第87話 灯火の尖塔へ (8)

 午後七時五十分、東京タワー地下駐車場前。


 尖塔を彩る暖色のライトはこの場所にも僅かながら届く。

 先程買い出しに出た時より、人影も車通りもまばらだ。


 どうやら東京タワー内の展望台は夕刻を前に臨時休業となったらしい。空中を浮遊する危険怪異が都内に大量発生したのだから、当然といえば当然の対処である。

 観光客はタワーを下から眺めて、不服顔を抱えて帰るしかなく、日も沈みすっかり気温の下がった今となっては、カップル達も盛り上がりようがない。


「そういや、春休みシーズンなんですよね今。遊びに来た人は不運だな」


 退屈しきった風の二人組の通行人を物陰から見送って、根岸はごく小声で呟いた。


 根岸達もまた、今日の昼過ぎまでは天狗の里への小旅行を楽しんでいたのだ。家に帰るまでが旅行だと言うなら、未だその帰路半ばである。


「あたし達も東京タワーはまだ観光してなくない? チャチャイ、今度行こうよトップデッキとかいうの」

「いいねリンダラー! ……でも普通にタワーより高く飛べるけどねおれ達」


 隣にうずくまっているリンダラーとチャチャイが、ひそひそといちゃつく。


 根岸ら三名は、地下駐車場入口からは死角となる建物の陰に身を潜めていた。

 入口真正面には陸号ろくごうとペトラ、志津丸しづまる芳檜ほうかいが立っている。


 一応根岸らは後衛部隊という形だが、相手方からは恐らくすぐに気配を察知されるだろう。人狼でなくとも、この距離なら根岸でも怪異の匂いくらいは感じ取れる。

 ただ、周囲の人間達を避難させるにはこの配置が適切と言えた。


「来た! あれが『サーシャ』?」


 前触れもなく、リンダラーが口走った。

 駐車場入口、コンクリートで固められた屋根の上に、男の姿が現れたのだ。


 黒褐色の巻き毛で、長身に痩せ型。陸号が「サーシャ!」と呼びかけたからには、彼がそうなのだろう――少なくとも外見は。


「よっ、陸号」


 屋根の上に片膝をついて陸号を見下ろす『サーシャ』は、そんな風に気安い挨拶をしてから、軽く首を傾げた。


「『陸号』……でいいんだよな? 、残念ながら」


 その一言に、陸号が息を呑んで踏み出しかけていた足を止める。


「お前……っ、やっぱり本物じゃ――」

「とっくに見抜いてんだろう? お前らこそ、そこに仲間を隠してるじゃないか。怪異同士で化かし合いは難易度高いよな」


 『サーシャ』は鼻先を根岸達の潜む方角に向けて、匂いを嗅ぐような仕草を見せた。やはり把握されている。


「本物のサーシャはどこに!?」


 ペトラが憤りを滲ませて問い質すと、『サーシャ』は口元を獣の形に歪ませて、一つ舌舐めずりをした。


「美味かったよ。いいモン食ってやがんなこの国の人狼は」


 陸号とペトラがさっと色を失う。


「よくも!」


 瞬時に、ペトラは白い狼へと変容した。勢いをつけてコンクリートの屋根へと跳ね上がる。

 牙を剥いて偽の『サーシャ』へと挑みかかったペトラだったが、その攻撃は突如虚空から現れた三本腕によって阻まれた。


「あッ!?」


 白い毛と血が飛び散る。

 全くの不意打ちだった。鋭い爪を背中に立てられたペトラはもんどり打って地面に転がるも、どうにか体勢を立て直す。


「ペトラさん!」

「この野郎――ブギーマンか!」


 狼に変化へんげした陸号がペトラを庇い、更にその前に芳檜が躍り出る。彼は唸りを上げる勢いで分銅鎖を回転させ、三本腕に向けて繰り出した。


「るぅイぃえええええッ」


 夜の静寂をつんざく、機械の軋みにも似た絶叫。

 芳檜の分銅鎖が三本腕に絡みつき、空間穿孔くうかんせんこうによって潜んでいたブギーマンの全身が外界へと引きずり出される。


「ちっ」


 『サーシャ』が舌打ちと共に両手の爪を伸ばして身構える一方、志津丸も薙刀なぎなたを手の中に現出させた。


「てめーら、無関係の人狼に手ェ出してんじゃねえッ! まとめてオレが相手してやんぞ!」


 怒りを籠めて一振りされた薙刀により、突風が巻き起こる。

 ペトラを追撃しようと踏み込んできた『サーシャ』が、風圧を受けて堪らず後退した。しかし彼が退くのと入れ替わりに、闇夜の物陰を縫うようにして複数の獣の影が迫る。


「ガアァァッ!」


 狂暴な威嚇音を上げ、二体の人狼が左右から志津丸を急襲した。

 志津丸の薙刀が再度振るわれ、牙と爪をいなす。街灯の届かない暗がりの中、激しく火花が散った。


「シヅマルが! 助けなきゃ!」


 梔子色くちなしいろの四枚翅を素早く広げたチャチャイが物陰から飛び出そうとした途端、ぬうっと彼の目の前に色褪せた大判の布が現れる。


「うわっ!?」

「チャチャイ!」


 慌てて距離を取るチャチャイに、リンダラーが駆け寄った。


 ブギーマンの別個体だ。はっとして振り返れば、根岸らの背後の虚空からも黒ずんだ三本腕が這い出しつつある――挟み撃ちにされた。

 一体どれだけの群れが潜んでいるのか、と焦燥に駆られながらも根岸は血流し十文字のカバーを外す。


 その刹那。


『――そなた、名は』


 出し抜けに間近から声が湧き、根岸は身体を硬直させた。


(今の声は。……血流し十文字?)


