第115話 帰らぬ人の帰郷 (6)
何事もなく、平穏な朝が訪れた。
一階の台所からの物音で根岸は目覚め、昨夜うっかりと寝落ちした事に気づく。
慌てて一階に降りると、両親と小春が既に起き出していた。
小春は寝坊がちな体質だが、今朝は「お腹空いて目が覚めちゃった」とのことだ。残り物のカレーライスに半熟卵をかけている。
根岸に続いてリビングに現れた
「朝から食うなあ」
と呆れ半分に感心した。
「朝カレーは健康にいいんだって言ってたよ」
「言ってたって誰が。インフルエンサー的な?」
「うん。あのほら、
どうという事もない遣り取りだったが、父と母はそれを見て安堵した様子だ。小春を心配をしていたのだろうと根岸は察する。
見えない
「
リビングを見回した定明が、トーストとバターのケースを持って椅子に腰掛けた根岸に気づく。
「秋太郎お前、それ食べたらすぐ東京に戻るのか?」
「ああ、大急ぎで出発ってわけじゃないけど」
トーストを飲み下して根岸は答えた。
昨夜はミケに連絡出来ず終いだった。彼は葬儀と相続の準備で、今頃ばたばたしているはずである。
根岸は葬儀を執り行った経験に乏しいが――ましてや弔われる者が五百歳で、まだ存命となると尚更――しかし雑用でも何でも、手伝える事は手伝いたい。
「……東京でやらなきゃならない仕事があるから」
「そうか」
頷いた定明は、少し間を開けて続ける。
「しばらく帰れないなら、最後に久しぶりに家族で日帰り温泉でも、と思ったんだがな」
ここ、
「あ、前にも話したと思うけど父さん、僕は身体に傷が……かなり死んだ時のまま残ってるから」
「――そうだった。すまん、父さんからははっきり見えないもんだから忘れてた」
「俺も忘れてたよ。服着てると分からないんだな」
涼二郎が驚いた様子で口を挟む。会話の聞き取れない奈緒子が不思議そうな顔をするので、小春が根岸の言葉を伝えると、「あら」と彼女は心配そうに呟いた。
「全然痛みとかはないから平気だけど。ただ夏も長袖しか着られないのがちょっと不便そうだ」
「幽霊って熱中症になったりするのか?」
「さあ……?」
涼二郎の素朴な疑問に、根岸は首を捻る。
精神生命体の怪我や病気は、雑にまとめれば全てが『病は気から』の部類だ。温度は感じるし飢えや喉の渇きを覚えもするので、暑さのあまり「これは倒れる」と思い込めばそうなるかもしれない。
「何か餞別をやりたかったんだがなあ。残念だ」
あまり感情を表さない定明がしみじみと吐露するので、根岸はトーストを皿に置いて両腕を広げた。
「気持ちだけで十分」
それは心の底からの本音だった。
根岸も同じだ。彼が『家族』にしてやれる事は、自ら安全に距離を取る以外にもう何もない。納得しようとも、寂しさは残る。
「じゃあ兄貴、駅まで車で送ろうか」
さらりと涼二郎が提案する。
「バスで行くつもりだったけど。いいのか」
「別にそれくらい。前に愚痴ってたじゃん、バスに置き去りにされる事があるって」
「それは今は滅多にない……でも、それなら頼む。助かる」
「ん」
軽く照れたような顔で、涼二郎はマグカップの牛乳を飲み干した。
◇
そんな訳で、滞りなく荷造りを終えた根岸は家の玄関に立った。
しばらくは帰らないと告げたものの、『しばらく』がどれくらいの期間になるのかは根岸にも分からない。元々、いつ突然に成仏しても不思議でない幽霊の身だ。
もしかしたら実家を見上げるのもこれが最後かもしれない。
「ねえ、
見送りに出て来た小春が、しんみりしかけた空気を打ち消そうとしたのか明るい声を上げた。
「なに?」
「やっぱちょっと心配だからさ。秋兄に邸宅をくれるっていうひと……
「ミケさんの方はニュースに映ってたよ」
「見た見た。炎の塊みたいなデッカい猫でしょ? いやそっちじゃなくて、人間に変身出来るっていうじゃない。どんな感じに?」
「写真なんて持ってたかな……」
そう応じながらも根岸はスマホ内を探る。すると、LINEから取り込んだ画像が一枚見つかった。
