第118話 魔女の殯 (3)
リフォームされた音戸邸の浴室はいわゆる和モダン風となった。
以前まで床と壁に張られていた大正時代のタイルは、状態が良く貴重だという事で一部博物館に寄贈されている。
――前回の全面リフォームは、
そんな話を聞いた時には浴室を解体する事自体がもったいなく思えた根岸であるが、生活する以上は利便性の問題が出てくる。近代建築の文化財にはありがちなジレンマだ。
「今の所、侵入されたような形跡はないですね……」
浴室内を見回して根岸は呟く。その脇から、
「岸根くんは――」
「根岸です」
「――根岸くんは、結界の有無までは感じ取れんのかね」
藻庵のぱちぱち瞬く目と、根岸は視線を合わせる。
「は、はい。結界には実際触れて
「いやぁ、修行不足というのは違うよ」
と、藻庵は和やかな笑い声を上げた。
「きみは元来、強い霊威の幽霊じゃないし……。それに、顕現したその時から雁枝さんの結界内に入る事を許可されてたと聞く。他者の庇護下で顕現し続けた怪異だ」
だから、要は――と彼は続ける。
「縄張り意識というものをまだ持ってないんだろう」
「……そうなんですかね?」
確かに、天狗や人狼が頻りに口にする『縄張り』なるものが今一つピンとこない所はあった。
「うん、私ら河童なんかは、水辺の精気を集めて成り立ってる怪異だからね。自分の水場から長い間離れるとそれだけで調子を崩す。進入を許可されてるとはいえ、他の怪異の縄張り内ではこう……頭の皿のあたりがむずむずしっぱなしなんだよ」
「皿がむずむず、ですか」
「それで、近くに結界が張られているかどうかも何となく分かる」
「皿で?」
「皿で」
藻庵の語る話もまた感覚的にはさっぱり把握しかねたが、しかし彼の言いたい事は一応理解出来る。
とにかく、すぐにでも結界を張り直すべきだろう。しかし雁枝を頼るのは躊躇われた。
今、彼女は
「ねぎまくん、以前にきみは、結界術を使ってみせたよねぇ? 人間の方術の道具を取り出して」
不意に、思い出した風に藻庵が発言した。
「人間の道具……
霊験機器は高価な上、使いようによっては人間にとっても危険なツールだ。基本的に根岸達トクブン職員が携帯するのは、職場からの貸与品である。プライベートでは持ち歩かない。
「いや、出せるだろう? ほれ、私と初めて風呂場で会った時も」
「えっ?」
思いがけない言葉だった。
反射的に怪訝な声を返した根岸だったが、すぐに彼はぐらりと視界の揺らぐような違和感を覚える。
藻庵の発言は正しい。
彼と初めて対面した時……そう、『灰の角』との騒動の中で負傷した時だ。今日と同じように浴室から藻庵が侵入してきたものだから、意図せず鉢合わせして根岸は仰天した。
それで咄嗟に、スペル・トークンを起動した。
しかし根岸の記憶によれば、あの時の彼はまだ
――そもそも、振り返れば。
根岸が怪異でありながら人間の結界方術を発動させた、その最初の機会は、自分が死者となった事を自覚した直後。
あの時彼が身につけていたものは、全てが本物の物質ではなかったはずだ。遺体となった根岸自身は勿論、財布も眼鏡も衣服も、警察に預けられた上で最終的には両親が引き取っている。
つい先日実家に帰った時、根岸はかつて愛用していた財布を自室で見つけた。それは血痕で汚れていて、同じ引き出しの中に傷のついた眼鏡も定期入れも仕舞われていた。
幽霊として顕現した時、根岸はそれらの持ち物までも無意識のうちに再現し、この世に構築したのだ。
――どうやって?
