おとぎの国

 少年はゆっくりと手を伸ばす。

 前へ。

 半眼の瞳に映るのは自分のてのひらと人型の標的のみ。その向こうにある壁も、木々も。ピントのズレた写真の様に正しく認識することが出来ない。

 視野を極端に狭め、視界に目標をおさめながら、だが意識は別の場所に。

 ふぅ。と息を吐き、自身の下腹部にありもしない力の塊をと強制的にでイメージする。


 イメージ。

 それが全てだ。

 鍛錬を始める前──いや、そもそもこの行為の結果を知るよりも依然。黒衣の少女は少年にそう告げた。


 ゆるりと。どろりと。

 下腹部に重さを作り上げる。

 それはやがて本当にある様な錯覚を少年──アルスにもたらした。


「そうそう。もっと集中してください。祈りの言葉では魔法はうまく機能しません。莉々様のおっしゃったとおり、イメージが大事なんです」


 後ろから聞こえる女性の声に、アルスは頷く。


 イメージ。

 何をイメージする?。

 そう想いながら下腹部に溜まった重さを、魔力を体内に循環させ、同時に脳内に一つのイメージを作り上げる。

 炎だ。自分の伸ばした手の先。そこに浮かぶ炎の塊を。


『祈りの言葉は、イメージを明確にするための補助手段でしかないの。それはルーン語も同じ。要は短縮した詠唱か、そうでないかだけの違いでしかない』


 莉々は座学の中でアルスにそう言った。


 ルーン語。

 莉々たちの言う力の言葉。

 アルスは座学の内容を思い出しながら、力の言葉を唱える。


「フェオ・イール」


 言葉と同時に小さな、直径五センチほどの火球が手のひらの前に出現する。

 ギリギリと、まるで弓を弾き絞るイメージを頭の中に想い描く。


 火はフェオ。イールは弓。

 ファイアボールと呼ばれる魔法で使用される詠唱である。

 もっともこの場におけるルーンは、基本的な意味こそ定まってはいるが、時代や、使う者の意思次第でどうにでもその意味を変える言葉であり、その組み合わせも不変ではない。


『あたしたちの操るルーンはそういうもの。フェオって言いながら水魔法を撃つ奴もいるしね。そういう設定なんだからしかたない』


 そう言いながら笑う莉々の顔が浮かぶ。


 同時に途切れそうになる集中を、わずかにかぶりを振って維持する。


『口に出さないのが無詠唱で、口に出すのが詠唱?』


『その考えが大多数かな。ただしね、頭の中で唱える行為自体が、純粋なイメージの構築を邪魔するのよ。口に出して頭でイメージする。頭の中で詠唱とイメージ作りを同時にする。前者は問題ないんだけど、後者はリソース不足を起こすって言うか、無詠唱スキルを持ってないと、うまくいかなかったりする』


 莉々の言葉に偽りはなく、実際、今のアルスが脳内で詠唱と構築を同時に行った術式では、魔法は発動に至らなかった。


『まぁ、若干の時間短縮、手の内を晒さない。てのが目的ならいいんだけど、頭の中で詠唱してるわけだから、厳密には無詠唱とはいえないかもね。そのやり方は』


「──ファイアボール!」


 アルスが唱えた発動の言葉と同時に、乾いた音をたてて火球が飛ぶ。

 莉々への協力を約束した領主、クラルの協力によって新たに作られた魔法の為の訓練施設。その壁沿いに設えられた、人型の標的に向かって弧を描くように。





「結局、莉々の言う無詠唱ってなんなんだろう?」


 アルスはそう呟くと、目の前の机に置かれた珈琲に手を伸ばした。


 この黒く、苦い飲み物を口にする文化は、元々リムニアでは一般に浸透していなかったものである。紅茶の類は存在するし、焙煎という文化もある。だがこの飲み物に関しては、多く含まれるカフェインの効能ゆえに、ほかの嗜好品とは異なり薬剤扱いされていたものであった。

 もちろん珈琲豆があるわけではない。イコルと呼ばれる樹の果実を乾燥、焙煎したものである。

 正しくは『イコル茶』と呼ばれるものなのだが、莉々が珈琲と呼んだのが定着したのか、少なくとも莉々の周囲で元の名を呼ぶものは居ない。


「うーん、わたしも同じ質問をしたことはありますけど、本当の無詠唱は無詠唱だよとしか」


 アルスの対面に座るブルネットの女性が答えた。

 先の鍛錬中にアルスに声をかけた人間である。歳はアルスよりは大分上の十八歳。日本の認識でいえば少女とも言えるだろうが、リムニアの成人年齢は十七歳。彼女も十分に大人として認識される年齢である。


