第60話 秋の初風、石のおと (12)

 小学校の人狼騒動から、数日が経っていた。

 ミケは無事に全快している。右目も再び開き、魔眼の毒も消えた。


 雁枝かりえからはしばらく休むようにと命じられたのだが、困った事にこの主人は、家事全般が苦手である。本来吸血女という怪異種に料理や掃除の腕など必要ないのだから仕方がない。

 放っておくと瞬く間に重要文化財の邸宅が荒れ果てそうだったので、ミケは早々に使い魔の仕事に復帰した。朝食を作って掃除洗濯を済ませ、今は買い出しからの帰り道である。


 数日にわたってばたついているうちに、空を流れる雲はすっかり秋雲の形へと変わっていた。ショッピングバッグを肩から提げたミケは、高い青空に向けて小さく息を吐く。


 昨日、中村陸号なかむらろくごう音戸邸おとどていを訪ねてきた。諸々もろもろの状況報告だと言う。


 ――結局、志津丸は卒業まで今の小学校に通い続けることになった。


 まず、その報せにミケと雁枝は頷き合った。

 小学生の勉強ならば、別にミケが面倒を見ても良いのだが、退学同然の気まずい別れなど、やたらと子供に味わわせたいものではない。学校側が特例として怪異を受け入れ、志津丸もそれを承諾したというのであれば何よりだ。


 音戸邸への襲撃の件についても、挑まれた雁枝が無罪放免を望んでいる点と、ヴィイの魔眼の片割れを発見した功績を鑑みて、処分は先送りされた。人間風に言えば執行猶予である。


 それで志津丸はどうしているのかとけば、クラスメイトで初めて親しくなった小塚こづかという少年と、その妹と一緒に遊びに出かけたそうだ。

 友達が出来たとはめでたいな、とミケは素直な感想を述べたが、陸号は「ゲームは一日一時間って決まりなんだけど、ちゃんと守ってんですかね」と眉をひそめていた。

 恐らくそのルールは守られていない。ボードゲームカフェなど経営している割に、陸号の教育方針は古風である。


 小塚という少年は、学校内に身を潜めたイーゴリに手足として使われていた児童の一人だ。彼の他にも数名の教師や児童が、『佐藤真由さとうまゆ』への疑いの目を逸らし、気弱ないじめられっ子というポジションを確立させ、更に邪魔な天狗を追い出すために利用されていた。


 小塚少年が目をつけられた理由は単純で、『佐藤真由』の家の近所に住み、また妹思いの兄だったためである。

 彼の妹の怪我は無論、イーゴリの手によるものだ。目の前で妹を高所から突き落とされて脅され、十二歳の少年に抵抗の道筋など思い浮かばなかった。


 彼がイーゴリによる殺人の濡れ衣を着せられるか、無理矢理共犯者にさせられるかは時間の問題だっただろう。妹への危害は止められなかったが、最悪の事態は未然に防いだと言える。