天狗の里で宴会になった時、ミケが猫の耳を頭に生やしてみせたのを、
「……あった。これ普段は耳も人間と同じなんだけど、ふざけてて」
「どんなふざけ方してんの」
途端に、彼女は食い入った。
「えっ!? ミケさんてこんな若いの? 秋兄、ずっと年上っぽいみたいな言い方してなかった!? てかビジュ
「年上だよ。だから怪異は外見からだと年齢も何も測れないんだって」
「うっひゃー。わたし、受験の時会いに行ってもいい? 東京行くから!」
「小春。先方に迷惑だろう」
定明が
「それに危ないよ。しょっちゅう妖怪や幽霊が出入りする邸宅なんだから。全員が人間に慣れてるとは限らない」
続けて根岸も説き、小春は「えぇー」と口を尖らせた。
我が妹ながらなんと現金な、といくらか根岸は呆れたが、実の所、それくらい適当に受け止めてくれた方が気楽な面はある。
「……秋太郎」
玄関口に立つ奈緒子が、ふと呼びかけた。
彼女は小春の視線を追って当たりをつけ、根岸の顔に近い位置を見つめる。
「母さん、なに?」
「前にあんたが住んでたアパートから、夏掛けの布団を引き取ってあるからね。夏が来る前に送っても良い?」
暑い思いをしそうなんでしょう、と奈緒子は言った。
虚を突かれた気分で、根岸は彼女を見つめ返す。
不意に涙が浮かびかけ、しかし危うい所で彼は耐えた。
長い別れになるならば尚更、泣いて終わりたくはない。
「ありがとう。助かるよ」
どうにかそれだけ根岸は返した。
車の運転席に先に乗っていた涼二郎がその言葉を奈緒子に伝える。
「それじゃ――また」
あえて短くそう告げて、根岸は家族に片手を上げてみせると、車の助手席へと乗り込んだ。
◇
大都市の交通網とは便利なもので、二時間ほど電車に揺られただけで根岸は東京都
「おや秋太郎、おかえり」
「どうも、多忙な時に留守しまして……雁枝さん、もしかしてお疲れですか?」
珍しいことに、彼女の二本の尾も耳も心無しか垂れて見えた。
「ああ。昨日から大急ぎで葬式の案内葉書を作って郵送して……ま、自分で言い出した事だ。あたしの仕事量はミケほどじゃないしね」
そんな風に語りながら雁枝は根岸を先導する格好で奥の間に戻り、気に入りのロッキングチェアの上に落ち着く。
奥庭に面したその和室には雁枝の棺桶が据え置かれ、隅には上品な
「ミケさんはどちらに?」
「昨日から夜通しあちこち出掛けてて、ついさっき帰って来て二階の書斎へ。休みなさいと言ったんだけど、書類の整理だけつけたら、なんて聞かん気でね」
あたしより先にへろへろにならなきゃ良いが、と雁枝は丸まった姿勢のまま器用にも肩を竦めた。
心配になった根岸は二階の書斎へと足を運ぶ。閉ざされた扉の向こうからは、これといって物音もしない。
「ミケさん?」
呼びかけつつノックをして、扉を開ける。
十五畳ほどもある広い書斎には複数の本棚が立ち並んでいた。手前側に、黒檀色の重厚なデスクが一台。
デスクの上にはノートパソコンが点けっぱなしにされ、傍らに書類とファイルが積まれている。
そしてそのファイルを枕にする形で、猫の姿のミケがデスクに寝そべっていた。
猫の状態で眠る時も大体は綺麗に丸まって猫用クッションに納まる彼が、だらんと四肢を放り出している。見ているうちに、プスー、と小さな寝息が上がった。
吹き出しそうになるのを堪えて根岸は、このまま寝かせておこうか、それとも彼の部屋の寝床まで運ぼうかと考え込む。しかし長く悩むまでもなく、ミケの方が気配を察知したのかぴくぴくと髭を動かした。
前足で顔を洗う仕草を見せ、ミケは金縁の両目を開く。
「……。おう、根岸さん……?」
「おはようございます。帰りました」
デスクの上から覗き込む根岸に対して、ミケは「んああ」と
「しまった、寝こけちまってたか。何てぇこった」
「夜通し働いてたって聞きましたよ。疲れてるんでしょう」
「まあな」