「ん? ライゼがやってるのも無詠唱なんでしょ?」


「わたしのは莉々様の使う無詠唱とは違うそうですよ? 莉々様は頭の中で詠唱なんかしてないそうです。実際発動時間も全然違いますし」


 ライゼと呼ばれた女性の言葉にアルスは頭を抱えた。


「ライゼって、莉々の教えた中では一番出来る人だよね? それでもできないんだ?」

「言わないでください。結構気にしてるんですよ。なぞかけなんですかね。『意識してるようじゃ無詠唱なんて無理』って言いながらイメージが、とか集中してとか。イメージなんて意識の塊じゃないですか。ホントに」


 はあ。と溜息とつきながらライゼは俯いた。

 長い髪がそれ合わせて揺れ、伏せたまつ毛が影を落とす。

 白い肌。憂いを秘めた琥珀色の瞳。

 着ている服も純白のブラウスに、膝丈の藍色のフレアスカートと、知らない人間が見れば何とも儚げで楚々とした令嬢風であるが、元々は貴族階級の護衛を生業とする民間の傭兵である。内に秘めているのは獣の類だろう。


「案外、この中に答えはあるんでしょうか? もう、さっぱりですよ」


 ライゼが伏し目がちの瞳を、背後に並ぶ書棚に向けた。

 そこに収められている書物は一冊や二冊ではない。書棚には莉々が記した書物がずらりと並んでいる。

 魔法に関するものは優に及ばず、近接戦闘、薬学、裁縫、鍛冶に建築。果ては料理に至るまで。彼女の持つスキルの殆どが、可能な限り書物としてまとめられている。


『半分は確認作業だけどね。ゲームの知識が現実のものとしてどう変わってるのか、理解はしておかないとさ。実際、料理一つにしたって、ゲームじゃ材料ぶち込んでクリックしたら終わりだったんだけど、そんなわけもなくて、自分でびっくりって状態だし』


 莉々は二人の前でそう言っていた。

 当然の事ではあるが、莉々のベースとなったプレイヤーは一般人である。それだけの知識などもっているはずもない。すべては現実世界に落とし込む際に、つじつま合わせの様に植え付けられたものである。が、アルスたちがそんな事情など知る由もない。


「あの人は、本当に何なんでしょう? 天から遣わされた御使いとかなんでしょうか。知識量も技術も、私たちの理解を超えています」


 頬を染め、心酔しきった様子で熱い吐息を漏らすライゼを横目に、アルスは苦笑いを浮かべると、改めて今いる部屋を見渡した。


 ゴシック様式の、絵にかいたような魔法使いの部屋。

 そこには先の書物はもちろん、見たことの無い器具やら瓶詰の植物やらが、所狭しと並べられている。


 たとえば無数の管を生やした、ガラス製の抽出器。

 たとえば瓶に納められた見知らぬ怪物。

 たとえば何かを延々と書き綴っている、持ち手の居ない羽ペン。


 ここは莉々による魔法教育用にと領主のクラルが城の一角に建造──もとい、与えた区画に莉々が建てた建物の一室である。

 ハウジングスキルと言えば、ゲーム中の記憶を残したプレイヤーたちからすれば、見慣れたものではあるが、リムニアの人間からしたら、それこそ魔法である。

 用意した材料が次々と浮き上がり、建物へと変貌してゆく現場に立ち会った城付きの大工たちが、膝をついたのも無理はない。


「まるでおとぎの国だよね」


 アルスの呟きにライゼは笑みを浮かべると立ち上がり、書棚の本を手に取ると、パラパラとめくった。先の話の続きなのか、答えを探してるのだろう。


「莉々は、今頃何してるかな?」


 部屋の片隅で、黙々と掃除を続けている身長十センチほどの小妖精をみながら呟くアルスの問いかけに、ライゼは振り返ることなく「そうですねぇ」とこたえると、宙を睨むようにしながら顎に手を当てた。


「もう王都には着いてるはずですから、それこそ謁見の最中かもしれませんね」


 ライゼの言葉にアルスは腕を組むと「大丈夫かな?」と応えながら腕を組んだ。


 領主夫妻と共に、莉々が王都に向かったのは一月ほど前の事。

 魔導士部隊の編成に際し、国王に直接話をつける必要があるということであるが、なにしろ魔法などおとぎ話の世界の物である。現実を見るまでは鼻で笑われるのは確実。現実を知れば、これ以上ない凶悪な戦力と判断されるのは必至。

 許可なく編成をして、その後に真実を知られれば謀反の準備と捉えられかねない。

 更に魔大陸──アストレア大陸への対応も、国として考える必要がある。


 もっとも、二人の心配事は他にあるのだが。


「うーん、あの美貌ですから『側室に迎えたい』とか言われそうですよね」

「やめて。莉々が笑いながら王都を破壊する様子が目に浮かぶ」


 冗談めかしたライゼの言葉にアルスが応え、その言葉に二人の動きが止まった。

 しばしの沈黙。


「……さてと」


 ライゼがそう呟くと、二人は何事もなかったように一方は手にした書物のページをめくり、もう一方は冷めた珈琲を口に運ぶ。


 それは一月の、ある晴れた日の事。

 今日もカルマートは平和であった。

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