 妹、小塚菜々ななの怪我も、後遺症の残るようなものではないとの事だ。


 一方、今回最も酷な結末を迎えたのは、本物の佐藤真由の叔母にあたる人物だった。


 佐藤の両親は、今年の初めに『家族旅行中の交通事故』で命を落としている。奇跡的に助かった一人娘は叔母に引き取られ、転校して現在の学校に通い始めた。

 明るかった姪っ子が、人が変わったように無口になってしまったのを、事故のショックと学校でのいじめのせいだと叔母は考えた。


 しかしその少女の姿をした者こそが、彼女の兄と義姉、本物の姪を食い殺した怪異だったというのが真相だ。


 人食いの人狼と半年もの間同居していた――そう知らされた彼女は、報告に来た陰陽士おんみょうしと警察官の前で卒倒した。現在もパニックの症状が治まらず、入院中である。


 ――志津丸が落ち込み、己を責めるのも分かるというものだ。


 ミケは道端でひとり、物思いにふける。

 怪異には、生まれながらそなわる本能のまま人をあやめ続ける個体も多い。それ以外に生きるすべを知らない。ミケもまた、顕現した直後はそういう一個体だった。


 同族の暴走全てを未然に防ぐのは不可能であり、物質生命体の世界に対してそこまでの義理を果たす必要もないと、ミケは承知している。

 それでも、こういった暗い報せには気落ちさせられるものだ。

 七十年も人の街で人に寄り添って生きれば、人類という奇妙な隣人らへの愛着も培われる。

 とはいえ気落ちしたところで、怪異の性質が変化する訳もなく、世界のいびつさが丸く収まる事もあり得ない。


 空に向けていた目を落とし、ミケは足を早めた。間もなく音戸邸だ。


 そこに、エンジン音が近づいてきた。振り返れば、住宅街にはいささか不釣り合いな大型のバイクが一台、速度を落として走行している。


 バイクはミケのすぐ横まで来て停止し、運転手がヘルメットを脱いだ。

 ロマンスグレーの髪を後頭部で括り、口髭を形良く整えた初老の男である。


 初老といっても、レザーのジャケットを羽織ったがっしりした体格は老いによる衰えを感じさせず、その眼差しには猛禽類もうきんるいを想起させる鋭さがあった。瞳の奥に、赤銅しゃくどうがかった不可思議な光を湛えている。


「おお、ミケ坊か。久しぶりだな。厄介な呪いを呑み込んだって聞いたが具合はどうだ?」


 舞台役者のようなバリトンの声音でミケに呼びかけつつ、男は跨っていたバイクの座席を降りる。

 ミケの正体を知った上で坊や呼ばわり出来る者など、世界広しと言えどもそう多くない。


瑞鳶ずいえんさん」


 ミケは目を瞠った。

 高尾山の天狗の頭領にして、関東一円の怪異の重鎮。もがりの魔女こと音戸の雁枝からも一目置かれる存在。そんな怪異が不意に、住宅街の路傍に現れたのだ。


「丁度いい、音戸邸を訪ねるところだったんだよ。雁枝のねえさんとミケ坊にはわしが留守をしとる間に、随分と世話になったからな」


 先刻までは陸号の店に立ち寄っていて、音戸邸訪問の後は三鷹のペトラの家を訪ねる予定だと言う。


 バイクを押して転がしながらそこまで語り、ふと瑞鳶は、両目の間を指で押さえた。


「ふう――相変わらず人の街ってのは、精気がごちゃついてんなあ」


 と彼は、ジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出す。

 瑞鳶の千里眼は強力な異能であるが、使い手の肉体には相応の負担がかかる。先日初めて発動させた志津丸は、顔から出血までしていた。


「昔は千里眼開きっ放しで街を闊歩して、失せ物探しでも何でも出来たもんだがね。今やこのザマだ。全く歳は取りたくねえなミケ坊。姐さんを大事にしてやってくれよ」

「……肝に銘じるよ」


 ミケは苦笑で応じる。

 瑞鳶が姐さんと呼ぶ雁枝はというと、昨夜半世紀ぶりに手料理を作ろうとして、土鍋を空炊きして割ってしまい、現在音戸邸中央の座敷の棺桶内で、ミケの姉猫だったコマの姿を取って落ち込んでせっている。


「しかし瑞鳶さん、千里眼を使いながら街なかをバイクでなんざ、それこそ重大な失せ物探しの折くらいにしか取らない手だったろうに」


 瑞鳶と並んで歩くミケは、短い沈黙を挟み、再び口を開いた。


伽陀丸かだまるを探してんのかい?」


 率直な問いかけに、瑞鳶はサングラスの奥の目を僅かに伏せてみせる。


「ああ。これはひとえに、儂の不徳が招いた事態だからな。どうにかあの子を見つけてやりたい」



   ◇



 伽陀丸が脱走し、行方不明となった。

 その情報は既に数日前、音戸邸に届いている。


 一旦は天狗の山里に護送された伽陀丸だったが、しばらく沈黙を貫いていた彼が突如、「イーゴリと出逢った場所を教える」と言い出した。ヴィイの魔眼もその場所で取引したのだと言う。


