第116話 魔女の殯 (1)
その日の
「ミケさん、ミケさん。すっかり忘れてたんですけど」
廊下を小走りに突っ切り、根岸は台所のミケへと呼びかける。
「どしたい根岸さん」
「
「ああ、それなら」
台所でせっせと大量の海苔巻きを
「昔書斎で使ってた細長いデスクを裏の蔵から引っ張り出しておいた。埃っぽかったから、拭き上げて天日干しにしとるんだ。そこの縁側で」
「縁側ですね。セッティングしときます」
「廊下が狭いから、ちっと運びづらいぜ」
「大丈夫ですよ。庭側から持ってくんで」
軽く請け合った根岸は、つっかけを履いて玄関から庭に出る。
すると丁度そこに、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
「よう、根岸」
ゴールドの塗装を施した大型バイクを玄関先に停めた運転手が、ヘルメットの奥からぶっきらぼうな挨拶を投げる。
「
根岸は彼の名を呼び、それからはたと気づいて、
「あ、今はもう志津丸さんじゃないんでしたっけ」
とこめかみを掻いた。
志津丸の故郷、
人間の行政や企業と協力する場合、契約などにあたって代表者の名義が必要になってくる。
里の頭領・
ただし、志津丸という名前はいわゆる幼名だ。彼には近々加冠の儀、つまり成人式を行って名乗りを真名に変える予定があった。
そこで瑞鳶は予定を繰り上げて、取り急ぎ身内のみで加冠の儀を済ませたのだという。代表者として諸々の書類にサインした後で改名となると、面倒な事も起きかねないためだ。
「俺と御主人からも祝ってやりたかったんだがな」
高尾の天狗たちと長い付き合いのあるミケはそんな風に残念がったが、やむを得ない。そもそも他種族を招いて盛大な祝宴を開くだけの余裕が、天狗の里には当面なさそうだった。
「別に――お前らは今までどおり、『志津丸』でいいよ。真名ったって書類の上での話だ。人間連中ってのは細けえからな」
ヘルメットを脱ぎ、金に染めた髪を乱雑に逆立てる志津丸は、どこか落ち着かない様子だ。彼も今夜の式典に呼ばれているので、当然といえば当然かもしれない。
――
当人の命は今日から明日、日付が変わる頃に尽きるという。その直前に葬儀を済ませるのだから、一応は生前葬だ。
弔問客には日暮れ頃から集まって貰い、通夜と称して積もる話を語り合ったのち、夜中に正式な葬儀と『殯』の代替わりを行う。その後、弔われた本人が消滅する。
人間の葬式しか知らない根岸からすると、かなり常識外れのスケジュールであるように思えた。
実のところ、怪異でもこんな形の葬儀を催す者は少数派らしい。怪異は遺体を残さないので、本来火葬も埋葬も不要だ。
「ところで……志津丸さん、その服で式に出るんですか?」
つい、根岸は気になっていた事を指摘した。
志津丸は派手な刺繍の施されたジャケットを着込んでいる。葬儀どころか通夜の装いとも思えない。
確かに雁枝は案内状に、服装は自由、と記載してはいたが。
「馬鹿、ンなわけあっか」
たちまち志津丸は機嫌を損ねて眉尻を吊り上げる。
「お前らどうせドタバタしてんだろうと思って、準備を手伝いに来たんだよ。後で着替える。つうか根岸こそ、キッチリ着替えるんだろうなそれ」
指差されて根岸は自身の成りを見下ろした。ポロシャツにデニム姿である。
まだ作業中なので、喪服は寝室の衣紋掛けに吊るしてあった。
「あっ、はい勿論。そうでしたか、手伝いありがたいです」
「はぁー……ほんとにオメーが雁枝のばあちゃんを継ぐのかよ……で、今は何してんだ?」
「そこの受付台を運ぼうとしてて」
「あれか。おう、任せな」
邸宅の造りは勝手知ったるものである志津丸は、さっさと縁側へと向かう。
正直、手助けが増えるのは心底ありがたかった。葬儀の会場準備など初めてで、彼の言うとおりここ数日ずっとばたついている。
志津丸と二人がかりで受付台を運び入れ、位置を検討していると、インターホンが呑気な呼び出し音を奏でた。
通話に出てみれば、扉の前に立っているのは
しかも彼の傍らにはどういう訳か、
「ネギシさん、おはよー」
「ええ? 諭一くん? なんで伊藤司令と……」
急ぎ玄関扉を開け、改めて仰天する根岸に対して、諭一はひらひらと手を振った。
「カリエさんに招待されたからだよ。なんか、怪異と人間はあまり鉢合わせない方がいいから明るいうちに来てくれって」
「それは僕も聞いてますけど」
人間には日中の来訪を案内したと、雁枝から事前に聞いている。
「でも、ぼくはほら、しばらく外出は慎重にって言われてたじゃん? だからイトーさんに、『カリエさんの生前お通夜に行ってもいいですか』ってフツーに電話で聞いた。そしたら送迎してくれるって言うから」
