3章 『変身』カフカ著 を読んで 笹葉時文
第8話 ある、朝笹葉時文が目を覚ますと……
『変身』カフカ著 を読んで
笹葉時文
よく知っているようで知らない天井。果たしてあんなに壁紙は黄ばんでいただろうか、いつから天井の梁があんなに味わい深くなったのか。
もっと詳しく観察しよう。布団から起き上がろうと腹筋に力を入れたが……
――動かない。
眼球だけを動かして自分の体を見る。瞬間、視界がぼやけてしまう。しかしそれはすぐに何もなかったようにだんだんと焦点が絞られてきた。薄いタオル生地のブランケットが一枚あるだけ。薄い水色の木綿のパジャマを着ている体は縛られている様子はない。
喉が渇く。腰のあたりがひどく痛い。
どうやら体がひどく疲れているだけらしい。ゆっくりと力を入れればどうにか寝返りは打てた。
いったいどうしてこんなに疲れているのだろう。考えても上手く思い出せない。昨日の出来事がはるか遠い昔の出来事のように思える。
目をつむって、思い出せることだけ思い出してみよう。
俺の名前は……、笹葉時文。……二十六歳。
三年前に結婚した。仕事は電気工事事業。
妻の妊娠をきっかけにマイホームを建てた。
仕事柄、建築関係の友人も多く、田舎の方に割と安価に立てることができた。
昨日も俺は愛妻弁当を持って現場に向かった。新幹線の高架を建設している。
昼、弁当を食べて……、それからの記憶があやふやだ。
考えても考えても上手く思い出せない。
あきらめて……、目を開く。
やっぱり視界がぼやけている。が、時間がたてばまた見えるようになった。
殺風景な室内。ドアの位置、窓の大きさ、本棚の形。間違いなく俺の家だ。
しかしずいぶんとくたびれている。窓の外から見える風景だってあんなじゃなかった。
この部屋からは妻の趣味の園芸のために広く用意した庭が見える。それはちいさなちいさな植木が並んでいたはずだ。それがまるで林のように生い茂っていて、遠くの景色などはまるで見えない。隙間からこぼれてくる木漏れ日が幾多の光線となって、初夏の室内を舞う埃をきらきらと瞬かせている。どこか幻想的で、なるほどそうか、俺はまだ夢から覚めていないのだと疑いもしたが。頬をつねるまでもなく、腰の痛みが現実だということを物語っている。
本棚にはたくさんの本が整然と並んでいる。知らない本もいくつか混ざってしまっているようだが、そのほとんどはなじみの深い者たちばかりだ。この点で言えば間違いなくここは俺の家だ。そして俺の部屋。
本棚に上に、昨日読んでいた本がある。他の本とは違い埃をかぶっていない。おそらく昨日読んでいたというのは間違いないらしいがやはりずいぶんとくたびれている。
〝ウェルズのタイムマシン〟まだ途中までしか読んでいなかったが実に面白い。
ふと、もしかして俺はタイムマシンに乗ってしまったのだろうか。目が覚めたのは未来の俺の家。
解らないことだらけだが、解ることだっていくつかはある。
まあ、世の中なんてそんなもんだ。わかることだけを積み上げてその上に納得して胡坐をかく以外はどうしようもない。
なんてな。こういう知ったような口をきくことが妻の癪に障るらしい。
解らなければ調べてみればいい。それに……、さっきから湧き上がる尿意に対して我慢は限界に近くなっている。
酷く軋むような体をひきつらせながらベッドを下りた。壁に手をつかなければ立ち上がれないほどに体が疲労を訴えている。それでも鈍く悲鳴を上げようとする背骨をいたわり、曲がった腰のまま歩きだす。寝室の引き戸をスライドさせ、居間の方へと赴く。
まったくもって知らない居間。まるでさっきの引き戸一枚隔てて、本当に未来に旅してしまったような錯覚に落ちいった。
天井に空いたいくつかの穴から照らされる照明はシャンデリアなんかよりもずっと明るい。
テレビはないが、替わりに(替わりといっては差し出がましい)壁には映画のスクリーンのようなものがある。薄く、ほとんど板といってもおかしくない。しかもフルカラー。
フルカラーを超えるフルカラーだ。鮮やかな色合いはそこに実在しているかのように繊細だ。
目を奪われて、息を呑み、振り返る。まるで機械で出来たような台所で作業している女性。
俺に気づいた女性がふりかえり、俺は安堵した。
