生命樹は大地に根付かない~女が支配する世界で筋肉で戦う男と出会う話~

みち

第1話

 雑多な喧噪、淀んだ空気。腐敗したような、すえた匂い。慣れ親しんだ雰囲気にエレナはうんざりとしていた。


 ここ、トンプソンエリアはいわゆるスラム街だ。


 王の庇護を辛うじて受けることが出来ているだけの、廃棄された場所。


 手入れもほとんどされていないので、人は打ち捨てられ、幽かな腐った匂いが鼻の奥に纏わり付く。


 一般人ならば見て見ぬふりをする場所だ。


 王国のゴミ捨て場といって差し支えないだろう。


 ――ここで生まれたものは、一生ここから逃げられない。


 騎士であるエレナはそれを強く実感していた。


 中途半端な暴力と、擦り切れた快楽が支配するどうしようもないこのエリアを好む者などいない。


 治安を維持する騎士ですら、ここは腐っているのだ。




 今朝のことである。


「ここで武術を教えてる男、いつまで持つかねえ」


 そんなことを聞いた。


「男が武術ぅ?」


 騎士たちの雑談である。まるで猥談を離しているかのような、下卑た響きがそこにあった。


 わかりきったことを反芻するような、馬鹿に仕切った口調。


「男がそんなもん教えてどうするよ。力一杯工夫したところで、力で押さえ込めば終わりだろ」


 ハハハ、と嘲笑が交じる。


「馬鹿だねえ。そういうのはあたしらに任せておけば良いものを」


「いつまですまし顔でいられるかな」


 聞くに堪えなかった。


 だが、こいつらの言い分はもっともだ。


 男が技術を身につけたところで、力ではかなわず、そして生命樹を使いこなせもしない。


 特に、ここで目立つということは、質の悪い人間に目をつけられることと同義だ。


 きっと抗う間もなく、犯されてバラされるなり、売られるなり、殺されるなりして終わりだろう。


 せめて、多少でもいいから女のように生命樹を使えるならば――抵抗する目もあるだろうが。


 


 この砂だけの世界に唯一根付く樹木。それが生命樹である。


 乾ききった世界に、生命樹は潤いを与える唯一の存在だ。


 昔はこんな砂だけの地面ではなかったらしい。


 湿った土と緑が広がる肥沃な大地、とやらがあったようだ。


 だが、今は違う。渇いた空気、無限に広がる砂の大地。


 雨は時折ふれど、地面を泥に変えるばかりで大地を潤すことはない。


 生物を根付かせる土台にすらならない砂の大地では緑が消滅するのも自然の摂理といえる。


 では、生命樹は何に根付くのか。


 ――生物に根付くのである。


 人、犬、猫。なんでもいい。動物に対して根をはり、その生命力を啜って育つ。


 こういうのを寄生生物というらしい。ノミなどと同じだ。


 だが、ノミと違い害ばかりではない。


 生命樹は宿主を喰う代わりに、力をよこすのだ。


 それは武器になり、防具になり、特殊な事象を起こす。


 その最たるものが王の生命樹である。


 天をつくほど巨大な、王国の中心にそびえ立つ生命樹。王を糧とし、王国に住むすべての臣民に益をもたらしている。この大凡弱者が生きていられない過酷な世界でも、王の庇護下においてのみ、生存を許されている。


 王の生命樹――王笏のマルクトが根を張ることで地盤を整え、しんしんと実る葉が外敵を遠ざけ、種から芽吹いた樹木が国境を作り、内と外を隔てて国を形作っている。


 そんな人が安寧に生きることができる偉大なる王の庇護下において唯一の恥部。それがトンプソンエリアだ。




 トンプソンエリアは中心部が一番治安が悪く、そこから徐々に治安がよくなっていく。


 逆に言えば、中心部が文字通りエリアの中心なのだ。外道が屯する中心からトンプソンは動き始める。つまりトンプソンで起きたことを手っ取り早く知りたいのであれば、中心部に足を運ぶ他ないのだ。


