第119話 魔女の殯 (4)

 ――結界術に成功した。


 その事実を理解した途端、根岸はじわりと疲労感が募るのを感じ取った。


 確かに握っていたはずのスペル・トークンは、ほんの一瞬意識を逸らした隙に手の中から消え去っている。

 試しにもう一度念じてみたが、今度は上手く現出させられなかった。恐らく、根岸の集中力がもう切れているのだろう。なかなか難しいものだ。


「おお! 出来たじゃないかね」


 藻庵そうあんが弾んだ声を上げる。


「これは人間風の結界術だねぇ。どういうものなんだい?」

「大体丸一日くらい、任意の場所を『聖域』にして怪異の侵入を防ぐっていう術です。あまり強くないから、心強さとしては鳩除けネットくらいかな……」


 眠った状態で数年間強力な防護壁を維持する雁枝かりえの結界術とは、無論比べるべくもなかった。そもそもあんな離れわざは人間の方術系統に存在しない。


「いやぁ、大したものだと思うがね」


 と、藻庵は相変わらずのんびりした調子で称える。


「……藻庵先生のお陰ですよ」


 自然と、根岸は屈み込んで頭を下げていた。

 彼の一言がなければ認識を更新する事は出来なかっただろう。


「本当に。あたしからも感謝する、ありがとうよ藻庵」


 唐突に廊下の隅から声が沸き、根岸ははたとそちらを振り向く。


 いつの間にやら、猫の姿の雁枝が浴室に忍び寄ってこちらの様子を伺っていた。

 その隣にはミケが、やはり猫形態でぴたりとあるじに寄り添っている。


 この主従がどちらも猫の姿を取っているのは珍しい。模様の微妙に異なる良く似た三毛猫が二匹、なかなか可愛い光景である。猫を多頭飼いしたがる人間がいるのも納得だ。


「雁枝さん。歩き回って大丈夫なんですか?」

「平気だとも、もしもの時のためにいくらか体力を温存してただけさ」

「もしもの時って――」

「お前が無事に結界を張れて良かった。駄目なら、あたしが何とかするつもりだったが」


 語りながらも雁枝は、細い煙をまとってするりと人間へ変化した。ふふ、と魔女らしい含み笑いを漏らす。


「ただ、あたしやミケに教わる事なく、秋太郎が自ら、スペル・トークンを現出させ結界術を構築してみせる……これが大事だったんだ。藻庵も言ってただろう? お前はあたしの縄張りの中で顕現し続けた幽霊だ。今ここで自立して、この邸宅を自分の縄張りと認識してゆく必要があったのさ」


 たった今この身に起きたことが、全て計画の上であったかのような彼女の口振りに、思わず根岸は雁枝と藻庵を見比べた。


「じゃあ、ひょっとして今までの藻庵先生の行動は……」

「うん、騙すような真似をしてすまないねぇ。雁枝さんから頼まれてね、きみの記憶を掘り起こすようにと」


 藻庵が頭の皿を掻きつつ、ばつの悪そうな表情を浮かべる。


「第三者からの助言が一番効果的、と御主人が提案したんだ」


 四つ足のまま、ミケは器用に肩を竦めた。


「屋敷に結界がなくても、厄介な侵入者が来たら当面は俺が追い返しゃいいと思うんだがね」

「言ってるだろミケ。お前にあまり荒っぽい仕事を押しつけて逝きたかないんだよ」


 雁枝はそう告げてミケを抱き上げ、指先で顎下を撫でる。ミケは大人しくごろごろと喉を鳴らした。


「そういう事だから、秋太郎」

「は、はい」


 正面から見つめられ、根岸は背筋を伸ばす。


「あたしと一緒に、この屋敷の結界も消えたら。今、浴室に張った結界を少しずつ敷地内に広げていっておくれ。幽霊の身じゃ身体を鍛えるのは難しいけど、方術は訓練によってその威力を拡張出来る、成長させられる」

「僕が……」


 軽く息を呑んで、根岸は雁枝の言葉を嚙み締めた。

 ミケの金縁きんぶちにきらめく瞳と、ちかりと視線が交わる。


「僕にそれが、出来るんですか」

「怪異ってのは精神の有りよう次第だからね」


 実にさらりと請け合った上で、「それと」と雁枝は両目を僅かに細めて続けた。

 今この場ではなく、過去の情景にでも投げかけたかのような眼差しだった。


「裏の蔵の長櫃ながびつに、あたしが昔集めた邪法術の書物も多少残ってるから、習得したければ目を通しとくといいよ」

「邪法術?」

「必要なければ売っ払ってくれてもいいけど。それなりの金額になるんじゃないか?」

「いえ、その。それひょっとして、人間の市場しじょうに出回らせるのまずい物なんじゃ」


 困り顔で根岸は両手を振った。


 邪法術とは、人間にとって正規の『方術』よりリスクの高い術全般を指す。呪いと呼んでも良い。


 あくまで人間にリスクがあるというだけだから、怪異が使いこなす分にはさほど問題ない。

 雁枝が使う怪異治癒の術も、『灰の角』が諭一の求めに応じて変身するのも、志津丸しづまる瑞鳶ずいえんの翼を移植する際に使ったのも、人間の視点で見れば邪法、外法のたぐいだったりする。


 しかしとにかく、雁枝の遺産については一度総ざらいのチェックをかけた方が良さそうだ、と根岸は密かに考えた。

 何しろ音戸邸は広く、歴史ある建物だ。裏庭の蔵に仕舞われている荷物ともなると根岸も全てを把握している訳ではない。雁枝のひつぎに置かれた私物も、書斎の膨大な本も。


「秋太郎も、本当は荒事なんざ苦手だろうから……訓練の必要がなければそれが一番なんだがね」


 思い悩む根岸を前に、雁枝は苦笑を漏らした。


「お前たち二人に、反怪異の人間たちや――『ルージュ』みたいな連中が近づかない事を祈っておくよ」

「……『ルージュ』?」


 連中、ということは人の名前だろうか。聞き覚えのない名だった。ミケまでもが「ニャア?」と不思議そうに鳴く。彼も知らない様子だ。


「誰です? ……怪異の名前ですか?」

「ああ。ま、昔のちょっとした知り合いだ。思い出したくもないし、今日の葬式にも呼んでない奴さ」


 どこか沈んだ声で雁枝は答え、ミケを抱え直してふっと鼻から息を吐く。

 思い出したくない、というのは心からの彼女の本音であるらしい。


 その時、廊下の向こうから志津丸の呼び声がした。


「ミケ、ばあちゃーん!」


 いくらか慌てているような声色である。


「どうしたね?」


 雁枝はそれだけ応じて、ミケを抱き上げたまま早足で奥の間へと戻っていった。


 根岸も彼女らに続こうとして、今一度浴室を振り仰ぐ。

 きちんと結界は維持されている。流石に、自分の張った結界術であれば存在を感知出来るようだ。


「おお、『るーじゅ』ねぇ……」


 突然、傍らで藻庵が呟いたものだから根岸は驚いた。

 彼の口調もまた懐かしむというよりは、過去の後味の悪い事件でも振り返るかのようである。


「藻庵先生、ご存じなんですか?」

「うーん。実は、大分忘れてるんだがねぇ」


 拍子抜けする返答と共に、藻庵はまた頭の皿を掻いた。


「いやぁ、でも、何だか困ったやからだった事は覚えてるよ。――そう、『もがり』の異能を持ってたっけな」

「えっ!?」


 半ば無意識に、根岸は上擦った声音で聞き返す。

 疑似的な脈動を続ける幽霊の心臓が、大きく跳ねた気がした。


「雁枝さんが会ったことのある『殯』の異能持ちは、根岸くん、きみを入れて四人だ。一人は彼女に『殯の魔女』の座を引き継がせた、五百年前の吸血女。もう一人はこの音戸邸の最初の主、『殯の大殿おとど』。それに君と……あとひとり」


 丸眼鏡の奥で、藻庵の黒目がちな両眼が瞬きをする。


「そのあとひとりの呼び名が、『るーじゅ』だとか……言った気がするなぁ。いや、違ったかな……」


 何ともあやふやな説明だ。


 ――『ルージュ』。フランス語でくれないを意味する。海外の怪異か。


 世界中の怪異を見渡しても数少ない、複層世界構造の観測者。

 純粋に、同族と思えば興味はあった。


 しかしながら、先程の雁枝と藻庵の言葉から察するに――反怪異団体の人間と同様、関わってこない事を祈るべきかもしれない。

 先達の助言には、一先ず耳を貸してみるものだ。

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