呆れる根岸の隣で、志津丸もまた唸った。
「こいつのコミュ力、ちょいちょい化け物級だよな……」
「やあ、しづちゃんも来てたんだ」
諭一はけろりと志津丸に笑いかける。
「お邪魔致します」
二の句を継げなくなる根岸たちを尻目に、ごく事務的な挨拶と共に伊藤が建物内へと踏み入った。
「陰陽庁にもご案内のお葉書は頂いておりましたので、中央局を代表して
「ど、どうも。えーと、こんな格好ですみません」
慌てて頭を下げる根岸の視界に、すいっと黒い影が入り込んだ。
ミケである。つい先程までエプロン姿で台所に立っていた彼は、いつの間にか通夜用の略式喪服に着替えていた。
ミケは上がり
「すまんね、真っ昼間に通夜なんざ。怪異には日が暮れると必要以上に元気になる奴もいるもんでな、人間には危なっかしい」
「承知しております」
ミケより余程人間離れした淡泊さで、伊藤が応じた。
「御主人は、もうあまり奥の間から動けんのだが。まあ上がってってくれ」
最期の
今は
とはいえ、それも分かっていた事態である。
ミケは人間二名を雁枝のいる和室へと案内した。これまたいつの間にか、和室のサイドテーブルには客用の日本茶セットが用意されていた。
「流石……」
思わず声に出して根岸は呟く。八十年にわたって客をもてなしてきた家令の仕事振りは、恐ろしくそつがない。
(いや、感心してばかりじゃ駄目だな)
と、根岸は胸中で自身を叱咤した。
名目上とはいえ、これから自分はミケの『主人』となるのだ。少しはそれらしく振る舞わなければ。
「おや、ウェンディゴ憑きの坊や。ありがとうね、ちょっとの縁だってのに足運んで貰って」
椅子の上でうとうとしていた雁枝が、諭一の顔を見て明るい声を上げる。
直接雁枝と顔を合わせるのはこれが二度目となる諭一は、いつになく切なげな眼差しで椅子の傍らに片膝をついた。
「『灰の角』も、もう一度カリエさんに会っておきたいって」
諭一が左腕に浮かんだ『灰の角』からのメッセージを翻訳して読み上げている間に、根岸はその場を退出した。胸ポケットのスマホが振動したためだ。
画面を見れば、着信相手は
「はいもしもし、所長?」
『根岸。どうだ、葬儀の準備は』
「はあどうにか……」
今日は平日だが、根岸は忌引扱いとなっていた。といっても根岸はトクブンの音戸邸担当職員だから、葬儀の準備も半分仕事のようなものだ。
『今、駅だ。俺もこれからバスに乗るんで、あと十分くらいでそちらに着く。挨拶させて貰うよ』
「ああ、所長にも案内状が届いてましたね」
『俺はこれでも、雁枝さんと長い付き合いなんだ。……残念だよ』
決してビジネス上だけのものではない感情が、低い声に篭められる。根岸は何とも答え
『妙な言い方になるが、音戸邸の耐震補強工事が間に合ったのはせめてもの救いだな。管理人がお前となると、防御結界は張れんだろう。いやまさか、自分の部下が文化財の邸宅を相続するとは思わなかった』
「……僕も予想してませんでした」
『そりゃそうだ。――んっ? 何だ、猫?』
不意に電話の向こうからごそごそと身じろぐような物音が伝わってきて、根岸は訝しむ。
「所長、猫って……」
『ウワッ!?』
問いかける暇もなく、短い動揺の声が上がった。根岸はその場で慌てふためく。
「しょ、所長!」
『にゃーん? その声! やっぱ根岸だにゃん!』
唐突にスピーカーから沸いたのは、聞き覚えのある甲高い少女の声色だった。
「まさか……
『そうだにゃーん。東小金井駅に着いたら、根岸がどうとか言ってるおじさんがいて、しかも電話の向こうからお前の声がしたから、つい電話取っちゃったにゃーん』
「取っちゃったにゃーんって……返してあげて下さい」
富山県は
東京怪異激甚襲撃の際には助けられたものだが、彼女はミケと比べてももう少し「ネコ科らしい」気性の猫又であるようだ。つまり気まぐれで感情的、時に攻撃的である。
『す、すんません! 大丈夫ですか! 禍礼さん、いかんがいぜ知らん人の肩に飛び乗ったら!』
『
『あんたの荷物も運んどるがですよこっちは!』
禍礼のそばにはもう一人、男性がついているらしい。こちらは記憶にない声だ。雰囲気からして人間だろうか。
いくらか遣り取りする音声が漏れ聞こえた後、再び上田が電話に出た。
『あー……すまん根岸、今から三名でそちらに伺う。俺と、猫又の毛勝禍礼さんと、富山
「――お、お気をつけて」
何があったのか詳しくは分からないが、結局、早くも人間と怪異が鉢合わせになってしまったという訳だ。
これは波乱の一日になりそうだな、と根岸は、通話の終わったスマホの画面を見下ろして覚悟を固めた。
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