シン•異世界演義 〜関羽伝〜

蒼之海

一幕 戦神の最期

 肌に染み込み骨をも凍てつかせる疾風が、本格的に冬の到来を告げていた。

 時は建安24年。場は麦城より北部三里(約12km)の呉陣営。

 篝火は闇夜を照らすと共に、成し遂げた偉業の興奮を天に届けと煽り立てていた。呉軍全体が、余すことなく震撼している。


 それは至極当然のこと。呉軍が高ぶるのも頷ける。


 上げた武功は数知れず。各地の講談師によりその勇壮さは誇張を含んで語られて、あるいは誇張なしにその鬼神の如き圧倒的武力が流布されて、中華全土を駆け巡る。まるで御伽噺でもあるかのように。 


 その名を轟かせるは、生ける戦神。名は、関羽雲長。

 荊州の民草からは神にも近い信仰を受ける彼が、よもや捕らえられるとは。


 ††††††††


 呉軍の一兵卒から将校までもが、感情のままに咆哮を解き放っていた。

 ある者は、まるで自分が捕縛したかのように誇らしげに。

 ある者は、伝説化しつつある戦神の姿を己がまなこに写したした亢奮こうふんを。

 またある者は、彼の武名を惜しむあまりに悲嘆の声色で。


 様々な雄叫びが坩堝と化して混ざり合い、激しい気炎と変化を遂げ黒い空を焦がしていた。

 興奮冷めやらぬ兵の波々を割るように、武装した数人の護衛に囲まれて渦中の人———関羽が練り歩いてくる。


 身の丈九尺(約216cm)もの大男の手にはきつく結ばれた縄。自慢の髭も泥まみれ。身を包む鎧も黒赤く汚れ、施された精緻な細工もすっかり色褪せてしまっている。


 だが、歩く姿はまさに威風堂々。


 背を反り胸を突き出して、どうだ我が姿を見よ、とでも言いたげに。敗戦の将とはとても思えない。行き違う兵たちを睥睨しながら進んでいく。

 流砂の如く大陸の隅々にまで届き渡る関羽の名声と、数えきれない武功、伝承。

 少なからず語り継がれる話というものは独り歩きをしてしまうもの。

 しかしながら、目の当たりにすれば否が応でも感じ取れる。

 やはり、だと。


 関羽が通り過ぎた後の人波が、静寂に塗り替えられていく。

 簡単に言えば、圧倒されてしまっていた。

 関羽を取り巻く警備兵は皆、緊張と興奮で目を血走らせていた。槍を構える手には必要以上に力が篭ってしまい、腰に携えた剣をいつでも抜刀できる体制を保持したままの肩が錨を作っている。


 おおよその兵が気圧けおされる中で、一人の武将が近づいていく。

 関羽の覇気をものともせず。むしろその威圧感に心地よさを感じながら。

 呉随一の武将、呂蒙子明。

 この男も本物の類である。


「将軍。どうかお心変わりを。拙者はおろか呉侯でさえ、将軍を心底尊敬しております。あたら命を捨てる意味などどこにありましょうや。どうか、どうか……!」


 関羽は足を止め、首だけ呂蒙に振り返る。

 そして、できぬ、と一言。


 場に沈黙が訪れた。新年の到来を感じさせる殊更強い寒風が、一筋びゅうと吹きすさぶ。


「……呂蒙よ。貴殿とは互いに国境を守護する者同士、交流もありいささかの友誼を感じている。貴殿の優しさ、そして武士の情け。……その心遣いのみ、ありがたく頂戴するとしよう」

「どうしても……で、ありましょうか? 拙者は将軍の比類なき武勇を、民を想う義侠心を、主に仕える忠誠心を惜しみます。叶うならこの先も将軍から、教えを請いたいのです。誠に勝手ながら、拙者は関羽将軍を兄と慕っておりました」


 関羽の相好からわずかであるが、険が落ちる。

 弟か。この男から聞ける言葉であれば、悪くはない響きであった。

 同時に関羽は酒好きで乱暴者の愚弟の顔を思い出す。


「今際の際に、なんとも嬉しいことを聞かせてくれるものよ。……貴殿はまだ若い。儂が最後に兄として薫陶を賜ろう」


 体ごと向きを変え、関羽は続ける。


「では呂蒙。そもそもいくさとは何か。貴殿はなんと心得る?」


 突然の問答に、呂蒙は長考を強いられる。

 その答え如何ではこの豪傑を、漢という国の隅々にまで名が轟いている英雄を、断殺せずに済むかもしれない。

 しばらく間を置き、とうとう呂蒙は口を開いた。


いくさとは、将軍と拙者がそうであったように、主義主張をぶつけ合い背負うものを信じ、それを曲げられないが故に起こる結果に過ぎません。いくさが始まってしまった時点で、すでに結末なのです。故にその勝敗は成り行きでしかありません。過ぎ去った結末を論じることは無意味であり、愚者がする行い。ならばその先の勝敗などはまったくの些事。一体将軍のどこに咎があるのでしょうか?」