「――男の武術家ですか」


 道ばたに座り込んだ薄汚れた女が媚びた目で見上げている。


 こう見えて、トンプソンエリアの情報を一手に握っている女である。何かあれば真っ先にこの女の耳に情報が入っていると思って間違いはない。


「ああ。物好きもいたものだ。ここでそんな目立つことをするなんてな」


 エレナは騎士になる前から何かとこの女と懇意にしていた。


 零落れた風なのは、この女流の処世術らしい。


「馬鹿な男がどうなったってかまわんが、これも職務だ」


 エレナは懐から王国貨幣を取り出して渡した。


「ふん、職務ですが。そりゃ結構なことで」


 情報屋の女はよれた貨幣を受け取ると、数えもせずに雑な手つきで懐に突っ込んだ。


「なんだ。おかしいか」


「いえいえ、立派な騎士様がトンプソンエリアにいてくださって安心できるってえもんですわ」


 けけけ、といかにもわざとらしい奇妙な笑い声をあげる。


「私に聞くこたぁないと思いますがね。そこらの人間に訪ねれば一発でしょうや。何せ、ちょっとした有名人なもんで」


 顎をさすり、首を少しひねって見せる。


「しかし、アンタは知ってるもんとばかり思ってましたがね」


 皮肉気に笑う女に、エレナは肩をすくめた。


「最近はすっかり疎くなったよ。なんせ新人騎士の身だ。俗世に目を向ける暇がねえ」


「ひひっ」


 女はにたりと頬をつり上げ、愉快そうな引きつった笑い声を上げた。


 


