第12話 時間の錬金術 後半
瞬きを終えて俺の目が開かれたとき、まばゆいばかりの光と共に瞳孔に映ったのは思いがけないほどに近づいた彼女の姿だった。
もう、抱きとめることもかわすこともできないだろう。
この姿をはたから見ているものがあれば、おそらく倒れようとしている彼女を素早く支えようとしているのではなく、倒れこもうとしている彼女に対し、素早く下敷きになろうとしているように見えることだろう。
そしてそれは決して避けられそうにない。
もうじき、この超スローモーションの世界で倒れた俺のその顔面に、彼女のたわわに実った胸が落下してくる。
これはもう絶対に避けられない。
不幸な不幸な事故なのだ。
俺の顔面をふたつの丘が挟み込むように落下してくる。柔らかなそれが俺を包み込み、その圧力で呼吸ができなくなる。
一瞬焦りもしたが、このスローな世界で呼吸ができないのはほんの一瞬のことであり、呼吸ができなくなったからと言って苦しいと感じるほどではない。
俺の視界は完全に彼女のブラウスシャツに阻まれ何も見えなくなる。
それはほとんど天国の光景に思えた。
彼女の柔らかさと、
あたたかさ。
それと甘い匂いに包み込まれ、極上の幸福を味わった。
俺が彼女を受け止められなかったばかりに、彼女は俺の死に対して責任を感じてしまうことになるかもしれない。それなのに俺はこんなところで幸福を感じてしまっていることに背徳感が抑えられない。
つい思わず、
「幸せだ」
そうつぶやいてしまった。
「え?」
つぶやいている自分に驚きを感じた。
それは、決してスローモーションではなく通常の速度で自分のつぶやいた声が聞こえているのだ。
冷静さを取り戻すため、大きく一つ深呼吸をする。
甘い香りが脳内を駆け巡り、幸福感が全身を駆け巡る。たわわなその胸に圧迫されて息苦しく感じる世界に生きる喜びを感じている。
「きゃ、きゃあ。ごめんなさい!」
慌てて体を起こし、あおむけに倒れる俺に馬乗りになった彼女の姿が確認できた。
時間が、通常通りに流れている。
超スローモーションになっていた世界は実質一、二秒ぐらいだったのだろう。この程度では俺の心臓が二十億回も動いていたわけではなく、すぐに死んでしまうということもあり得ない。
無論。それなりに心臓を鼓動させて寿命は縮んでしまったのかもしれないが、それ以上に生きる希望も与えられた。
全身に、今までないくらいに生きる希望に満ち溢れている。
馬乗りになっている彼女の真下の俺の一部が、これでもかというほど生きているという活力をみなぎらせている。
「ああ、生きていてよかった……」
そうつぶやく俺の上で、彼女は頬を赤く染め上げた。
薬品の瓶を倒してしまったばかりに究極の媚薬を作るのではなく、時間をスローモーションにする薬を開発した。
正確に測っていないレシピで作られたそれは改めて研究しなおすことで画期的な薬品となりうるかもしれないが、いかんせん伴うリスクが大きすぎる。ひとまず俺はこのレシピを封印することにした。
しかし思えばそれを飲んだ俺は間違いなく正面にいた彼女のことをすっかり好きになってしまっているわけで、あるいはこれが、正確に出来上がった媚薬の効果だと考えることだってできる。
さて、どうやら俺は死ぬこともなく彼女に対する思いに気づいたのであるから、先ほど考え至ったようにどこかでこの思いは伝えなければならないのだろうとは思う。
が、さすがに今すぐというほど簡単なものではない。
かといってこのまま時間が止まって待ってくれるわけでもなく青春の時間はおそらくものすごく短い。
だから、いつか、そのうちきっと……
了』
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