エンジェル・ラダーの差す方へ

岩井喬

第1話【第一章】

【第一章】


「はあ、はあ、うあ!? ぐっ、はあっ……!」


 その男は走っていた。それはそれは全速力で。身体全体をふわふわした感触に包まれながらも、足を止める気配はない。そんな余裕はない。


 肺は酸素を渇望し、全身の血流がこれでもかと早くなる。生身の人間の走行スピードではない。

 ではどうしてそんな駆け足で移動できるのか? 彼はとっくに人間ではなくなっているからだ。


 大型タンカーの内部に設けられた広大なスペース。彼はそこのキャットウォークを駆けている。


「は、早くイギリスの旦那のところへ……!」


 彼はある光景の恐ろしさに囚われている。それは死体の記憶だった。誰の死体かといえば、先ほどまで船内を闊歩していた自分のものである。

 つまり、彼は幽霊なのだ。既に死んでいると分かっていても、眉間を撃ち抜かれた時の衝撃ははっきりと身に沁みている。


 銃を向けてきた相手。あれは恐らく、日本の警察官だろう。連中は、前もってSATやSITといった特殊部隊を配していなかった。偶然の遭遇だ。

 男は自前の拳銃を抜こうとした瞬間、警告もなしに警察官に射殺された。自分が武器の出しどころを誤ったのだ。


 が、そんなことを悠長に考えていられるほど、彼は冷静ではない。

 今に警視庁からの応援が来る。どうにか足止めしなければ。それだけを考えている。そしてその任は、件のイギリスの旦那に任されている。


 船内では珍しい木製の扉に体当たりして、男は旦那の前に転がり込んだ。


「たっ、たたた大変だ、旦那! サツにバレちまったみてえだ! あいつら、俺を撃って殺しやがった!」


 殺された側の人間が口を利いて、なおかつ助けを求めると言うのも妙な話だ。

 だがそれは、イギリスの旦那――ジャック・テンバーにとっては些末なことだった。

 自分もまた命を落とし、百年以上もの時間が経過している。自分を殺されたと主張する輩に、仇を討ってくれとせがまれるのは日常茶飯事だ。


「落ち着け。俺は騒がしい奴は気に食わん。せっかくのティータイムなんだから、そんなに落ち着きのない態度を取るな」

「あ、ああ、すまねえ」


 男が素直なのは、旦那こそがこの船の用心棒だからだ。


「まったく、こんなにコカイン積んで密輸入なんてしようとするからだ、馬鹿が」

「わ、悪い……」


 男を責めるジャックの口調は柔らかだった。が、ジャックが戦闘態勢に切り替わったことは、男にも感じられた。

 かたん、とカップを置き、木製の椅子から立ち上がる。


 その姿は、時代錯誤もいいところだった。

 長めのトレンチコートにシルクハット。十九世紀末のイギリス上流階級、と言われたら、大抵の人間がこんな想像をするだろう。そのイメージは、ジャックにも当てはまる。

 

