第41話 記憶の中へ

 隔離されてから数ヶ月、八枝子は牢屋の壁にもたれて、ぼうっとしていることが多くなった。

 藍染めの花柄はながらの浴衣も薄汚れてぼろぼろ。はだけて露出する肌も気にしていない。

 夜も、抵抗することはなくなっていた。

 何もしなければ、傷つくことはないのだと。

 しかし、八枝子は深く、深く奈落へと落ちていく。



 八枝子は妊娠していた。

 しかし、それには喜びも祝いもなく、ただ、無理やりに、堕ろされただけだった。

 その際に、中絶ならば斗南にやらせようと誰かが言っていたが、あれは俺たちを騙す。村の人間ではない、と否定されていた。

 

 そして何よりも八枝子を狂乱させたのは、その際に聞かされた、両親と妹の死だった。

 八枝子が監禁されてから両親と村の人間との対立があり、葛瑠璃家は村八分とされ、両親は次女を連れて、怒りと悲しみのうちに心中した。

 

「ああ、お父さん、お母さん、ちえちゃん……どうして、どうして……私のせいだ。私のせいでこんなことに……」心の中に『何か』が生まれる。「いや……違う、奴らのせいだ——」

 よくも!

 きさまら!

 許さない、絶対に許さない!


 恐怖と、悲しみと苦しみに沈んでいた八枝子の心に、憎しみと怒りと、恨みがふつふつと湧き上がり、支配していく。


 この時から、八枝子の精神は少しずつ崩壊していく——。




 ——崖の上で、斗南たちを前に八枝子がぶつぶつと何かを言っていた。

「……ああ、そうだ、お父さんと、お母さんと、智恵子ちえこを……家族を奪ったきさまらを許さない——」


 真っ赤に染まる赤い目が、ギョロリと向き直った。歯を剥き出した怒りの表情は、今にも松宮を食い殺しそうだった。


「あれ、私を見てるよな。やっぱり、まず私を殺してから君を狙うはずだ」

 二人は身構える。

 松宮は斗南から距離を取り、時計とは逆回りに、痛む足をかばいながら崖を離れ、森を背にしてワイヤーカッターを構えた。

 予想通り八枝子の視線は松宮を追った。


 広場の方から桜紗たちの声が微かに聞こえている。終わる気配はない。

 儀式終了までは一時間はかかると言っていた。

「これは、六分も持たないかもな」

 松宮はつぶやいた。

「斗南氏、とにかく逃げまわるぞ」と声を上げて斗南を見たほんの一瞬で、八枝子を見失った。

 消えた——? すでに松宮の真後ろに立っている。


「うわっ⁈」

 気配を感じ身をひるがえすが、右腕を掴まれた。

 ひー、ひー、ひーと、剥き出した歯の隙間から、寒気のする声を漏らしながら八枝子の顔が迫る。松宮の顔まで数センチのところまで。


 はー、はー、はー、胸が苦しい、鼓動は激しく体の中で鳴り響く。斗南が何かを叫んでいるのが視界に入るが、耳には入らなかった。

 恐怖が全身を締めつける——。


「だめ、だ、やめろ、離せ!」

 松宮はどうにか声を絞り出して、右腕をほどこうと力を振りしぼる。


 ぼぎんっ


「ぐぅああっっ⁈」

 激痛が襲う。

 松宮の右手首の少し上、八枝子が掴んでいるところから、くの字に腕が折れた。

「いあああああ」

「うわああああ!」

 松宮が悲鳴をあげると同時に斗南も叫び、突進する。

 八枝子は抵抗することなく突き飛ばされた。

 掴んだ右腕を離し、わずかに後ずさった程度で、まだ目の前にいる——だが、ほとんどの攻撃に動じなかったあの八枝子が、何の力も持たない斗南に後退させられた。


「ああ、先輩!」

「はあ、はあ、はあ、ぐうううう、あ、はあ、はあ……」松宮はあまりの激痛に、うつろな目で斗南を見る。

 逃げられない。



 助けもない。




 ——洋館の二階、突き当たりの角部屋では八枝子の思念体を前に、いままさに豪切が長い念唱を唱え終えた。


「ついはっ!」

 思念体に手を押し当てた。

 しかし、何の手応えも得られなかった。


 え? 目線を上げると、目の前に思念体はなく、自分が闇に包まれていることに気づく。

「何だ?」目をこすりながら辺りを探る。徐々に明るさを取り戻し、見えて来たのは明らかに角部屋ではなかった。


「ここは……監禁場? それも牢屋の中ではないか」




 はあ、はあ、はあ——松宮の息が荒い。激しい痛みが頭の中に響いている。

 もうだめか——そう思われた時、左手を突き出して詰め寄る八枝子が、カタカタカタカタと小刻みに震えだした。


 視点が定まっていない。表情は一変、無表情になりながらも、一歩、踏み出してくる。

 なぜ? 坊や、こっちにおいで……ううううう、やつら、私をな。

 二人の頭の中で、八枝子が唸る。その左手は、座り込む松宮の頭上を越えて、ぶるぶると斗南に伸びる。

「やめ、ろ!」

 言いながら斗南はその腕をつかみ上げた。

 松宮もまた、この変化を逃すまいと身を起こす。

 「はあ、何が言いたいのか分からないが……このまま、おとなしく、していろ!」

 松宮は膝立ち、渾身の力を込めてワイヤーカッターを持ち上げるが、片腕では、その重みでままならない。

 斗南は八枝子の腕をつかんだまま、ふらつく松宮のその手を後ろからしっかりと握った。

 そして二人は力を合わせてワイヤーカッターを八枝子の胸に突き刺した。


 バリン! と胸が音を立てて砕ける。途端に二人の視界もまた、豪切同様、闇に包まれた——。




 ——昭和三年。

 隔離場で十六歳を迎えて数ヶ月、八枝子は自身が再び妊娠していることに気づいた。

 誰にも悟られるわけにはいかなかった。

 隠し通さねば——ここから、逃げ出してやる——。

 

 昼間の老婆が相手ならば逃げることは容易いかもしれないが、蔵番がいるのでは難しいかもしれない。階段を上った先で鍵を掛けられているかもしれない。

 それならば、やはり夜しかない。

 あの抜け道の先がどこに出るかは分からないが、内密に行動していることから、人数は自分を犯している男たちだけのはずだと。

 八枝子はそれから数日、機をうかがっていた。

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