第86話 灯火の尖塔へ (7)
振り向けばそこは、根岸が暗闇に包まれる前に立っていたワンルームの洋間である。
入口に勢揃いしていた他の怪異達の姿はなく、
「他の皆はもう一階に向かった」
「何かあったんですか?」
志津丸の言葉に質問を返しつつ、根岸は彼を軽く観察した。
瑞鳶からの何らかの異能の『引き継ぎ』。根岸が結界内で血流し十文字と対話をしている間に、この部屋ではそれが行われていたはずだ。
が、見たところ志津丸の様子に変化はない。先刻まで眠っていたから髪に寝癖がついていたが、それもそのままだった。
「ペトラと
志津丸に代わって瑞鳶が答える。
人狼の嗅覚は、怪異の中でも特別鋭い。殊に血肉の匂いを辿らせれば、東京の東西を横断して追跡するくらいは造作もないと言われる。
味方にペトラと陸号がいてくれるのは頼もしいが、敵は人狼の大軍団だ。逃亡するには不利である。
「やっぱり来ましたか。……僕らも一階へ」
「ああ。師匠と雁枝ばあちゃんは、ここで待っててくれるか。まだ動かせねえ怪我人が何人かいる」
「おやおや。しっかりしちゃって」
雁枝が笑いながら志津丸の寝癖を撫でた。
「構わないよ。瑞鳶のスットコドッコイが無茶しないよう見張ってるから、お前達行っといで」
揃って背中を押される格好で、根岸と志津丸は廊下に出る。
エレベーターを待つのはもどかしく、二人は非常階段を駆け下りた。
「なあ」
二階の踊り場まで下ったところで、ふと志津丸が言う。
「根岸、気づいてるみてーだがよ。雁枝のばあちゃん……」
根岸は思わず立ち止まり、彼を見つめた。
しかし志津丸はそれきり、沈んだ表情で言葉を切る。
「……いや、何でもねえ。後にしよう」
と彼は再び足を進め始め、ややあってぽつりと付け加えた。
「ミケが戻るまでは、ゼッテー無事でいてくれる」
根岸は声に出さず、ただ強く頷いた。
◇
一階の談話室には、動けるだけの力が残っている怪異達が集合していた。
白狼の姿を取ったペトラが窓辺に鼻先を近づけ、頻りに匂いを嗅いでいる。
「志津丸、根岸くん」
裏口近くにいたらしい陸号が、こちらは人の姿で現れた。片手にスマホを握っている。
「陸号さん。敵が近づいてるって」
「そうなんだよ。おまけに今着信が――」
言い終わらないうちから、陸号の手の中のスマホが震える。
「あ、わっ……まただ。サーシャからだ」
「サーシャが?」
ペトラがこちらを振り向いた。
「サーシャっつうと、『ロックペーパーシザーズ』の常連客の?」
志津丸までも、驚いた風に口を挟む。
ロックペーパーシザーズとは、先程聞いた所によれば陸号が経営するボードゲームカフェの店名だ。常連客は大体近隣の怪異らしい。
「そう、『人狼ゲームを楽しむ人狼の会西東京支部』のメンバー」
呟きながらも、陸号はスマホの画面にじっと目を落としている。
呼び出しの振動は止まらず、結局彼は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『陸号! 久しぶりだな、なんか天狗の里が大変なんだって?』
スピーカーから漏れてきたのは明るい男の声である。ごく滑らかな日本語だった。
サーシャといえば東欧系の男女に使われる愛称だが、彼は日本在住歴の長い人狼と思われた。
『ペトラおばさんに緊急召集かけられたから俺も匂いを辿って追っかけてきたんだけどさ、詳しい場所が分からなくて。陸号、今ペトラさんと一緒にいるのか?』
「ああ。サーシャ、無事……なのか?」
『当たり前だろ。――今どこにいる?』
ごく短い逡巡を挟んで、陸号は応じる。
「こっちから合流するよ。君はどこにいるんだ?」
警戒を乗せた声音に戸惑ったのか、それとも別の思惑からか。相手もまたしばし沈黙を挟んだ。
ややあって、笑い混じりの声が飛んでくる。
『俺は東京タワーの下の……えーっと分かるかな、地下駐車場の前まで来た。何だよ、何か疑ってる?』