 噂の男は、どうやらトンプソンエリアの先端に居を構えているようだった。


「一端の理性はあるらしい」


 所詮、男だ。己の力を頼みにして中心部へ踏み込むなど、一日と持たず死ぬより酷い目にあって終わりだ。


 トンプソンエリアで生きていくのであれば、男娼か、愛人として後ろ盾を得るのが一番確実だが……。


 我々王国騎士の詰め所の反対側に位置するのは、己の力で生きていくという意思表示だろうか。


 ――己の力を過信した愚かさの現れだ。


「ここか」


 そこは、いかにもなボロ屋だった。


 打ち捨てられた家に勝手に住んでいるのか、それとも正規手段で手に入れたのか。


 一見して男が住んでいるとは思えない。女でももう少しマシなねぐらに居着くことを考えるに違いない。


 朽ちた外壁を見ていると、朽ちかけた家の奥から「やあっ」と気合いの入った若い男の声がした。


 ――武術を頼みにしているというのは本当らしい


 それにしてもずいぶんと若い声に聞こえたが……。高音と低音で掠れた声は、声変わりの最中のように聞こえる。


 ――いくらなんでもそんな年齢でここへ来たりはしないだろう……。


 今にも崩れ落ちそうな玄関口をノックする。


 しばらく待ったが、反応はない。聞こえてないらしい。


「邪魔するぞ」


 聞こえていないのを承知でエレナは言って、ガタついた扉を無理矢理開けた。


 パァンと威勢の良い破裂音に混じって扉が軋む音。


 エレナ顔を怪訝な顔で屋内を見渡した。


 生活感がかなり薄い。


 必要最低限の家具が置かれているが、それだけである。


 人となりを察せられるような趣味性はない。


 家宅捜索であれば、すでに逃げ出した後だと判断していたかもしれない。


「ふむ」


 床は薄汚れていた。どうやら土足で生活しているらしい。大小二つの足跡がついている。


 エレナが家へ上がりこんだ時、家の奥の方から再び裂帛の気合い。


 その声は男の割には武に頼む意気込みが知れる。……本気で武術とやらを覚えようとしているらしい。


 エレナは迷わず奥の方へと進む。


 扉を開けると、その先はボロ屋の庭らしく、何もない空き地に二人の男がいた。


「騎士様が何用でしょうか」


 肉体が鍛え上げられた男が振り返った。


 泰然自若として、隙のない立ち振る舞いが板に付いている。


 声は深く落ち着いていて、見た目以上の深さを感じさせた。と、なれば先ほどからの裂帛の声はこの男ではなく、もう一人の少年か。


 おそらくこの男は師匠というやつなのだろう。少年が強くなるために、先達の男を師とたのむのは果たして正解なのだろうか。


 エレナはそれとなく男を見た。


 ――改めて、尋常ではない鍛錬で作られた身体だ。男だてらに武術を頼みにした生き方をしているわけではないらしい。


 ――確かに男にしては、やるようだ。


 エレナはひとまずそうにらんだ。


「このエリアに己の力を頼みにして生きようとしている男がいると聞いて見に来た」


 エレナは率直に言った。


「見世物じゃない」


 若い、未熟そうな少年が威嚇気味に言った。


「別に見世物を見に来たんじゃない」


「何だと」


 エレナの態度が気に入らないのか、少年は噛みつかんばかりの態度である。


 今にも襲ってきそうな危うい雰囲気すら纏っている。


 腕に覚えがあるわけでもないだろうに、余程男のくせに、と下に見られるのがよほど嫌らしい。


「カスター。止めなさい」


 やんわりと止める声。


 ――おや、とエレナは内心、声を上げた。


 武術を頼みにした男らしくない、柔らかな態度である。


 普通、この少年のように男のくせに、となめられないように突っ張った態度を取るのが自然のはずだ。このような場所に住んでいるのであればなおさら。


 余程自分の腕に自信がある愚か者なのか。その態度は柔らかでいて、揺るぎない。


「先生。でも」


 カスターは動揺した態度で、エレナから男へ目線を移した。


「罪のない相手を叩きのめすために戦う術を教えているわけではない」


 男はカスターの肩に手を置いた。


「……はい」


 カスターは渋々頷いて、矛を収める。


「そもそも、キミが学んでいるのはいざという時の護身術だ。戦う術じゃないし、戦っても勝てない。わかるね」


 男は優しげに言った。


 カスターは悔しげに俯き、掠れ気味の声ではい、と言った。


 ――思ったより容赦ないな。


 はっきりとお前では女には勝てないと言い放ったに等しい。


 男は物腰が柔らかで優しげではあるが、歯に衣着せぬ率直な人柄らしい。


 エレナが密かに関心していると、男は悔しがる弟子を置いて、振り向いて軽く頭を下げた。


「失礼、自己紹介がまだでしたね。私はオーガスト・ダン=ピストンド。最近トンプソンエリアに流れてきました」


 オーガストと名乗る若い男はすっと手を伸ばした。


 エレナは反射的に手を取り、握手する。


 手の握った時に感じる、力強さはなるほど、確かに見た目以上に鍛えられている。


 手から顔へ視線を移す。男としてはかなり珍しい大柄な体型に、極限まで絞り込んだ鋼染みた筋肉を纏っている。


 エレナは小柄だから、オーガストを軽く見上げるほどの身長差がある。


 顔は柔和な印象を与えるためか微笑を崩さないが、柔和な表情をなくせば粗暴と言われかねない野性味のある顔つきをしていた。


 とはいえ、どこか顔に幼さも残っている。


 大柄で鍛え上げた肉体が幼い雰囲気をかき消しているが、成人(十五歳)しているのかも怪しいところだ。


 ――立ち振る舞いは間違いなく実力者だが……。


 希にいる己の力を隠すタイプの武術家なのだろう。


 こういうタイプは己の体格と、雰囲気を紛らわせるようば立ち振る舞いと表情を決して崩さない。


 自身の力に絶対的な自信があり、なおかつ自己で完結しているタイプだ。


 己が何を考え、どう行動するか。ソレのみに終始し、自己を顕示しない求道者。


 ――男で武術を極めるとなると、こういう人間性になるのか。


 自己顕示欲が強ければ大成する前に淘汰されるか。そも、男が武の道を究める例など聞いたことはないが。


 だからこそ、求道などというある意味破綻した人間性を男が保有すべきではない。


「男だてらに己の力を頼みにして生きようとするだけはある」


 エレナが賞賛とも蔑称とも付かない口調で言うと、オーガストは苦笑した。


「別にそこまで大層な考えはありません」


 力を誇示する気がないのだから、本人としてはそうだろう。


 だが、女が強く男が弱い世の摂理において、男が鍛え、誰におもねることもなく泰然自若と生きるということは、つまりそういうことなのだ。


 ――本人がその気でなくと、他人はそう思わない。


 結局の所、それがすべてである。


 だからこそ、とエレナは思った。


「ならば、このようなところに暮らすのはやめろ。その少年のような男を誑かさず治安の良いところで過ごせ」


 苛烈な言い分だが、正論である。


「お前は所詮男だ」


 エレナはあえて、見下し気味に言った。


 どれだけ技術を鍛えようとも、男は女に勝てない。天地が返らぬ事実だ。


「ふざけるな!」


 カスターがたまらず叫んだ。


 エレナが反応するより先に、カスターは懐へ飛び込み、エレナの水月めがけて正拳突きを繰り出した。


 努力しているのだろう。その一撃は乱れのない型通りの機動を描き、吸い込まれるように水月を抉った。


「筋は悪くない。……お前が男でなければな」


 エレナは眉一つ動かさず、自身の腹に突き刺さった拳に手をやった。


「そんな――」


 カスターの視界が一回転して、怪我なく元の体勢で着地した。


「――」


 悔しげにエレナを睨み付ける。


 エレナは、片手でカスターを持ち上げ、空中で一回転させた上で寸分違わず着地させた。むろん術理などない力尽くである。


 ――だからこそ意味がある。


 女と男には天と地ほどの差があるのだと、意固地になっているカスターでさえ理解させられる、手っ取り早い方法だった。


 膂力に圧倒的な差があれば、技術など意味をなさないのだ。カスターはこれに反論できるほどの力を持っていない。


「……人が話している最中に殴りかかってはいけないよ、カスター」


 これを見ていたオーガストは困ったように眉をひそめて、言った。


「……」


 今のやりとりを見て言うことがソレか?