欠伸混じりに応じながらミケはデスクから革張りの椅子へと降り立ち、そこで人の姿に変わる。
「ワッ!」
と、今度は根岸が動転して
例によってというべきか、ミケは素裸である。
「あ……そうか。寝る準備を済ませてから一仕事始めたんだった」
「『寝る準備』で全裸になるのおかしくないですか?」
「そうは言うがね、俺は何しろ」
本分は猫で――と言いかけたところでミケは首を傾げ、椅子から立ち上がった。
「それより根岸さん、実家はどうだったんだい。話は出来たか?」
「……話は」
けろりと裸で仁王立ちするミケから、軽く目を逸らして根岸は頭を掻く。
「そういえば……結局本題の相続については、あまり深く話し合ってないな」
「おいおい。何しに帰ってたんだよ」
「色々ありまして」
「あんた、何だか犬の匂いがするぞ?」
本当に何をしてきたんだ、とミケは
――
ミケは獣の怪異の中でも特に嗅覚が鋭敏だ。微量の気配を嗅ぎつけたとしても不思議ではない。
「それについても色々と」
自室から寝間着を取ってきたミケが服に袖を通す間に、根岸は簡単に実家であった事を伝えた。
「へえ。人狼が疎開ね……」
「ちょっと気の毒だなと思って。イーゴリたちの襲撃は突然でした。咄嗟に立ち向かえなかった怪異のグループがいても、責められるような事じゃないですよね」
「分かった。丁度
一つ頷いてスマホを手に取ったミケは、そこでふっと苦笑を浮かべる。
「しかし根岸さん、あんたまた他人の世話を焼いて自分の悩みは後回しかい?」
「そんなつもりはないですよ」
そこは反論する根岸である。
「本題の件は、結局僕の意志次第ですから。そんなに長々と家族を巻き込む必要がなかっただけです」
「……ってことは」
片眉を持ち上げるミケの顔を、根岸は真向かいから見つめ返した。
「僕は、結局……居場所が欲しいんです。
――
雁枝の後継など務まるのかどうか、文化財でもあるこの立派な邸宅を維持出来るのか、そんな不安は後回しだ。根岸はただこの地上に、居場所を得たかった。
二人の間に落とされた言葉を、互いに吟味するような沈黙。
しばらくしてミケは再び笑い、根岸の背に手を回して叩いた。
「ありがとうな。そんで、この先よろしく頼む」
「こちらこそ」
さて、とミケは仕切り直す風に身を離す。
「まだまだ忙しいぞ。根岸さん、まだバッグも下ろしてないじゃないか」
「あれ、本当だ。
根岸はあたふたと背中から下ろしたバッグを抱え、自分の寝室の
◇
根岸の背を見送ったミケは、ふと書斎の窓辺を振り返る。
「……お前さんは」
そこにいつの間にか
小麦色の毛並みに、くるりと巻かれた尾。黒々とした穏やかな瞳。猟犬の血を引くにしてはおっとりした印象の、一匹の老いた柴犬だ。
「犬の匂いの正体はこれか。……
先程、
――消滅したはずの幽霊が、十三年振りに顕現。あり得るのか。
そんな疑問がミケの脳裡を
幽霊は弱く、曖昧な存在だ。しかしその分法則性に欠け、どんな奇跡でも軽々と起こす。
加えて、根岸には
自分の責として背負っていた愛犬の
「気持ちは分かるよ。あのひと、しっかりしてるようで危なっかしいもんなぁ」
屈み込んで、尖った耳の間を掻いてやる。柴犬は嬉しそうに尻尾を振った。
窓から射し込む陽光の下で、小麦色の毛並は徐々に薄れゆく。雨上がりの虹のごとく光に溶けてゆく。
「安心したか、元気そうにしてるのを見て」
ワフ、とごく小さな鳴き声が答えた。
「ま、そうだな。安心していいさ。一応は俺もついてる」
黒い目がミケを見上げる。毛皮を撫でる手の平に、湿った鼻先が押しつけられた。
そしてそれきり――湿り気を伴う感触は、
影も声も、残り香すらも、書斎の窓辺には既に存在しない。
根岸には伝えるまいと、ミケは独り思う。
老犬は満足し、自らこの別れ方を選んだ。
あえて涙の別れを必要としない愛情も、この世には
【帰らぬ人の帰郷 了】
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