 今現在ここ、すなわち東京湾横浜港は、春から夏に衣替えをする時期だった。夜間は未だに冷え込む。

 それを考えれば、ジャックの服装は奇抜なものではない。しかし、すっと通った鼻筋や青色の瞳を見れば、明らかに外国人だと思われるだろう。


 彼の姿が見えるのは、同族である幽霊たちくらいのものだが。

 姿の見えない相手にタンカーの護衛を任せるとは、まったく最近の人間の考えることは分らん。

 そう胸中でぼやきながら、ジャックはコートの内側を確認。片側に五本ずつ、計十本の投擲用ナイフが仕込まれている。


「さ、さあ、早くサツを追い払ってくれ! でないと俺は無駄死にだ!」

「分かった。分かったからもう喚くな。おい、エンジェ!」


 天井に向かって、ジャックが声を上げる。すると、天井をすり抜けるようにして小人が一人、舞い降りてきた。

 体高は三十センチほど。純白のタオルで全身を巻き、頭には天使の輪っか、背中には、神々しいまでの光を放つ羽。全体的に幼い感じからしても、天使そのものだ。


 その姿に見惚れながら、男はごくり、と唾を飲んだ。


「今回はこの人の裁定をすればいいの、ジャック?」

「ああ、そうだ」

「ふぅん……」


 エンジェはじっと、男の目を覗き込んだ。


「あっ、あの、旦那、これは……?」

「うん、殺人や強盗には関与していないみたいだね。下っ端だ」

「了解した、エンジェ」


 ひざまずく格好の男の前で、ジャックは葉巻をくゆらせている。

 すると再びエンジェは男と目を合わせ、こう言った。


「あなたは今、死にました。今からあなた、そしてあなたの魂を天国と地獄のどちらに送るか判定します」

「は、判定、って……」

「はい! あなたは辛うじて天国逝きです! おめでとうございまーす!」


 何が何なのか分からない様子の男。その前に、これまた天井をすり抜けるようにして梯子が下りてきた。


「これをしばらく上っていくと指示係がいるから、案内に従ってね!」

「は、はあ……」


 男はまるで催眠術にでもかかったかのように、ゆっくりとその階段を上り始めた。天井で頭をぶつけそうになったが、霊体である彼には通り抜けることが可能。

 そのまま何を語るでもなく、男の幽霊は天に召された。

 梯子はだんだんと薄くなり、ぱっと金粉を撒いたように煌めいて消え去った。


「なあ、エンジェ」

「何? ジャック」

「お前、最近犯罪者に甘くないか?」

「そう? でもあの人、重病のお母さんの医療費を賄うためにこの麻薬運搬に携わったみたいだよ? 無下に地獄に落としちゃ可哀そうだよ」


 ジャックは長い溜息をついて再び立ち上がり、壁をすり抜けながらこう言った。


「そろそろ俺も仕事をせんとな。ただ働きは性に合わん」

「そうだねえ」

「おい、何が、そうだねえ、だ。ここから先は戦いになるだろうから、お前は引っ込んでろ、エンジェ」

「はいはい、分かりましたよーっと」


 それだけ言って、エンジェはまた天井をすり抜けて消えた。


「さて、日本とやらの警察はどのくらい強いんだか」


         ※


 同時刻。

 一台の黒塗りのバンが、横浜市街地を走っていた。警察の人員輸送車だ。六人の刑事が搭乗している。


 今日の任務は、夜間に停泊している大型タンカー内の捜索、及び違法薬物の押収だ。


 皆が同型のリボルバー拳銃の最終調整に取り組む中、ひたすら熱心に手入れをする人物の姿があった。紅一点、女性刑事だ。

 髪はばっさりと肩口で切り揃えられ、冷静さを具現化したような顔つきをしている。目つきは鋭く、鼻はやや高い。口は真一文字に結ばれ、外界との接触を遮断しているように見える。


 そんな彼女の手に収まっているのは、小柄な彼女には不似合いな、巨大で大口径のリボルバー拳銃。

 実戦では使うべきでないと日々言われているが、これだけは何があっても手放さないという。だからこそ、ややこしい事態が起きる。


「あれぇ? 矢野さん、まだそんなデカい銃使ってるんすかぁ?」


 隣席の同僚がからかってきた。まあ、このメンバーの中で女性刑事――矢野麻琴・巡査部長が極端に若いということも、からかいに拍車をかけているのだが。

 ちなみに麻琴は、先週ようやく二十歳を迎えたばかり。警察学校を飛び級で卒業した、かなり頭のキレる人物。


「そんな矢野麻琴さんともあろう方が、どうしてそんな拳銃使ってるんすかぁ? 対人で使ったら四肢吹っ飛んじゃいますよぉ?」

「……」


 麻琴は無言。こういう連中に一番効くのは、無反応でいることだ。


「最悪、証言を得られそうな犯人を射殺しちゃったらぁ、矢野先輩の責任問題に――」

「そのあたりにしておけ」


 前方の助手席から、重い声が飛んできた。麻琴にとっての直属の上司、早川警部補だ。

 静まり返る輸送車。だが麻琴にとってはどうでもいいことだった。


 自分は強い。誰にも負けない。男性だろうが女性だろうが、ライバルの存在は決して認めない。そう自己暗示をすることが、麻琴をますます孤立させていた。

 それも、彼女にとってはむしろ好都合だったが。


「到着まであと七分」


 運転手の声が、荷台の中で跳ね回る。

 麻琴は、セーフティをかけた愛銃を脇に吊ったホルスターに戻し、すっと深呼吸。


 するとちょうど、こちらに身を乗り出す早川と目が合った。

 

「無茶するんじゃないぞ、矢野」

「了解」


 無感動な声を喉から押し出し、矢野はぱちんと頬を両手で打ちつけた。

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