 エレナは反応に詰まって、一瞬言葉を失った。


 黙ってうつむくカスターにオーガストはもう一度言った。


「カスター。いきなり殴りかかるのは人としてどうかと思うよ」


 二度目のたしなめの言葉。


 顔を渋々上げたカスターは血涙を流さんばかりの歪んだ表情で頭を下げる。


「っ。すみません」


 謝罪を見届けたオーガストは同じように、頭を深々と下げる。


「ご無礼を働いてしまい申し訳ございません。どうか子供の癇癪、いたずらだと思ってご容赦ください」


「何で先生が謝るんですかっ」


「何故と言われてもな」


 オーガストが理由を説明しようとしたその矢先、カスターはたたみかけるように叫んだ。


「止めてください!」


「……赦そう。顔を上げろ」


 エレナがそう言うや、カスターは逃げるように走り去っていく。


 ――このカスターとかいう少年は、相当女に対してコンプレックス、負けたくないという思いがあるらしい。


 男の身で武術を習おうなどと考えるからには、当然かもしれないが。


「追いかけなくていいのか。一人にすると何を起こすかわからんぞ」


「まあ、大丈夫でしょう」


 オーガストは楽観的な物言いで頷いた。


「ふむ」


 あの少年にもそれなりの事情というものがあるらしい。


 エレナはそれ以上追求せず、話を進めることにした。


「オーガスト。お前は弁えた態度を取っているからこそ、分かっているかと思うが。男は女には勝てん」


「そうでしょうね」


 オーガストはあっさりと肯定する。


「よしんばお前が達人だとしても、ここを根城にするのは止めろ。ここはゴミ屑が屯するエリアだ。闇討ち、リンチ、それに違法に生命樹を所有している奴らも沢山いる。なにをされるかわからん」


「存じております」


 またもオーガストは肯定した。


 その態度は穏やかで、すべてを理解し、受け入れているらしい。


「……あえて事情を問おうとも思わんが。ここを出て行く気がないのであれば、せめて 頭を低くして、目立たないように生きろ」


 エレナは内心ため息を吐いた。


 男の身でトンプソンエリアに居を構えているからには、それ相応の事情があるのだろう。


 そんなことは考えなくても分かる。


 ここに流れ着く人間に事情がない者などいないからだ。


 ここに来た者で出て行く人間は希だ。


 ここから出て行くのは元からここにいた人間。生まれてからずっとここで過ごしている人間だけだ。


「そのつもりで過ごしているのですが」


 とオーガストは笑った。


「……」


 ――面倒くせえ。


 エレナは舌打ちをした。


 この男の態度からして、本当にそのつもりなのは確かだ。


 言われるまでもなく、この男は争いを起こさず避けるタイプだ。


 だが、男で武術を頼みに生きる者など、目立たないはずがない。


 もうこれはどういう姿勢で生きているかなど関係がないのだ。


 ただでさえ、外から来た者は目立つ。


 なぜならば、外から来たばかりの人間はここでの生き方が分かっていない。


 来た人間は大体カモにされて、それから徐々に馴染んでいく。


 運が悪ければ死ぬこともあるだろう。


 だが、ここでは死体は珍しくなく、そして誰かがいなくなっても気にされない。


 例え、外から来た人間が行方不明になったとしても、ここに入ったとわかれば、騎士も真剣に探したりはしないのだ。


 大々的に手入れされないのは、単純に王国のいらないものをここに集めて管理した方が楽だからである。


 文字通り、ここは王国のゴミ箱だ。


「しかたねえ。これを渡しておく。何かあったら使え」


 エレナは懐から指輪型の生命樹を取り出した。苛立っているからか、乱暴な手つきでオーガストに手渡すエレナ。


「男の生命力でも使うのに問題は起らねえから、身の危険を感じたら迷わず使え」


 押しつけられた指輪をオーガストは受け取った。


「はあ……」


「使えば、対になった生命樹がお前の危機を知らせてくれる」


 そう言って、エレナは対の指輪を自身の指にはめた。


「ご親切にありがとうございます」


 オーガストは困惑気味に礼を言った。


 人の親切を受け慣れていない者の反応である。ここではよく見る反応だ。


 ――やはり、何かしらの事情があるのだろう。


 頭に上った熱が冷めていくのを感じる。


 面倒な相手だからと、熱くなりすぎた。エレナは軽く頭をふって、残った熱を追い出した。


「もう一つやる」


 オーガストにもう一つ、同じ指輪を渡した。


「ガキにも渡しておけよ。正直、お前よりあのガキの方が面倒な事態を起こしそうだ」


 カスターはあの調子だと、女の施しは意地でも受けないだろう。


 これを受け取るか、そして身の危険の際に使うかは、オーガストが言いくるめられるかにかかっている。


「闇討ちされて、使う間もなければそれはもう知らん。精々人の恨みや、関心を買わずに生きろよ」


「なぜここまで親切にしてくれるのでしょうか」


 オーガストはじっと渡された指輪を見て言った。


「……仕事だからだ」


 ふん、とエレナは鼻を鳴らした。

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