 訝しみながらも天狗達は、山里の結界から伽陀丸を連れ出し――その直後、巨大な金毛の狼に襲撃された。

 不意を打たれ、同行していた天狗二名が重傷。一方で狼の方も、襲撃時既に深手を負っていて、天狗達が反撃に転じるとすぐさま逃走した。

 そして、ほんの数瞬の混戦が収まった後、伽陀丸もまた狼と共に姿を消していた――


「伽陀丸の逃亡を助けたのは、恐らく……」

霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ


 磊落らいらくな態度から一転して硬質な声音で、瑞鳶はその名を口にする。


「また厄介な奴が現れたもんだ。いつの時代にもああいう大食らいはいるがな」

「イーゴリと伽陀丸、二人の動きから見て、伽陀丸が捕まった場合の対処はあらかじめ取り決めてあったんだろう。今のイーゴリは瀕死だ、かなりの危険を冒してその取り決めを全うしたって事になる」


 つまり――とミケは続けかけて、言葉を切った。導き出される結論は、瑞鳶にとって残酷なものだ。

 対する瑞鳶は、「ああ」と平静に頷く。


「他の若天狗達は、伽陀丸がイーゴリにそそのかされたか、無理矢理動かされたのだと信じたがってるが……そいつはとんでもない誤解って事だ。あの子はイーゴリとビジネスをしてる……自分の意志で、東京の怪異全てに叛逆を起こそうとしてる」


 ふっと、苦笑に近い笑いが瑞鳶の口から漏れた。


「笑い話じゃないかミケ坊。四百年生きて研鑽けんさんを積んだつもりになってる男が、自分の目の前の若芽が伸びる方向も分からず、石の転がる先も見えんザマと来た」

「うちの御主人もよくそんな事言ってるな。使い魔が歳食って生意気になっちまったとかで」


 ミケは肩を竦めてみせる。瑞鳶は再び、軽く声を上げて笑い、秋空へと顔を上向けた。


「儂ァな、あの子が山の礫塵れきじんを震わせる、その音が大層好きなんだよ。将来が楽しみな子だ」


 楽しみな子、とは瑞鳶は言わない。

 今も当たり前のように、伽陀丸を見放す事なく守ろうとしている。


 ――やはりこの大天狗は、大器者だ。


 ミケはそんな風に胸中で呟く。

 だが同時に彼は思う。あまりにも大きな存在の傍で育てば、時として憧憬と嫉妬に耐えがたくなる者も現れるものだ。それは瑞鳶を責めても仕方のない、どうしようもない事である。


 伽陀丸とイーゴリを発見するのは当面難しいだろう、とも彼は考える。

 当然、伽陀丸は瑞鳶の千里眼を知っている。その効果の及ぶ範囲も、身を隠すすべも。

 イーゴリの方も、あの傷を癒やすには年単位の潜伏が必要だろうから、しばらくは息を潜めてやり過ごすに違いない。


 ――いつか再会するとして、その時は、より厄介な敵になっているかもしれない。


 と、ミケは金縁の瞳で雲の彼方を見据えるのだった。


「……将来と言えばな、ミケ坊。志津丸の直近の将来についてなんだが」

「直近の将来?」


 急な話題に、ミケはきょとんと目を瞬かせる。


「つまり、成績がな……」

「何だい、瑞鳶さんがそんな事気にするのかい」


 天狗の子の将来に人間社会の学歴が必要になるとは思えない。八年にわたる人の世での修行とは、あくまで人間との適切な交流方法を学ぶためのものであって、末は博士か大臣かなどと期待されている訳ではないのだ。


「そう、この儂が多少心配になるくらいには悪い」

「そんなに?」

「陸号も、あまり人間の勉強には自信がないそうでな。ミケ坊はついこの間、高校を立派な成績で卒業したっていうじゃないか」

「まあ――ほんの趣味でね」

「ちょっと今度、志津丸の勉強を見てやってくれんか」

「そりゃ構わんが。素直に見せてくれるかなあ」


 ミケは呑気に横髪を掻いた。


 こののち、ミケは志津丸の六年生一学期のテスト結果を見せられて、「うわこりゃ酷い」とつい本音で呻き、多感な少年を大いに拗ねさせる事になる。

 が、それはまた別の話である。

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