恐る顔を上げると、目の前にどこか見覚えのあるパスケースがあった。
「これ……」
「きみの。落としたの、気づかなかったでしょ」
俺は女性からパスケースを受け取る、中には定期券になっているICカードも入っていた。
交通機関、名前、間違いなく俺の物だった。
「声かけたけど、気づかないし、すごい顔してた。緊張してたんだね」
確かに、駅から降りた付近の出来事はあまり記憶にない。
「それに、この先、基本的にはあのお店しかないから。本当に行くのかなって少し興味もあった」
女性は少し、申し訳なさそうな顔をする。
「だから、謝らなくちゃいけないのは、私の方。ごめんね」
ずっと後をつけられていたと思うとしにたくなる。
「いや、定期券拾ってくれてありがとう、ございます。無くしてたら、正直きつかった」
俺は羞恥心を堪えるように言葉を絞り出す。
「でも、よかったら、今日のことは忘れてくださいお願いします」
俺はもう一度だけ、ゆっくりと、深々と頭を下げる。
こんなこと、他の誰にも知られたくない。
SNSとかで拡散されたくない。
「うーん。それは難しいかも」
「え!?」
なんで!? ここはお互いに見なかったことにして終わる流れではないのか。
「それに、敬語じゃなくていいよ」
「え……」
「定期券、少しだけ見ちゃったけど、たぶん私たち、同じ大学。しかも同学年」
「は?」
俺は顔を上げて女性を見る。
確かに定期券には、利用している交通機関や、年齢も書いてあるが……
「だって通学定期で、あの駅まで使ってるの、ほぼそうだし」
同じ大学……今日のことが女子の間で少しでも広まれば……
俺の大学生活、三年で終了が決定する。
「頼む、今日のことは……」
「もちろん、言いふらしたりなんかしない」
「神……」
俺はそのまま膝をつき、女性を崇める。
「おおげさ。でも、同じ大学なんだし、キャンパスで顔を合わせることもあるかも」
「それは……」
確かに、0とは言い切れない。
「そのときは……」
「?」
女性は、屈んでいる俺の耳元に顔を寄せると、
「いろいろ、よろしくね?」
そう囁いた。
「!??!」
俺は声にならない悲鳴をあげて立ち上がる。
いろいろ!? いろいろって、なんだ!?
女性の息がかかった耳元が、ゆでだこのように熱い。きっと赤い。
「あはは。きみの反応、やっぱりおもしろいね」
女性は嬉しそうに笑うと、俺に人差し指を向ける。その先は、
「今度は、捨てられるといいね。童貞」
俺の膨れ上がったズボンだった。
女性は俺にウインクをすると、また風俗店の方に向かう。
いや、正確にはきっと、自分の家が近くにあり、帰るということなのだろう。
「なんだったって言うんだ……」
俺は今日、風俗店に行こうとしただけなのに……
ちょうどそのとき、電車が来るアナウンスが聞こえる。
熱を持った下半身を隠すようにして、俺は立ち上がる。
「これはしばらく治まんねぇぞ……」
こんな羞恥プレイ、望んでいないのに。
俺はコートで下半身を覆うようにして、急いで電車に乗り込む。
小さく息を吐くと、鮮明に女性とのやりとりが思い出された。
情けなかったし、恥ずかしかった。それでも……
こんな感情をずっと楽しめるのであれば、童貞も悪くないのかもしれない。
ふと、そう思った。
その後、俺は女性と大学で再会することになるのだが、それはまた別のお話。
終
童貞思考 木春凪 @koharunagi
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