7、幸せの色

 本当に、ぼくは馬鹿だ。

 知ってた。沙希さんだって、良識ある大人だ。

 そんなわけないって、本当は分かってた。いくらなんでもそんな店にヨルちゃんみたいな女の子を連れて行くわけはない。

 冷静に考えれば分かる。冷静に考えれば。


「マスター、枝豆とビール。唐揚げとポテトもちょーだい」


 沙希さんのいつもと何ら変わることない張りのある声が聞こえる。

 その声を背にして、ぼくはスタッフルームの扉を無言のまま閉めた。ガキかよ、とは思ってる。

 本当に、自分にうんざりする。


 沙希さんの運転で連れてこられたのはもちろん、ホストクラブなどではなく、ぼくのバイト先である。

 店に入ったぼくらを見て、開店準備をしていたマスターはほんの少し驚いた顔をしたものの、次に苦笑して、奥のボックス席を指し示した。

 そういうところ、マスターと沙希さんはそっくりだと思う。


 友人同士だって話だけど、ただの友人ではないと思う。

 長く共に居れば、似通うものなのだろうか。それとも、似ているから、長く一緒にいられるのだろうか。

 ぼくとヨルちゃんは、と思い掛けて、考えるのをそこで止めた。

 あまりにも虚しい。


 スタッフルームでジャケットを脱いで、シャツの上から制服代わりのエプロンをかける。

 ロッカーの鏡で確認した自分の顔は、まあ一見すればいつも通りと言える。時間の経過と共に、少しずつ頭が冷えてきた。

 ネクタイを直し、髪を整える。そうすると習性で、意識せずとも身体が勝手に動き出す。

 シフトが入ってるわけじゃないけど、別に構わないだろう。

 平日なので、マスター一人で切り盛りするつもりだったらしい。他のバイトが来る予定はない。


 カウンターの内側に備え付けの冷蔵庫から枝豆とチーズを出し、適当に皿に盛り付ける。冷えたグラスを二つ、サーバーからビールを注ぎ、トレイに並べた。


 悩み出すと最短距離で最悪を叩き出すぼくの頭は、そういった行為には向いてない。何も考えず身体を動かす方がいい。

 何も考えられないぐらいへとへとに発散したい気分だけど、まあこれでもいいか、という破れかぶれな気分だ。


 勝手に働き始めたぼくを見て、マスターはやはり苦笑しただけで何も言わなかった。

 分かってる。これは、甘やかされている状態だ。


「はい、ビール二つ」


 真っ白な紙のコースターを置き、その上によく冷えたグラスを乗せる。ヨルちゃんのは、もちろん特別丁寧に。


 そういえば、ヨルちゃんがこうしてぼくがいる時に店に来るのは初めてだ。

 ぼくのシフトが入っていない時に、沙希さんに連れられて来ることはあったらしいけど。

 お世話ばかりされているぼくが、こうして給仕するのは新鮮な気分だ。


「女同士で飲みましょ。はい、カンパイ」


 チーズの皿を置いたタイミングで、ヨルちゃんがぼくを伺うその視線とかち合った。

 気まずそうに、ぼくを伺うその視線一つ。たったそれだけで、気持ちが和いでいく。なんかもう、別にいいやって気分になる。ヨルちゃん効果だ。


 認めたくはないけど、当初の予定通り適当に女の人を引っ掛けて、適当に発散するよりは確かに、健康的な解決法なのかもしれない。身体も心も。


 これも、認めたくないけど、沙希さんのそういうところがぼくはちょっと苦手だ。

 思考を全部読まれている感じがして、居心地が良くない。


「冷蔵庫の木箱取って」


 奥の厨房でフライパンを振っていたマスターが、皿を並べてカウンターに立った。

 置かれた皿の上に、フライパンから手早くパスタが盛られていく。


 湯気の立つ皿が三枚の皿に、ブラックペッパーが振られた。

 ぼくの目から見ても美味しそうに見えるカルボナーラが、気取った感じで高く盛り付けられている。


 促されるまま冷蔵庫の中を覗くと、確かに普段は見ない木箱がある。

 ちょっとだけ摘まんだ形跡がある雲丹の折詰。綺麗に並んだ雲丹は、粒の揃った見るからに上等なものだ。


「お客さんに貰ったんだよ」


 この店のお客の中には、そこそこアッパークラスな人もいる。そういう人が、たまにマスターに差し入れと称して持って来るお土産、この雲丹もそういったものなんだろう。


 マスターは木箱から丁寧な手つきで雲丹を取り、二皿のカルボナーラのてっぺんに二房ずつ乗せた。

 そして、残りの一皿に、残った雲丹を大胆にも全部、こっちはわりと乱雑な手付きでざざーっと乗せた。

 カルボナーラの熱で、少しだけ溶け出した雲丹の、磯の香りがする。


 丼みたいな量の雲丹が乗ったカルボナーラ、その一皿を、マスターがぼくに押し付けてきた。


「食え」


「いや、ぼくは」


 いらない、という言葉は聞いては貰えないらしい。


「いいから」


 固辞するぼくに銀色のフォークまで押し付けて、マスターがスタッフルームの方を指し示す。


 ほらね、マスターのこういうところも、ぼくは少し苦手だ。沙希さんとそっくり。

 まるで、自分が子どもに戻ったみたいな気持ちになる。


 受け取った皿を持ったまま、ぼくの視線の先では二房だけ雲丹が乗ったパスタを前に、ヨルちゃんが泣き笑いみたいな表情を見せた。

 子どもみたいで、でもちゃんと、女のひとみたいな。


 なんて、愛おしい顔をするんだろう。

 そんな顔を無防備に見せて、一体ぼくをどうするつもりなんだろう。


 そういえば、ヨルちゃんの右手、人差し指の爪の横に、マンダリンオレンジの絵具が付いてた。

 まるで、この雲丹みたいな色だったな、とそんなことを思った。

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