6、ヨルちゃん
午後三時を五分ほど過ぎて、ぼくはようやくギャラリーから解放された。ヨルちゃんが待つ車に戻る足取りは自分でも滑稽に思うほど重い。
それでも、逃げるという選択肢はない。ヨルちゃんからの全てを、ちゃんと自分で受け止めたいから。
心の準備はできた。多分。
「お待たせ」
「お疲れさま」
普段通りを装って、取り敢えず今朝と同じく助手席へと座る。
ヨルちゃんは、まあ一見したところ、いつも通りと言えなくもない。
「つかれた」
「……」
返って来たのは無言。
いや、口が何かを言いかけて開かれてはいる。これは、いつも通りとは言えない。
ハンドルに置かれた指がそわそわと不自然な動きをしている。
これは、あまりよくない。
「ヨルちゃん?」
「うん」
ヨルちゃんは一応、頷いた。
「スーパー、行くんでしょ。お肉買わないとね」
「うん」
ぼくの問いかけに、ただ人形のようにぎこちなく頷くだけ。
「運転、代ろうか」
「だいじょうぶ」
そんな顔で? 呆れ交じりの言葉は心の中だけに押し留め、ぼくはなるだけ何でもないことの様にヨルちゃんに語り掛けた。
呆れるほどに献身的。
「でも、ぼくちょっと運転したい気分。代わって欲しいな?」
もういっそ、このままヨルちゃんに運転してもらってハンドル操作を誤って二人で心中なんてのも悪くはない。
でも、母親である菜々子さんの存在もそれなりに大切に思ってるぼくの気持ちが、それの実行を妨げる。
席を代わり、運転席へと座る。
ヨルちゃんの温もりが残るシートに身体を預けるぼくの、ぼくの手を、ヨルちゃんがじっと見詰めている。
視線に温度があれば、たぶん熱が上がり過ぎて発火してるだろう。
ゆっくりと、ヨルちゃんの手が伸びてきた。
車の運転中だよ、危ないよ、そんな常識的な言葉を呑み込ませるぐらい、夢に見た熱が直接ぼくに触れる。
絵筆を握るぼくの指。
ぼくの、存在価値。
「ヨルちゃん」
その指を丁重に、まるで壊れ物を扱う様に優しく剥がし、軽く握る。
たったそれだけの触れ合いに、涙が出るぐらい心が揺らぐ。
これも、きっと罰なんだろう。
「ヨルちゃん」
「……うん」
大切な、ヨルちゃんの指。
絵筆を握るためにある、ヨルちゃんの宝物。
こんなことをさせていいものじゃないのに。
「ごめんね」
この手を放してあげられなくて。
「ヨルちゃん」
涙を溜めたヨルちゃんの目が、ぼくを見る。
互いに自分を責めて、行き場を失くして途方に暮れてばかりいる。
でも本当は、ぼくが、君にとても酷いことをしているだけだ。
「ごめん……嫌いにならないで」
ぼくさえいなければ、ヨルちゃんは望むものを手に入れられるのかもしれない。
でも、君はただここで、ぼくの満たされない心を満たして欲しい。
一方的に思い合うだけでなく、何かを願い合う、そんな関係を築けたらよかった。
互いが一方通行の、こんな関係を願ったわけじゃない。
もっと大切にできたらよかったのに。
ぼくは、ぼくの中に存在する狂気を知っている。
箍が外れれば、住人ごと住む家に火を点けることも辞さない自分を知っている。
ぼくは自分が怖い。怖くてたまらない。
いつかまた、誰かを傷付けるかもしれない自分が。
そうなった時に、きっとヨルちゃんもすごく傷付くだろうことが。
ぼくのせいで傷付くヨルちゃんを見て、喜ぶであろう自分が、何よりも怖い。
消えない傷を刻みつけてやりたいと、そんな風に思う自分が怖い。
いっそ以前そうしたように、姿を消せばいいのかもしれない。
ヨルちゃんは心配して、たくさん泣いて、それでもいつか、ぼくのことなんか忘れて再びカンヴァスに向かうのだろう。
ぼくさえいなければ、ヨルちゃんの絵はもっと自由になれる。
本当の天使を描いて、誰かの心に希望の灯を灯すだろう。
不安を掻き立てることのない明るい絵が、たくさんこの世に生み出される機会を、ぼくはぼくの我がままで奪っている。
「酷い顔だわ、二人とも」
先程別れたばかりの沙希さんが、運転席のドアを開けぼくらを見て苦笑した。サングラスを下げ、ヨルちゃんとぼくを交互に見て。
まあ、そうだろうね。自分でも分かる。
たぶんぼくもヨルちゃんに劣らないぐらい酷い顔をしているんだろう。
車を停めて、所在地と「迎えに来て」とたった一言。それだけのメッセージを送って僅か十分。
さすが、状況判断と行動が早くて助かると思いつつ、もしかしたら沙希さんは、この事態を予見をしていたのかもしれないとも思う。
「夜ちゃん、ごめんなさいね」
それは、どういう意味で?
