エピローグ

「ふうん。じゃあ結局、彼は彼女と共に旅立ったってこと?」


 アラミアの最南端。ビエネス公国とライカ商業国の狭間。

 海を臨むその岬で、白いローブを見に纏った一人の少年が、隣に立つ漆黒の女性に問いかけた。


 少年の瞳は海と同じ碧。肌は陶磁のように白く、唇は紅でもさしているかのように赤い。肩まで伸ばした癖のある銀髪を海風に遊ばせ、穏やかに海を見つめるその貌は、はた目には少年というより少女にしか見えない。


 漆黒の女性は視線を海の彼方に向けたまま、少年の問いかけに肩をすくめると、口をへの字に曲げて「そ」とだけ答えた。

 女性は人間種ではない。ダークエルフである。

 その姿は黒い肌、黒い髪。しなやかな肢体と相まって、ある猫科の肉食獣を連想させる。それ故か、彼女はかつてこう呼ばれた。

 黒豹と。

 名はサラ・フィエル。剣神の洞窟でグラムにキリエの誘拐を依頼した、あの女性である。


 素っ気ないサラの返答を気にした風もなく、少年は赤い唇をきゅうっと吊り上げた。


「ほんと、野心家だなぁ。てっきり彼は大陸に残って、これからも裏から動き続けるのかと思ってたよ」

「まだ見ぬ世界に想いを馳せるのは男の子なら当然。あんたもそうなんじゃないのかい? 殿下」

「いいえ。僕は保守的ですよ。冒険とか勘弁です」


 殿下と呼ばれた少年は胸に手を当てると、心底そう思っているかのように敬遠な表情で答えた。

 無言のまま少年を見るサラの目は冷たい。

 少年は苦笑いを浮かべると再び海に目を向けた。


「そういえばアルベルトはどうしてる?」

「戦々恐々と。あれも男の子野心家だからね。先ぶれ無しで、いきなりディアスの皇太子が現れたら、そりゃ忙しくもなるよ。見られちゃいけないものがいっぱいなんだからさ」


 揶揄するようなサラの視線に、『別に僕は悪くないでしょ?』と言わんばかりに肩をすくめた。


「リムニアの事は?」

「素直に報告なんてしてくるわけないよねぇ。亜人たちも生き残ってたのはあの娘だけだしね。とりあえず一通り、知らぬ存ぜぬで済ますつもりなんじゃないのかね? 少なくとも答えが出るまでは」

「答え。ね」


 少年は頬杖をつき、憮然とした表情を浮かべた。

 彼的には早いうちに邪魔な目を潰したい気持ちはある。祖父の代は良かったのかもしれないが、今代の大公国──アルベルトは邪魔な存在でしかないのだ。


「まったく。反乱準備とか、勘弁してほしいんだけどね。連合とのカタだってついてないのに。あっちこっちに釘をさすのにどれだけ苦労してると思ってるんだか」

「実際に動いてるのはあたしだけどね。ああ、めんどくさい」


 サラは少年の言葉にそう返すと、目を閉じ、ため息をついた。自身の右肩に左手をかけ肩を回す。その様子に少年は申し訳なさそうな笑顔を浮かべると、彼女の背後に回ってその肩を揉んだ。


「感謝してますよ。黒豹様。君が居なかったらどれだけ苦労してるか分からないからね。そういう意味でも彼には頭が上がらない」

「だから今は共闘?」

「まぁ、ね」


 肩を揉まれながらサラは目を閉じ、無意識に首をコキコキと鳴らした。

 サラの体はプレイヤーの頃とは違い、四〇代の人間の体では無い。エルフとしては未だ若い体ではあるが、人の頃の感覚が残っているせいか、疲れてもいないのに疲れを感じる。


「獅子身中の虫、か。いずれ敵に回るのを承知でよくやるよ」

「それだけの利用価値が、お互いにあるからでしょう?」

「アルベルトも哀れだねぇ。そんな連中に、手のひらの上で踊らされてるのも知らずにさ」


 サラの言葉に、少年は屈託のない笑顔を浮かべ、再び視線を海に向けた。


「で、その彼らは今どの辺にいるのかな? 僕の目では到底追えない」


 サラが目を細めた。遠くを見るように。

 そっと右手を上げ、その指が一点を指し示す。


「距離にして約八〇キロ。NPCあんたらにはもう見えない水平線の向こう。そこにいるよ。帆を広げてね」





 例えばそこは見渡す限りの碧。

 空には雲の一つもなく、風は穏やかにそよぐ。


 波にゆられ、一隻のキャラベル船が進む。

 船上には人影が一つ。

 黒い、薄手の作務衣に身を包んだ一人の男。

 それは舟の中ほどにちょこんと座り、竿の先端から垂れる糸を眺めていた。


 降り注ぐ十二月の日差しが、黒い影に更に濃い影を落とす。

 季節外れなその姿は、緯度の低さと水温の高さ故か、影に肌寒さを口にすることも無い。


 影──グラムは、ふと顔をあげ、もはや水平線の彼方に消えてしまった故国の影を目で追った。


 水平線で分かたれた赤い空と碧い海。


 目に映るのはそれだけだ。当然の様に水平線の彼方に在るそれを、捉えることなど出来るはずもない。残念ながらサラの様な、異常な視力など持ち合わせてはいない。そこにスキルを割り振ってはいないのだ。


「ついてねぇ」


 グラムはぼそりと呟いた。

 竿は揺れることも無い。苦情は釣果に対するものか、はたまた道行に対するものか。


「むーちゃん。なんか釣れた?」


 背後からかけられたその声に、女性の声に振り向く。

 立っていたのはふわりとしたワンピースを着たエルフの少女──レティシアである。

 グラムは渋い顔をすると肩をすくめ、顎をしゃくった。その指し示す先、魚籠の中はからっぽ。いわゆる坊主である。


「ガキどもは?」

「あの子たちなら船室で寝てる。リヤとアリスが付き添って一緒に寝てるわ。流石に疲れたんじゃないかな?」


 無理もないか。そう思いながらグラムは船の後方。キャビンに目を向ける。

 言葉通りなら、ビエネスの少年兵とキリエがそこで寝ているはずである。


 グラムは再びため息をつくと、船の進行方向に目を向けた。





 アルマが去った後、ルッソは再び剣聖に対峙した。

 彼女が十分離れるまでの時間を稼ぐ必要がある。何としても報告は完了させなければならない。


「僕が前衛をやる。キリエは援護を」


 ルッソの言葉に頷き再び詠唱を始めるキリエに合わせ、愛用の短剣を腰だめに構えると、少年は剣聖に向かって走り出した。


 実際に攻撃を仕掛けるつもりはない。相手は剣の頂点。うかつに間合いになど入ったら、間違いなく首と胴が泣き別れになる。

 様はキリエが魔法を撃ちこむだけの時間を稼げればいいのだ。詠唱が終わったところで自分は離脱して──

「──甘いな」

 その言葉が聞こえた瞬間、ルッソは地に転がっていた。

 足をかけられ背中を押されたのだと気づくのと、上から聞こえた声の主を見上げたのは同時である。


 十メートル先。

 そこにいたはずの剣聖の姿がそこにあった。

 距離を一瞬で詰められ、背後に回られた。そう理解するよりも早く、手が勝手に剣を振った。剣聖に向かって。

 当然の様に当たるはずもない。剣を躱すために僅かに下がった剣聖との距離。その間合いを確かめるように、ルッソはゆっくりと立ち上がった。


「斬らないんですか?」


 再び剣を構え、剣聖に問いかける。

 今のは斬ろうと思えば斬れたタイミングだ。なのに何故それをしない?


 問いかけながら背後のキリエに意識を向ける。


 彼女の魔法はルーンを利用したものだ。キーワードの組み合わせで完成するそれは一般に使われる祈りによる詠唱とは異なり、詠唱時間が極端に短くて済む。代わりに誰でも使えるものでは無くなるが。なのにいまだに後方からの魔法支援がない。


 一瞬向けた視線の先。そこにキリエは居た。

 凍り付いたように動くことなく。

 背後にはエルフだろうか。美しい長身の女性。

 彼女は手をひらひらとさせて剣聖に笑みを送っている。剣聖も右手を上げてそれに応えた。


「心配するな。麻痺ってるだけだ」


 そういうと剣聖は太刀を鞘に納め、ゆっくりと白いエルフとキリエの方に歩き出す。ルッソは振り向き、アルマの走っていった方向に目を向けた。


「あのヒーラーのことは心配するな。魔道具を使ったところでもうこっちは見えないだろう。ティアがきっちり結界を張ったからな。あとは仕上げをすればビエネス的にはキリエは死んだことになる。残った異大陸の証拠もサラの方で何とかするだろう」


 すれ違いざまに剣聖にそう声をかけられ、ルッソは思わずしゃがみ込んだ。


「あとはキリエを国に返せばそれで終わり、ですか」

「そうだ。ご苦労さん、ルッソ少佐」


 笑みを浮かべ、労いの言葉をかける剣聖に、ルッソは力ない笑みで応えた。


 何のことは無い。ルッソも、剣聖──グラムも目的は同じである。

 共にサラからの依頼を受けて動いた。片や偽善、片や同情。という違いはあるが。


 キリエは状況が理解できず背後のエルフに目を向けた。

 麻痺して動かない筈の首が動くことに、わずかな驚きの色をその顔に浮かべる。

 既に解呪されているのだと理解すると、その色は戸惑いに変わった。


「喧嘩がしたいわけじゃないものね。あなたみたいな子供相手に」


 鈴の様な声で微笑むと、白いエルフはキリエの頭を撫でた。

 長い間、そんな事はされたことが無い。

 亜人としては最下級の扱いを受けている自分である。罵られることはあっても優しくされたことなどありはしない。


「キリエ」

 ルッソが名を呼ぶ。


 ただ一人──


「帰れるんだよ」


 ──この少年を除いては。


「帰れるんだ。君の国に」


 ルッソはキリエの手を取り、言葉を繰り返した。

 キリエに望郷の念は無い。それは夢の中だけに現れるものだ。

 目覚めているときの彼女にとって、それは意味の無いものという認識しか無い。

 それでもキリエはルッソの言葉に微笑みを返した。ただ、彼の嬉しそうな顔に応えるために。


 思い出したように再び降り始めた雪が、しんしんと舞い降りる。

 汚れてしまった何かを、覆い隠すように。





 船は大洋を進んでゆく。


 アストレアを出てから既に二日。外洋に向かうにつれ、荒さを増していた海は、気が付けば異様なまでに凪ぎ、もはや帆が風に膨らむこともない。

 もっともグラムたちの船は、乗り手の魔力で動く魔導船である。映画で見るような海賊キャラベル船の様に風の力で進むわけでも、ガレー船の様に漕ぎ手が必要なわけでもない。


 グラムは竿から目を離し、懐から一枚の紙片を取り出すと、そこにある文面に目を向けた。


 ──将来の友好国たる外界の少女を、本来あるべき場所に返してほしい。

 ディアス帝国皇帝。ベネディッド・ロナ・レイエス・ディアス。──


 サラから受け取った依頼書の、最後に綴られていた文面である。

 グラムはため息をつくと、視線を船の進行方向に向けた。


 指名依頼の主。サラを動かしたのはディアスの皇帝。

 逆に言えば、皇帝にキリエの存在を伝えたのもサラだということだろう。元よりあれはゲームの頃から枢軸側で動いていた人間だ。今も暗部として動いていることは想像に容易い。


 ではサラはどこでキリエの事を知ったのか。

 ルッソとサラに接点があったのか。はたまた大公国を調べているときに知ったのか。だとしても、どうしてリムニアの存在を信じることが出来る。

 アストレアしか存在しない。それが当たり前の世界に居た彼らがどうして。自分の様に、神の座に座ったエルドたちと関りがあったわけでもないのに。


 物思いにふけるグラムの横に、見たことの無い海鳥が停まった。

 ひとしきりキョロキョロとすると猫の様な鳴き声を上げて羽ばたく。


 グラムは頭をボリボリと掻くと、ふたたび竿に目を向けた。

 いつの間にかその先がしなっている。あわてて引き上げるが糸の先には何もなかった。

 餌はもちろん、針さえも。

 深くため息をつき。「ついてねぇ」と、呟く。


 顔を覆うように項垂うなだれると、指の隙間から変わらぬ海を見た。

 いつの間にか吹き始めた風が頬を撫でる。

 何時しか太陽は、その端から光をのぞかせ、水平線に映る空は、青く色を変えていた。遠い記憶の中にある、それと同じように。


 ──目指すはまだ見ぬ新大陸、か。それこそ歴史に名前が残るかもしれないねぇ? 睦月──


 出航の際にサラがグラムにかけた言葉である。ついでにいえばこの船も彼女が用意したものだ。


「ついてねぇ」


 再びの呟きに、応えるものはいない。

 変わりに海鳥がニャーと鳴いた。


「おれは何処のコロンブスよ」

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