逃げ出したチッチ

千葉やよい

第1話

 チッチが家を出ていったのは、日曜のことだった。

 お昼ごはんの片付けをしていた母が、生ごみを出すために勝手口を開けたそのドアのすき間から、ばさばさっと羽音をたてて、飛び立っていった。

 夏美は、食後のけだるさをもてあましながら、ぼうっとテレビを見ていた。夏美の肩にチッチはとまっていたのだが、あまりにも肩と一体化しているので、チッチよりもテレビの方に意識が向いていた。ばさっという音が大きく耳元でして我にかえると、部屋を斜めに横切り、そのままドアの外へと飛んでいくチッチの後ろ姿がみえた。なにが起きているのか把握するまで、少し時間がかかった。

 はっとして、

「おかあさん、なにやってるの! チッチ、飛んでっちゃったよ!」

と勝手口に駆けていった。

 母は、生ごみをごみバケツに入れようとしていて、チッチが逃げたことにまったく気がついていないようだった。夏美のほうをゆっくりふりかえり、首を横にかしげた。


「それでおかあさんを怒るのはかわいそうだよ。別におかあさんが悪い訳じゃないじゃない」

 はるかは、そういって、給食のツイストパンにくらいついた。

「だって、チッチをかごから出してたのは、おかあさんも知ってたんだよ!」

「夏美ちゃんが、お昼ごはんの片付けをすればよかったじゃん。おかあさんに甘えてるから、そんなことになるんでしょ」

 もぐもぐとパンを咀嚼しながら、はるかは涼しい顔で正論をいう。夏美は恥ずかしくなって、何も言えなくなった。

「とりあえず、近所の電柱とかに、『探しています』って張り紙でもしてみたらどうかなあ?」

 はるかに言われ、夏美は、チッチのことを書いた張り紙を想像してみた。探しています。セキセイインコ。オス。五才。頭は白くて、身体は青と黒のまだらです。イイコ、イイコと鳴きます。そう書いた横にチッチの写真。

「はるかちゃん⋯⋯わたし、たぶんその張り紙効果ないような気がする」

 犬を探しています、猫を探しています、とかならともかく、道や塀の上を歩いているわけでもないチッチに、町の人たちがそれほど関心を払うとは思えない。特徴的な首輪をしているわけでも、目立つ傷があるわけでもない。なにせインコなのだ。空を飛ぶのだ。

 そう夏美がいうと、

「それもそっか」

と、はるかはあっさりと認めた。

「じゃあともかく、学校が終わったら、チッチが行きそうなところを探してみようよ」

「えっ! はるかちゃんも探してくれるの⁉︎」

「うん。悪いのは夏美で、チッチじゃないからね」

 牛乳をちゅうちゅう吸い込んだあと席を立ちながら、はるかは言った。


 夏美とはるかが通う学校は、大通り沿いの、小高い丘の上にある。

 大通りを挟んで向かい側が、夏美たちの住む町だ。いまは住宅街だが、おじいちゃんによると、昔は木原山と呼ばれていて、うっそうと樹木が生い茂っていたらしい。そのなごりなのか、町のあちこちに今でも木の多く生えた神社や公園がある。

「やっぱり、木が多いところにいくと思うんだよね。仲間がいて、食べるものがたくさんありそうなとこ」

 夏美がそういうと、はるかはうなずいて、

「まず弁天池に行ってみよう」

と走り出した。


 夕方の弁天池は、夏美たちとは別の小学校に通っている低学年の子どもたちで賑わっていた。

 鳩が数羽、首を繰り返し突き出しては、地面をこつこつとつついている。その合い間を、黒いクチバシのまっ白な鳥が、もみじのような足ですたすたと歩いていく。平和島あたりから飛んできたのかな、と夏美は思った。

「夏美ちゃん地面ばかりみてないで、木の上もみなきゃ」

 たしかにそうだと思い、夏美は木々を見上げた。

 でも、弁天池を囲む公園に生えている木には、白い毛に覆われて顔とお腹がちょっと黒い小鳥たちしかいなかった。小鳥たちは、チーヨ、チーヨ、とかん高い声でしきりにさえずっていた。

 もし、チッチが木にとまっているのを見つけたとして、夏美が呼んだら、チッチは降りてきてくれるのだろうか。なんだか、また逃げてしまいそうな気がする。そんなことを考えながら木の上を見上げていると、

「うち、そろそろおかあさんが帰ってくるから、帰らなくちゃ。夏美ちゃんも帰ろ」

 はるかに言われて公園の時計をみると、五時をまわっていた。


 次の日の放課後、夏美たちは弁天池のさらに向こうに行ってみることにした。環七を平和島の方へ進んでいき池上通りと交差するまでのあたりは、通りを一歩入ると、切り立った崖がどこまでも続いていて、崖の中ほどを横に這うように細長い道が伸びている。住宅も多いが木々も多く、日中でも薄暗いから、あまりそのあたりでは遊ばないように母から言われていた。でも、チッチはそういうところにこそいるような気がした。

 学校からだいぶ歩いたので、夏美たちが崖上に着く頃には、すでに空がオレンジ色になりはじめていた。

「あんまり時間がないから、手分けしよう。夏美ちゃんはあっち、わたしはお稲荷さんのあたりを探してみる」

 そういって、はるかは、細長い道へ続く下り坂を、ランドセルを大きく鳴らしながら走っていった。


 熊野神社の参道は池上通りから伸びていて、崖上の社殿に向かって石段を登っていくようになっているが、崖上にも、住宅街の道路から直接境内へと入れる小さな鳥居がある。

 夏美は息があがっているのを整えてから、帽子をとって軽くお辞儀をして、境内に入った。昔、どこかの神社に遠足で連れて行かれた時、帽子を被ったまま鳥居をくぐろうとしたら、先生に怒られたのだ。

 秋の深まる夕方の境内は、人気がなかった。ひゅんっと通り風が吹き、まばらにぶら下げられた絵馬が、からからと音をたてた。

「チッチ! チッチ!」

 夏美は、境内をとりかこむように生い茂る木々を見上げ、葉と枝の奥に目をこらし、チッチの名前を呼びながら、ゆっくり歩いた。

 雀がたくさんとまっていた。昨日弁天池でみた、白い毛に覆われて顔とお腹がちょっと黒い小鳥たちも、雀に混じって枝から枝へと移動しては、なにかをついばんでいた。そのなかの一羽が、バサバサっと、夏美からほんの少し離れた地面へと飛び降りてきて、土をつつきはじめた。

 まさか夏美に踏まれてしまうようなマヌケな鳥はいないだろうと思いつつ、でもチッチも相当にマヌケではあったよなあ、と思うと、あまり上ばかり向いて歩き回るわけにはいかなかった。境内の中央に立って、三百六十度眺め回してみることにした。

 ゆっくりゆっくり、足を交互にずらしながら、夏美は境内の隅々まで探した。チッチの身体は鮮やかな青色だから、地面にいても、枝や葉のかげにいても、すぐわかるはずだ。

 全部の方角をゆっくりと観察し終わった夏美は、深いため息をついた。あちこちに鳥たちがいて、思い思いにさえずったり、なにかをつついたりしていたが、チッチの姿はなかった。

「やっぱり、猫とかに食べられちゃったかなあ」

 一番考えたくないことを、夏美はぼそっとつぶやいた。飼い鳥は警戒心がないので、逃げてしまったらすぐに他の鳥や猫にやられてしまう、だから大事に可愛がらなければいけないよ、と、生まれたばかりのふにゃふにゃなチッチを売ってくれた小鳥屋さんに教わったのだ。

 まだ目もあけることのできなかった、飼い始めたばかりの頃のチッチを思い出したら、自然と涙が出てきた。ついでに鼻水も出てきた。夏美はポケットからティッシュを出して、ちーんと鼻をかんだ。

「ごめんね、チッチ」

と口に出すと、もう涙が止まらなくなって、夏美は声をあげて泣いた。


 ざっと強い風が吹いた。スカートが大きくめくれそうになり、夏美はとっさに、顔をおおっていた両手でスカートの前をおさえた。

 風がやんだ瞬間、聞き慣れた、チッ、という鳴き声が社殿の裏から聞こえた。ような気がした。

「チッチ! チッチ! いるの⁉︎」

 夏美が社殿へ駆けていこうとすると、もう一度、夏美を吹き飛ばさんばかりの強い向かい風が吹いた。夏美はぐっと踏ん張りながら、社殿の裏で激しく揺れる木々に目をこらした。

 何かが社殿の裏から、風とともに、夏美の背中側へと飛んでいった。そして風がやみ、境内が静まりかえった。

 夏美は振り返った。

 夏美の立っている社殿の前から鳥居へと続く石畳の上に、チッチがいた。背中を夏美に向けているが、あの後ろ姿はチッチだ。間違いない。

「チッチ!」

 駆け寄ろうとした夏美の背後から、さっきよりも更に強い風が吹いた。夏美は石畳に叩きつけられた。とっさに手をついた。手のひらと膝のあたりに痛みがはしった。今度の風はなかなかやまなかった。風に吹き飛ばされないように、四つんばいになり手足に力を込めながら、夏美はゆっくりと顔をあげた。


 夏美は、チッチが風とともに、参道のほうへと飛んで行くのを見た。チッチの名前を叫びたいのに、吹き続ける風のなかで身体を動かせず、声も出てこない。

 急に、石畳が消え失せた。両脇にあった狛犬も消えた。チッチの飛んで行く空に浮かぶ雲が、強い風にあおられるように、すごい勢いで姿を変えていく。四つんばいになったままの夏美のいる場所は森となり、崖の下に瞬く間に海が広がった。その海のほうへと、チッチは飛び去っていく。

 海はどんどん夏美に向かって近づいてくる。やがて、手をついている地面も海に覆われ、夏美は、海上に四つんばいになっている自分を感じた。

 チッチは、更に遠くへと飛んで行く。見慣れた鮮やかな青色ではなく、褐色になって。長い尾を立て、大きな翼を悠然と広げて。

 水平線の向こうへとチッチが姿を消した時、風はやんだ。


 夏美は、石畳の上にいた。立ち上がって、手についた土と小石をはらった。手のひらから血がにじんで、ひざも少し擦りむけていた。

 先ほどとは違う、そよそよとした風を感じながら、夏美は顔をあげた。鳥居の向こうに、夕暮れに染まる崖の下の住宅や商店街が見え、京浜東北線の走る音が遠くに聞こえた。 

 夏美ちゃーん、と呼ぶ声がした。夏美は手を振ってこたえた。



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逃げ出したチッチ 千葉やよい @yayoichiba

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