ささくれ立った心でそんな風に思うけど、問い質したところで意味はないだろう。何もかも、ただ平然と認めて、それでも堂々と搾り取られ続けるだけだ。
沙希さんが現れたことで、ヨルちゃんが少し冷静さを取り戻したのが分かる。戸惑ってはいるものの、沙希さんの言葉に首を左右に振った。
「じゃあ、ぼくはこれで」
今日はこれでヨルちゃんを沙希さんに託し、互いに一週間ぐらいすれば頭も冷えて冷静さを取り戻す。
またなんでもない顔をして、日常を積み重ねれば多少不格好でもほぼ元通り。沙希さんへの八つ当たりじみたこの苛立ちも、何もかも全部。
「瑠衣は後ろに座んなさい」
指先に残った熱の名残を反芻しながら歩き出そうとしたぼくを、沙希さんの声が遮った。
無視しようかと一瞬悩み、ヨルちゃんの手前足を止める。
「いや、ぼく一人で帰るよ。ヨルちゃんのことだけ送ってあげて」
いいからさっさとヨルちゃんだけ丁重に送り届けて、あんたの大切なルイ・ヒメミヤのためにアフターケアでもしとけよ、というぼくの気持ちは十分理解しているだろうに、この女、全然引かない。
「瑠衣は後部座席」
「やだ」
絶対、嫌だ。
「だめよ。その辺で適当な女引っ掛けて適当に発散して自己嫌悪に染まってその嫌悪感に満足するような不健康バカを一人で放って行くほど、私は放任主義じゃないのよ」
今さら何言ってんだこのひとは。散々放任してきたくせに。
なんで今に限ってそう絡むんだ。ウザい。いっそ死んでくれ。
「いつものことじゃない」
「いつもの息抜き程度なら放っておく。今日はだめ」
「なんで」
返す言葉にだんだん苛立ちが含まれていくのが自分でも分かる。
ああ、こんなんじゃ駄目だ。ヨルちゃんもいるのに。
「いいから、大人の言うことは聞きなさい」
「ぼくも大人だけど」
このまま言い合いを続けたところで、ぼくに得るものはない。無視して去った方が得かも。
「自分の感情の処理もできないガキは大人とは言わないわよ」
沙希さんは、溜息を吐いて手に持っていたバッグを運転席へと放り込んだ。
「このまま一人でどっか行くなら、夜ちゃんと二人でホストクラブ行ってアンタ似のイケメン囲って飲み明かしてアフターで3Pするわ」
は? 何言ってんだこのババア。
ちらりとヨルちゃんの反応を伺えば、瞬きをするその表情に浮かぶのは僅かな興味。
最悪。最悪だ。なんだそれ。
わざわざ金なんて出さなくてもぼくに言ってくれれば、いつでも死ぬほど、嫌ってぐらいご奉仕でもなんでもするのに。
全身の血が沸騰したんじゃないかというぐらい、腹が立ち、でも仕方ないから命じられたままに後部座席に収まった。
まさか、と思うと同時に、沙希さんならやりかねない気もする。ミラー越しに、こちらを気にするヨルちゃんが一瞬見えた。
本当、うんざりする。死にたくなる。
ぼくは、馬鹿だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます