第20話 いのちの重さ

人生において、予想外のことなど多々起こりうる。生きていくうちに経験値を積み重ね大人になっていくが、それでも初めての経験というものに遭遇することもある。

人が目の前で飛び降りる瞬間なんて、そうあるものでは無い。いや、日常の中でほぼありえない。


「ママ!」

誠を自宅まで送る途中、公園横を流れる川の橋の上に、母親の瑠香が立っていた。

髪はボサボサ、表情は虚ろで、欄干に手を置いている。

息子の声に反応することもなく、突然足をかけ身を乗り出すと、そのままドボン!と水中に落ちた。

「うそっ!?」

急いで駆け寄り水中を除くと、力無くもがく瑠香の姿があった。

「ワンワンワンワン!!」

ナナも不穏な空気を感じ興奮して鳴き声を上げる。


どうしようどうしよう!!

心中穏やかでない。

必死に平静を取り戻そうとジタバタしながら、

まずはスマホを取り出し緊急通報をした。

うわずる声で状況を説明しながら、瑠香が徐々に沈んでいくのが見えた。


まずいっ!!このままじゃ消防が来るまで持たないっ。


イチカバチカ…


「誠くんっ、ここで待ってて!! ナナ!後は頼んだよっ」

「ワォン!」

高さはそんなにない。

意を決して、光は川に飛び込んだ。


ザパーーーン……


水泳ずっと習っててよかった。

そんな雑念がちらっと頭をよぎりながら、瑠香の身体を支える。

水深はそんなに深くないが、立ち泳ぎでも足はつかない。このまま沈んでしまえば、小柄な瑠香は水を飲んで溺れてしまうところだ。

初秋の夕暮れ、水温は当然の如く冷たい。

ピリピリと冷感刺激が毛穴の奥までささる。

身を切るように痛い。


水中に落ちたショックか意識を失っているので、暴れないから救助がしやすかった。

衣服が水を吸って若干重たくはなっているが、細身で痩せ型の瑠香なら浅瀬から担いで岸に上げることができた。

「ママっ、ママ!!」

ナナに引率され、泣きながら誠が降りてきて駆け寄る。

この川はコンクリートで舗装されているので、落ちた場所が悪ければ頭を打って即死だろう。

水中でまだよかった…

泣き叫ぶ誠の姿をみて、光は心底思った。

身体を横にして寝かせると、かすかに息はある。脈もふれる。

救急車のサイレンが響き、到着後速やかに病院へ搬送された。誠も同乗し側についていた。

ギュッと握りしめた母親の手は冷たかっただろうに。

誠の心中を察し、光は冷えた指先の痛みより胸が痛んだ。


誠が打ち明けてくれた、母親が自分の前で死のうとしたという話。

にわかには信じ難かったが、川に飛び込むところを目の当たりにして、寒さだけではなくショックで身体が震えた。

1歩間違えれば、目の前で命が消えてしまう瞬間だった。

しかも自ら命を絶つという、センセーショナルな出来事。

幼い誠の心に、それがどれだけの傷を負うこととなるのか。想像にかたくない。


駆けつけた警察の人にタオルと毛布をかけてもらい、事情聴取に応じた。

目撃した状況を伝え、経緯を説明した。聞けば大山瑠香は最近精神的に不安定な状態が続き度々警察に保護されることもあり、巡回や見守りを強化していた矢先の出来事らしい。

「僕は誠くんとも知り合いなのですが…なんて言うかその…虐待になるのではないですか?彼の境遇は。服も洗濯されず食事も満足に与えられていないようで…。目の前で母親が自傷行為する姿を見せられるというのも辛すぎます。児相に相談するレベルの問題では?」

思いきってずっと気になっていたことを尋ねてみた。

警察のほうでも動いており、おそらく今夜は母親が入院することになるので、児相を通じて保護されるとのこと。

それを聞いて一安心した。

とりあえず毛布などを借りたまま、一旦自宅に戻って身体を温めることにする。

「クション!!」

このままでは風邪を引いてしまいそうだ。


だいぶ日も傾いて、余計に気持ちも寂しくなる。

とぼとぼと肩を落とす帰り道。

水中で抱えた瑠香の重みに、いのちの重さを感じた。

それと同時に、すぐにでも壊れてしまうような、水の中に溶けてなくなってしまいそうな儚さをみた。


生きていてほしい。

そう思うのは他人のエゴなのか。

本人は、生きていくのが辛いと思っているのなら。

けれど残された子供は…ひとりぼっちになってしまう。

「生きていってほしいよ…誠くんのためにも」

生きていればいいことがある、なんて無責任に軽はずみなことを言えない。

死を選ぶ背景は人それぞれ、いろいろあるはずだ。

中には精神的な病で発作的に、ということもあるだろう。

だからこそ、孤独にしてはいけない。

必要な支援を、手助けをすれば、救える命がある。

そうすれば、悲しむ人間がひとりでも減るはずだ。

「人は、生まれながらに幸福を追求する権利を有しているのだから」

絶望で人生を終わらせるんじゃなく、幸せだと思える人生を歩んでほしい。

光は心からそう願った。

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