石膏のように白い肌、肉付きの良いたわわな体に膨れ上がって潤んだその桃色の唇、大きな目と長いまつ毛に銀縁の眼鏡がよくにあっている。
だが、違うと言えば確かに違う。いつもよりも表情が少し柔らかく、穏やかに見える。少し疲れているのかいつもよりも幾分老けたようにも見えるし、記憶の中では黒髪だったはずの彼女が茶色い髪になっている。服装も清楚さが感じられないけばけばしい格好だ。
だからと言ってそれが別人であるはずがないことには確信がある。
寝ても覚めても、たとえ百年時がたとうが忘れることもなく、愛し続けると誓った妻だ。
解らないことだらけだが、彼女さえいてくれるならここがどんなところだって生きていけるだろう。
「あら、あなた。起きたの」
微笑むその笑顔に自然と自分の顔がゆるむ。俺は痰の絡む喉を一度鳴らして調子を整えてからいつもの通り挨拶をした。
「おはよう、小夜」
「あなた、それより早く顔を洗ってらっしゃい。もう朝食の準備はできていますよ」
「あ、ああ」
言って、居間の向こうを見る。ここが俺の家ならあの向こうにトイレがあったはずなのだが……」
「場所、わかるでしょ」
「ああ、もちろんだ。ここは俺の家だからな」
トイレの方に向かっていき、ドアを開けた。後ろの方で妻のクスクスとした笑い声を感じた。
洋式トイレ……。躊躇せざるを得ない。しかも何だか知らない装置やらスイッチがたくさんある。まるでアポロ11号のコクピットを連想させる。適当なボタンを押して宇宙まで飛ばされてしまわないかが心配だ。
どうにか用を足し……、さあ、どうすれば水を流せるものか……
宇宙まで飛ばされないためにもここはできるだけ余計なボタンは押したくない。
水のマーク。噴水型の水のマークがある。おそらくこれで間違いないだろう。意を決してスイッチを押した。
「ああああああああああああああああ………………」
世にも恐ろしい出来事だった。宇宙に飛ばされた方がまだ、マシだったかもしれない。
トイレの外で妻が笑い声をあげているのが聞こえた。
トイレを出たとこで妻は俺の方を見て涙目になっていた。目を反らし、フライ返しを持った手を口に当てて笑っている。
いたたまれなくなって、となりの戸を開けた。そこは確か洗面台のはずだ。
浴室と隣にある洗面台の横には大きな宇宙服のようなものが置かれていた。白い大きなボディーに半ドーム型のカプセルのような窓がある。恐る恐る覗いてみると中にタオルやら衣類やらが入っている。どうやらこれは洗濯機のようだ。呑み込みの早い自分の冴えわたる脳にひとまず安心し、この不可解な世界に少しずつ順応してきた。
が、その洗濯機の黒いドーム型の窓にふと、恐ろしいものが覗いていた。
宇宙服を覗き込むエイリアンのような存在。中にいるのではない。明らかにその窓に写っているのだ。
ドーム型の窓に写っている。自分の替わりに写っている……。恐ろしくなって自分の手を顔に当てると、やはりエイリアンも自分の顔に手を当てる。
痛む体を起こし、急いで洗面台に向かった。
間違いなくそこに写っているのはエイリアン。いや、ヨボヨボのジジイになった自分の姿だった。
少し前に読んだ本に、朝、目が覚めると毒虫になっていたという話があった。
が、俺は朝起きるとジジイになっていたのだ。
失意の中ジジイになってしまった俺は居間のテーブルに腰かけた。
さっき笑っていた妻は何事もなかったように、まるで毎日の繰り返しのように何食わぬ顔でコーヒーを淹れ、俺と向い合せに座った。
すっかりジジイになってしまった俺に対して妻はいたって若くて美人だ。いや、しかしそう言われてみれば少し老けてしまっているように見える。それに幾分痩せたようにも見える。しかし、自分の年の老い方に比べればまだまだ全然である。タイムスリップしたにしても妻と俺とではその跳躍時間に違いがあるのはあきらかだ。
痩せた? そういえば妻は妊婦だったはずだ。もうそろそろ娘が生まれる予定のはずだ。
だが、向かいに座ってコーヒーを飲んでいる妻のおなかはまるで出っ張っていない。
「お、おい、俺の娘。俺の娘はどうなったのだ」
妻は少し呆れたような顔で言った。
「今日はまだ気づいてないのね」
今日は……、と言われて戸惑う。だったら昨日は何に気づいたというのだ。そんなことより俺の娘はどうなった?
その時、今から二階へとつながる階段から降りてくるものがあった。
「お母さん、まだ教えてないの?」
手に何か四角いものを持った少女が階段から降りてきた。年のころは十代半ばと言ったところで、つややかな黒髪と白い肌。黒縁の眼鏡をかけた大きな黒い瞳は出会った頃の妻の姿に瓜二つだ。
「お、お前が俺の娘なのか?」
少女は四角いものから視線を上げ妻のほうに視線を送った。
「あなたの娘はわたしよ」
と、妻が言った。
では俺の妻は、俺の本当の妻、小夜はどこにいる。
娘と名乗る女性と見つめあい、静かに彼女はコーヒーに口をつけた。
俺もそれを真似るようにコーヒーを口に向かわせる。
熱いコーヒーはジジイの喉に痛烈に感じる。食道から胃に向かってゆっくり降りていく熱い液体の位置がはっきりとわかる。しかし、歳のせいか若いころに比べて苦味はあまり感じない。
前向性健忘症。
――俺の記憶は一日しか持たないらしい。眠ってしまえば終わりなのだそうだ。
今から約五十年前、電気工事の仕事をしていた俺はその腕を買われ時代の最先端ともいえる新幹線の開通工事をしていた。大阪――岡山間をつなぐ路線。時代はその完成を待ち望み、その仕事に従事している俺自身、それを誇りに思っていた。
完成間もなく控えたある日、配線のわずかなミスで放電が起きたらしい。その時に起きた放電を受けた俺は意識を失った。何事もなかったように正気を取り戻したのだが実はそうではなかったそうだ。どうやらその日を境に俺の記憶は一日しか続かなくなっていたというのだ。
仕事を覚えることのできない俺は職を失った。会社から労災保険が振り込まれるようになりその後の家族が餓えることはなかったらしいのだが……
――俺は職を失ったのではない。未来を失ったのだ。
二十六年間生きてきた記憶はある。それから一日過ごすとまた元のところに戻る。どんなことをしても一日以上先に進むことができない。すごろくの向こう六マスが全部元の場所に戻ると書かれているようなものだ。
眠らなければ記憶は失われない。そう気づいた俺は何度か眠らないよう努力をしたこともあったらしい。
だがそれは人間にとって無理なことだったようだ。眠らないように無理な刺激を受け続けながら過ごしたこともあったらしいが限界は意外とあっけなく来る。もうこれ以上眠らないでおくなら死んだ方がマシだと思うそうだ。
そして、俺は毎日夜になると死んでいく。今日一日生きた俺の記憶は蓄積されず、この世から完全に消え失せてしまうのだ。それは眠りにつく瞬間、死ぬことを意味する。
明日の朝になればまた二十六歳の俺が生まれてくる。それだけのことだ。
俺は毎日死んでいるのだ。
眠っている間に記憶を整理すると言われている。俺の脳は整理するのも面倒になって全部消してやり直しという選択を取り続けているらしい。
それから五十年。
初めのうちはまだよかったそうだ。記憶の中の自分と現実の自分にあまり違いがないのだから。
ただ、記憶と少しだけ変わった現実を受け入れるだけのことだ。
朝、起きると少しだけ未来にタイムスリップするみたいなものだ。
だが、そのタイムスリップの期間が大きければ大きいほど悲惨なものになっていく。
朝、起きると子供が生まれている。
朝、起きると成長した子供がいる。
朝、起きるとオッサンになっている。
朝、起きると娘が結婚していた。
朝、起きると孫が生まれていた。
朝、起きると両親が死んでいた。
朝、起きるとジジイになっていた。
朝、起きると最愛の妻がこの世を去っていた…………
何事もなかったように繰り返される毎日の中で確かに変わってゆくものがあったのだろう。
それでもその記憶のすべてが俺にはない。
今まで何度朝、目覚めてその絶望を感じてきたのだろう。その絶望の記憶さえないというのだから救われているようなものだ。
「ねえ、おじいちゃん」
妻の生き写しのような、更紗と呼ばれる孫娘は優しく語りかけてきた。
「おばあちゃんはずっと幸せだったのよ。お母さんが生まれて、そして、ウチが生まれて、それにおじいちゃんと仲良く暮らして。
おばあちゃんはその人生の最後の日にウチに言ったの。おばあちゃんがおじいちゃんのことをずっとずっと大好きだったことをこれからもおじいちゃんに伝えてあげてほしいってお願いされたのよ。
だからウチは昨日も今日も、そして明日もあさってもおじいちゃんに伝え続けてるの。
おじいちゃん。大好きだよ。
あ、これはもちろんウチの気持ちも含めてだよ。おかあさんもお父さんもみんなおじいちゃんが大好きなんだよ」
そういって孫の更紗は笑ってくれた。
そしてまた、手に持った四角いものを触りだした。
「さっきから何を触ってるんだ?」
「これ? スマホよ」
言いながら俺に良く見えるように持ち上げて見せてくれた。四角い板に写真が張り付けてある。とても鮮明な色合いだ。
「昨日ね、ようやく買ってもらったの。本当は一四の誕生日に買ってもらう予定だったのに、お父さんが急にダメだとか言い出すから説得して買ってもらうまで一か月もかかってしまったの。ウチの誕生日は七月七日なのよ」
それを聞いて納得したことがあった。
「ああ、それでサラサという名前なのか。サラサなんて変わった名前だと思えば笹葉だから笹の葉さらさらだな」
「よく言うわ。この名前、おじいちゃんがつけてくれたって言うじゃない」
「なんと、俺はそんなにセンスのない名前の付け方をしてしまったのか」
「つけられたほうの身にもなってよね」
「いや、それはすまんな……」
しかし、その『手(しゅ)魔法(まほう)』という機械はすさまじいものだった。はじめのうちは動く本なのかと思いきやテレビにもなるし辞書にもなる。もちろん新聞だって読めるし電話にもなるどころか手紙まで送られてくるというのだ。まったくもって手先で操る魔法としか言いようのない不思議な機械だ。ぜひ、自分も一つ欲しいと思いもしたが、明日になれば記憶を失ってしまう俺が使いこなせるようになるとは到底思えない。
「ところで、その手紙はどこから送られてくるのだ?」
「どこから? うーん。空じゃない?」
「空から手紙?」
よくわからなかったが、空から手紙が送られてくるというのなら、死んでしまった妻に手紙を送ることだってできるのだろうかと考えてみる。伝えられなかった言葉がたくさんある。
いや、もしかするとちゃんと過去の俺が伝えてくれたのかもしれない……
――無理だろうな。あいにく俺はそういう器用な男ではない。きっと失ってからでないと大切なことだと気づけないような愚かな男だ。
せめてもの救いは素晴らしい家族を持てたというこの現実だけだ。
だが、それを納得したからといってすべてが救われるというわけではない。
孫の更紗はどうやら読書が好きらしい。その日も朝から近所の図書館へ向かった。妻の小夜もそうだった。だから家を建てるときの図書館の近いこの場所を選んだのだが、それで
俺も読書をするようになったわけだがこんなところにちゃんと遺伝しているのかと思えば少しは救われる。
明日がやってこない今日の俺自身、一体何をして過ごしたらいいのだろう。なにかを経験したとして、今日の終わりとともに死んでしまうのなら、いまさら何をすればいのかなんて到底わかりっこない。
若いころによく今日で死ぬとなったら何がしたい? などとふざけて話し合ったものだ。
うまいものをたらふく食う? それともいつも食べなれたものを食べておきたい?
そんなことどっちだっていい。
何にもしないで寝て過ごす? それは馬鹿だな。
思い切り笑いたい? いまさら何に対してそんなに笑うことが出来るだろうか。
一番大切な人と一緒に過ごしたい?
……もう、いなくなってしまったのだな。
なにをするにもやる気なんて出てこない。つい昨日までは胸の中に燃える石炭のような情熱があったように思える。だがそれは実は五十年も昔のこと。知らない間に消し炭になってしまっていてくすぶることさえあり得ない。
未来がないとはそういうことなのだ。
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