否、それは分かる。怪異の疑似物質構築は、よく知られた異能のひとつだ。
志津丸も何度か、周囲の風の精気を集めて
ただ、妖怪と違って幽霊には、自然界の精気を
ちなみに、疑似物質は持ち主から一定以上距離を取ると消滅するため、例えば財布と現金を現出させたからといってそれで買い物までは出来ない。
大抵は自分の所持品でなくなったと認識した時に消える。現金を渡してからレジに入れるまで、形がもつことは稀だろう。
「うわ……この感じ、久しぶりだ……」
天地のぐらつくような
今までにも彼は、これと似たような感覚を何度か味わっている。
自分の死を自覚した瞬間や、乗ったはずの車から置き去りにされた時。先刻まで踏みしめていた地面が実は偽物だと告げられ、突然放り捨てられたような、何とも言えない恐怖と気持ち悪さである。
「あれ、悪い事を言ってしまったかね」
「い――いえ。大丈夫です。藻庵先生の言うとおり、僕はスペル・トークンを無意識に現出させていた」
その現出させたスペル・トークンは、恐らく根岸の現実認識がはっきりして、職場に復帰したあたりで知らないうちに消滅したのだろう。
その後はトクブンの備品のトークン、つまりれっきとした本物を貸与されていたので、「怪異が霊験機器を現出させるなど不可能だ」という彼の常識に従って記憶が上書きされてしまった。
幽霊とは、精神の有りようこそが存在の全てである。出来ると思えば大体の事は出来るが、出来ないと思い込んだ事象は起こせない。視界にも入らず記憶も保てない。
「あれが……あの時のスペル・トークンが」
半ば独り言として、根岸は続けた。
「疑似物質で、本物ではなかったとすると。僕は霊験機器なしで略式方術を発動させたことになるんですが」
「そりゃあそうだろうねぇ」
どうという事もない風に藻庵が頷く。
「君は実質、生来の
後天的に身につけた複雑な『術』ならともかくね――と説かれ、根岸は雁枝や
隠れ里を丸ごと覆う規模の結界術や、半身が千切れかけた状態から肉体を再生する治癒術。
大物怪異たちが力を振るう時、様式に
「すぺるとーくん、と言うんだったかね、あの人間の道具は、君にとっては照準器だよ。そこに意識を集中する事で、狙った形での異能を発動させられる。多くの怪異がそういうのを持っていてね。雁枝さんは
そう言うと藻庵は、カワウソに似た緑色の手をくるりと回した。まるで手品のように、上向いた手の平の上には小振りな陶器の壺が現れる。蓮のつぼみを思わせる優美な形状だ。
これとよく似た能力を、確かに雁枝も披露した。彼女の場合は懐に仕舞えるくらいのサイズの短刀を虚空から取り出してみせた。なるほどあれは匕首だった。
天狗の里の医療所に勤める鴉天狗の
「照準器……」
根岸は自分の手の平に目を落とす。
ひょっとして、今この場にもスペル・トークンを現出させられるだろうか。
内部の電子機器の構造までつぶさに再現する必要はない。「自分はこれで結界術を使える」という確固たるイメージの補助にさえ出来れば良いのだ。
そして――生前の、人間だった根岸秋太郎は霊感の乏しさから一種類の結界術しか使えなかったが、今の根岸は違うかもしれない。
知識としてだけならば、『
――ものは試し。
根岸は両目を閉ざし、強く集中する。
以前にもやったことだ。出来るはずだ。己の手の中にそれがあると、ただ確信すれば良い。
ふっと、手の平の中心に重みを感じて彼は目を開けた。扁平なペンライトを思わせる見慣れた小型の機械がそこに存在している。
(……本当に出た!)
興奮し、叫び出したい衝動に根岸は駆られた。
だが、集中を乱せばすぐにでも消滅してしまいそうだ。どうにか堪え、電源ボタンを押す。細長いディスプレイに明かりが点る。
「“略、式――方術、ヒトマルゴ”」
スペル・トークン内に登録されたコード
当然、今彼の目の前にあるスペル・トークンは本物ではない。作動していると思い込んでいるに過ぎない。
「“現況記録開始”
“固着”
“以降認識混在を拒絶”」
しかし詠唱コードの進行をこうして術者が認識している以上は。
術は発動する。
「――“
瞬間、真新しい浴室の床から壁、天井、その全面に、六つ目の籠目模様の光がさあっと広がった。
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