水の道

ムラサキハルカ

水の道

 夜。橋の下。水の道は深い茂みに覆いかぶさられている。その流れはともすれば、気付かないほどゆるやかなものだった。

 秋から冬の変わり目のせいか、時折、赤や黄に色付いた葉がはらりはらりと落ちていく。そして、いくらかの時をかけて空気中をさまよったあと、水に沈みこむ。その音は橋のすぐ傍の道路を車が走ることで掻き消されてしまうほど微かなものである。

 それからも幾度か葉が落ち、かすかに虫が鳴き、茂みに隠れた猫や鳥が気配を殺して動き、何度か道路を車が横切り、塾帰りの子供や散歩中の中年といった幾人かの足音がした。こうした自然の鳴りとでも呼べる音の数々は、音としてすら認識されないまま、延々と時と現象の連なりが積み重なっていく。


 深夜。一人の若い男が道路側から歩いてくる。さほど時をかけずに、水の道と人の道を遮る縦に立てられた丸太の形をした柵の前にやってきて、足を止める。男が手元にあるスマートフォンのライトを看板に当てた先には立ち入り禁止の文字。男は明かりを消し、辺りを見回しはじめたあと、おもむろに柵を乗り越えはじめる。おもに腕力かいなぢからのみで、体を持ち上げた男は、柵のてっぺんを跨いでから茂みに飛びこむかたちになる。

 幾本かの細かい枝が折れ、音を鳴らす。しかし、いつにない大きな音は誰にも咎められず、男は枝と枝、葉と葉の間をくぐっていく。その間、額や手の甲に傷がついたりもするが、男は気にするでもなく、落ち葉が積み重なったゆるやかな坂を駆け下りていき、やがて水の道の手前にまでたどり着く。

 スマートフォンを開き、明かりで周囲や足元を確認した男は、背負っていた鞄から小さな柄杓を取りだした。そして、再び辺りを見回したあと、その場に屈みこみ、ゆっくりと水の道の中に、手にした柄杓の合を浸した。小さな合の中には水と一枚の枯葉が紛れこんでいる。男はゆっくりと持ち上げてから、再びライトで中を確認したあと、おそるおそるといった体で合に口を近づけていく。三十センチ、二十センチ、十センチ……次第に距離を詰めていく間、男の無表情に、ほんの少しだけ赤みが差した。そして、五センチ、一センチ、五ミリ、一ミリ、と距離が縮まり、いよいよ柄杓の合と男の唇が触れそうになる。

 風が吹く。男の動きが止まる。再び、スマートフォンを取りだし、ライトをつける。落ち葉、木の枝、川の流れ。そうしたものを一つ一つ照らしたあと、男は小さく息を吐きだした。そして、再び水を口に付けようとして、


 深夜。水の道の上。橋の欄干に若い女が寄りかかっている。人通りがなく、音も少ない空間でただただ一人佇んでいる。足元では、一匹の子犬がぶるぶると身を震わせている。この小さな生き物は女の足元に身を寄せては、その長ズボンの裾を噛み引っ張っている。女は寄りかかったまま、橋の下を見下ろしている。その目線に沿っていった先には、茂みとそこに隠された水の道があり、微かに流れの音がする。女はただただじっとしている。

 橋の両脇。砂利道を境にして車が通り過ぎる。更に内側の人の道を、酔っ払いやランニングをする者が横切っていった。その間も、女は動かず、犬はいつの間にか足に身を寄せたまま動かなくなっている。

 不意に女は欄干の上に乗った木の葉を指先で砕きはじめる。パラパラと砕かれた葉が、砂のようにさらさらと落ち、跡形もなくなっていく。女はそれから緩慢な動きで、同じように葉を掴んでは、細かくすり潰していった。そうした行為を何度繰り返しただろう。

 女は何度か伸びをしたあと、その場で屈みこんだ。びくりと身を起こした犬の頭を撫でたあと、首輪につけていたリードをゆっくりと外した。不思議そうに見上げる犬の頭の上で掌を何度か往復させたあと、ポケットからテニスボールを取りだす。それを犬に見せ付けてから、遠くへと放り投げた。尻尾を振りながら橋から遠ざかっていく犬を見送ったあと、女は両腕で自らの体を欄干の上へと押し上げ立ちあがる。程なくして、楽しげに吠えながら戻ってくる犬の声に合わせて、水の道に背を向けてから、勢いよく飛び降りた。


 水を口に含んだ男。そこから少し離れた橋から飛び下りた女が水の道に飲み込まれようとしていた。

 数瞬の後、男の喉仏の立てた音は、女の体が起こした大きな水音にかき消される。その二つから更に隠れるようにして、ちょろちょろとした微かな鳴りとともに、水の道は穏やかに流れている。

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水の道 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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