 苦しい弁明なのは、呂蒙が一番わかっている。

 自覚しても尚、言ってのける。断言する。

 それほどまでに殺したくないのだ、この関羽という男を。

 芳年ほうねんから書物に明るく智勇兼ね備えた関羽にとって、呂蒙の詭弁は児戯に等しく同時に愛おしささえ感じさせた。

 肩を抱いてやりたかった。呂蒙の温情に応えたかった。

 だが手は縄で縛られて、それは叶わない。

 代わりに関羽は言葉を紡いだ。


「呂蒙よ……いくさとは、女子おなごのようなものなのだ」

「お、女子おなご……ですか?」


 呂蒙の顔から毒気が抜かれた。


「そうだ。女子おなごと同じくこちらが求めれば去っていき、また気がなくとも向こうからすり寄ってくる。実に厄介な存在よ。……だが、これと決めた女子おなごには手を抜いてはならぬ。真摯に立ち向かわなければならぬ。それこそ身命をしてな」


 実に関羽らしからぬ持論ではないか。

 呂蒙はいくさを結果で片づけ、関羽は異性に例えてみせる。

 実際に何百、何千との命が不条理にも散る謀略と暴力のぶつかり合ういくさの代名詞にしては、相当に似つかわしくない。


 さもありなん。 


 関羽の唱えた持論は彼のものではなかったのだ。

 彼が唯一無二、尊敬と愛着の両方を合わせ持つ、兄の言葉なのだから。

 戦を女子になどと、最初は関羽も眉をひそめた。だが次第とそれが腑に落ちてくる。真理にすら思えてくるからどうしようもない。それほどまでに関羽の兄とは不思議な魅力を兼ね備えた人だった。


 若かりし頃の思い出を噛み締めていると、不意に呂蒙の声。


「———将軍は援軍も届かぬ麦城で必死に戦ったではござらぬか! ならば! 悔いや憂いはもはやない筈! これからは拙者と共に呉侯の元で」


 遮るように「できぬのだ」と関羽。


「儂の体には、今まで共に戦い散っていった者、また相見あいまえてこの手で屠った者の血が脈々と流れ続けている。その血らがな、騒ぐのだ。自分たちの死を無駄にしないで欲しいと訴えかけてくるのだ」 

「それは劉備漢中王への忠義も、含まれているのですか?」

劉備兄者への忠も、もちろんのこと。……だが、それだけではないであろうな、この感情は。いくさは必ず勝者と敗者に隔てられる。拙者は今まで完全な敗者になっていなかっただけのこと。敗者には敗者の責務がある。負けて尚、果たせる役目もあるというもの」


 呵々かかと笑う関羽。

 腹の底から届く声には嘘臭さや憤りは一寸もなく、惚れ惚れするほど天晴な大笑。

 これこそが関羽自身の真理である。

 そして関羽という人そのものでもあった。

 流石の呂蒙も、これには根負けするしかない。愁然しゅうぜんと関羽を見る。その瞳には薄い光の膜を帯びていた。


「……もう何を言っても、将軍のお心にはきっと届かないのでしょうね」

「ああ」

「……では、あちらへ」


 関羽は言葉なく首肯する。

 そして再び歩き出すと、地に掘られた血溜めの前に腰をどかりと落とした。


「せめて最期は拙者の手で……」


 呂蒙が腰の大剣をすらりと抜く。刃に篝火が映り込むと燃えたように赤く染まる。


「……裏も表もない将軍は、まるで赤子のようだ。戦神に守られた大きな赤子のようなお人です。昔から『赤子を斬ると戦神の呪いを受ける』と伝え聞きます。将軍を斬れば、呪われてしまいますね」

「呪うなど、何故にする必要がある? 儂は全力で戦って呂蒙、貴殿に負けたのだ。ただ一片の悔いも心残りもない。胸を張ってこの関羽に勝ったことをとくと誇るがよいぞ」


 関羽は一つ、嘘をついていた。

 負けたことに悔いはない。ただ心残りだけはある。

 もちろんそれは、遠い蜀の地にいる兄弟のことだ。

 突如、目の前に桃の花が咲き誇った。蕩けるような甘い香りが鼻腔の奥を刺激すると、薄紅色の花弁が舞い踊る彼方に見えた二人の影。関羽はこれを奇跡と信じた。


 ———兄者。先に逝く拙者を許してくだされ。

 ———益徳。酒は程々にな。家臣は家族と思って接するのだぞ。


「お覚悟を」


 呂蒙の声は震えていた。


「おう。楽しかったぞ。呂蒙よ。……またいつの日か、貴殿と相対したいものだ」


 御免! そう言って振り下ろした呂蒙の直刃は、彼の涙で濡れていた。

 呂蒙の見事な太刀筋は、関羽の意識を刹那に刈り取った。

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