 カバーを外した槍の穂を見つめる。

 タワーをライトアップするオレンジ色の明かりの下、刃の内部に赤黒い何かがうごめいているのが、微かに確認出来た。


『名は』


 淡々と、同じ声が同じ言葉を繰り返す。ごく低い男の声だ。


「名? ぼっ、僕は……根岸と申します、根岸秋太郎です!」


 思考を巡らせる余裕もなく正直に名乗る。ブギーマンの接近に構えるリンダラーとチャチャイが怪訝な視線を根岸に注ぎ、「知ってるよ?」と同時に言った。


『秋太郎殿。血の匂いがする。ここは戦場じゃな』


 二人の声の合間に、ぼそぼそとした声がなおも槍から漏れ出る。


わしゆだねよ。この場を生き延びるぞ』

「委ねよ?」


 それはどういう、と問い返しかけた根岸の両手の中で、槍の柄が大きく震えた。


「――っ!?」


 言葉を続けようとした根岸は、舌を噛みかけて危うい所で口を噤んだ。

 十文字の槍の穂が、水揚げされた直後の魚のごとく跳ねたのだ。当然それに繋がる柄の部分も激しく揺さぶられる。

 必死で柄を握る根岸の身体を強引に反転させ、槍の穂は飛びかかってきたブギーマンの布を真っ向から貫いた。


「な……」


 唖然とする根岸だったが、もっと驚いたのは刺されたブギーマンの方だろう。「ぎぃあああッ」と鳴き声を上げた相手は、どす黒い体液を撒き散らしながら飛び退き、でたらめに宙を舞った。


 そこに間髪入れず、別のブギーマンが頭上から掴みかかってくる。

 捻じ曲がった腕の一撃を、またも俊敏に動いた槍の穂が受け止めた。

 不自然な姿勢にされ転びかけたものの、何とかその場にとどまった根岸は、引きずられるまま闇雲に槍を突き出す。


 赤黒い軌跡を伴う、高速の一閃。ブギーマンの腕の一本が半ばの所から千切れ飛んだ。


「ぎぃいいいいっ」


 腕を断たれたブギーマンは、出現したばかりの虚空の坑内へと退却する。


『そうだ。手を離すな、目も閉ざすな。そなたの脚までは儂にも動かせぬ。踏ん張れ』


 至って冷静に、槍の穂が根岸に助言してくる。


 ――間違いない。この声は血流し十文字。あのこうという少女の父親である武士のものだ。


「ネギシ。その槍、何なの?」


 一旦危地を脱しはしたが、リンダラーまでも目を丸くしている。


「普通の呪われた槍……だったんですが」


 我ながら大分妙な言い回しだと、戸惑いの中で応じつつ根岸は思う。


「この声は――あの、僕からも名前をいても?」


 その回答はすぐに返ってきた。


『それは問うてくれるな。儂は浅ましき怨念にした身。我が名など最早、一族と主家の恥にしかならぬ』


 ――ただ、血流し十文字と。


 そんな風に槍の穂は、改めて名乗る。


『なれど、我が娘こうは。娘の名と、沈んでおった心をこの世に取り戻したもうた恩は』


 ぐい、と槍が前方に切っ先を向けた。

 示された先、コンクリートの壁の合間に身を屈めている人影に根岸は気づく。こちらの隙を伺っていたらしいその影は、どうやら『サーシャ』のものだ。


『秋太郎殿、そなたに返さねばなるまい。殺生の他に成すすべもなき呪具の身なれば、戦場にて』

「……そこまで卑下しなくとも」


 思わず、根岸は血流し十文字をフォローした。

 人の感情も怪異の力も、思いのままになるとは全く限らないのだ。

 根岸が力不足に悩み、幸が悲しみに揺蕩たゆたうしかなかったのと同様に、彼も好きこのんで狂気の呪具として顕現し続けた訳ではない。


「いえ……けど、分かりました」


 ――そうする事で、彼がやっと自身と向き合えるというならば。


「正直に言うと、力を貸して貰えて大変ありがたいです」

『血流し十文字、助力をもって報恩致す』


 赤黒く具現化した呪いを血液のようにまき散らして、槍の穂が根岸を誘導する。


 気取られた事を察したのか、『サーシャ』も動いた。身を屈めた人間の男の影が、両前足の爪をアスファルトに食い込ませる大型の獣のそれへと変容する。


 これはサーシャの狼としての姿なのか、それとも彼に化けていた人狼の本来の姿なのか――恐らく後者だ。どんなに高度な変身能力者シェイプシフターといえども、他者の異能までは再現出来ない。


 アスファルトの破片を蹴立てて、『サーシャ』だった人狼が跳躍する。人間並みの眼力しか持たない根岸には、視認可能なぎりぎりの速度だ。

 彼は目を逸らさない事に集中した。槍の挙動は十文字に委ねる。


 狼の牙が根岸の喉に届くより一瞬早く、槍先が跳ね上がった。根岸は地面を踏みしめ反動に備える。

 人狼の脇腹に赤黒く染まった呪いの刃が食い込み、臓腑の奥深くまでも切り裂いた。

 他者の命を今断とうとしている、その事実に吐き気がこみ上げたが、根岸は辛うじて耐え、『サーシャ』だったものから槍の穂を引き抜いた。

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