「疑ってる訳じゃ……」
その時不意に、横合いから近づいてきたペトラが人の姿を取るなり、陸号の手からスマホをひょいと取り上げた。
手の中のスマホが失われ、陸号はぽかんとする。
根岸も驚いたが、皆の視線を浴びつつもペトラは至極冷静にスマホへと語りかけた。
「サーシャ、はるばると悪かったね」
『やあ、ペトラさん。やっぱり一緒にいたのか』
「ええ。でも大分ややこしい事態になってるの。こちらが迎えに行くまでそこを動かないでくれる?」
『仕方ないな、分かったよ』
「ごめんね、後で奢るよ。うちの店にいつものジョージアワイン仕入れてあるから」
『そりゃ楽しみだ。騒動が片づいたらまた店に顔出すね』
通話は切れた。
同時に、ペトラは深い溜息をつく。
「多分……本物のサーシャじゃない」
「えッ――」
彼女の言葉に、根岸のみならずその場の何人かが動揺を見せた。
「彼がうちの店で飲みたがるのは、ジョージアワインじゃなくてチャチャだった。あの辺で仕入れてる店は少ないからね」
チャチャって、と短く問う志津丸に、ジョージアの蒸留酒だと陸号が小声で説明する。
ペトラは
「十年近く通ってくれた客の好みだよ。間違えやしない……」
沈痛な表情で、ペトラは陸号にスマホを返した。陸号もまた俯いて両目を閉ざす。
そう、電話相手が偽物のサーシャ――恐らく変身の術を施された敵の怪異――だったという事は、携帯電話を奪われた本物のサーシャは今どこにいるのか。
最悪の事態を想定せざるを得ないだろう。
「東京タワーの地下駐車場前。さっき買い物に出た時入口を見ましたね」
根岸は顎に手を当てて考える。先程通りかかった時点で、タワー近辺に不審な様子はなかった。
それどころか、八王子近辺で大惨事が起きて二十三区内も未だ警報が解除されていないというのに、散歩か観光帰り風の人間がちらほらと歩いていた。
日本人はそれなりに怪異に慣れているとはいえ、呑気なものである。
「志津丸さん、この避難所を襲撃させる訳にはいきません。となると……」
「ああ。こっちから打って出る必要がある」
わざわざ向こうから電話で接触を図ってきたという事は、まだ避難所の正確な位置は特定されていないはずだ。
匂いの分散のため、あえて回り道をしたり買い物に出たりしたのが少しは功を奏したらしい。
今の所、敵の目標として判明しているのは天狗の里の破壊である。瑞鳶によれば
となると、瑞鳶の殺害は彼らにとって絶対の勝利条件だろう。次いで狙うとすれば盟友の雁枝の命か。そして、現時点で天狗達を率いる志津丸……。
「オレが奴らの前に出て行けば、敵はそっちに集まる。ちったぁ時間が稼げる」
半端に下りていた金髪を
「その間にハナコ、結界を頼めるか? あんたならとびきり強いのが張れるだろ」
「いいだろう。ここの守りは任せな」
仁王立ちのハナコが腕を組んで宣言する。
その後のチーム分けは手早く済んだ。
東京タワーに向かうのは、志津丸、
「根岸、オメーはこれ以上天狗のゴタゴタに巻き込まれる必要ねえんだぜ」
と志津丸は、根岸を危地へ同行させるのが気の進まない様子である。
「巻き込まれるってのは心外です」
血流し十文字の穂先にカバーをかけながら、根岸は眉根を寄せた。
「東京都特殊文化財センター職員として、一般市民の避難誘導は業務のうちですから。僕は怪異ですけど、同時に都民を守る義務も負ってる」
それに、と根岸は付け加える。
「ミケさんがここにいたら、最後まで志津丸さんを助けるって譲りませんよ。ただ出逢っただけの僕を、二人で助けてくれたように」
その発言に一瞬怪訝な表情を浮かべた志津丸だったが、すぐに根岸と出逢った時の事を思い出したのか、気まずそうに視線を逸らす。
「あん時は、オレは別に……ミケが何とかしてやりてえっつうからよ」
思わず、根岸は忍び笑った。
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