第33話 少女
樹枝が届くことのない攻撃を繰り返す
「坊や? 坊やに会ったっていうのか? いや、だって坊やは斗南氏の……、もしかして斗南氏の祖父ではないってことか?」
「そう、それも『坊や』という名の『お母さん』で、少女だったよ」
松宮は監禁場でのあらましを聞いていたのだが、出てきた言葉に耳を疑った。
こんな時になんの冗談だ? と呆れ顔の松宮に、少なくともその少女は、いたって真剣だったよ、と桜紗は語り始めた。
あの時——。
監禁場の天井の崩落に、命運が尽きたかと覚悟した桜紗の、足元に垂れ込めていた白いモヤが、通路の奥へと誘うように流れていく。
「何だ? いや、誰だ?」
その問いかけに白いモヤは形を変えて、少女の姿になった。そして、桜紗と視線を交わすと目配せし、突き当たりの岩壁の中に消えた。
もしや、と駆け寄り岩壁を調べると、すぐに壁の一部が岩を貼り付けて加工されただけの扉だったことに気づき、抜け穴へ逃れることができた。
監禁場が轟音と共に埋まる。
「この抜け穴は崩れなそうだ。ありがとう、君のおかげで命拾いした。あ、待ってくれ」
桜紗は礼を言って、消えかかる少女を止めた。
少女ははっきりと姿を戻し、ゆらりと振り返った。
歳は十歳くらいだろうか、少し驚いた表情で、くるりとした大きな瞳で桜紗を見つめている。次の言葉を待っているようだ。
お願いがあるのだが、この抜け道を出るまで案内してくれないか、と桜紗が言うと少女は「いいよ」と答えて「こっち」と歩き出した。
この抜け穴は見るからに後づけのトンネルで、壁や天井も整えられてはいなかった。おそらく出口まで一本道なのだろうが、あえて案内を頼んだ。
少女が消えてしまわないように。
少女に消えてもらうために。
「君は誰だ?」訊くが、察しはついていた。初めて視たときは斗南の妹かと勘違いしたが、八枝子の子供なのだろう。
「わたしは『お母さん』」と少女は答えた。
「君の名前は」
名前は『坊や』、『
しっかりとした顔立ちだが、頬がこけていて痩せすぎているように見える。きっと八枝子の面影がどこかにあるのだろうが、自分の知る八枝子では比べようもなかった。
——「浄子? 斗南氏の夢に出てくる坊やとは年頃も性別も違うじゃないか」
疑問だらけで、たまらず松宮が話の腰を折った。
「抜け穴にしてもどうして通路の壁に? 脱獄するには牢屋の外に抜け道があるのでは意味ないよな」
「それはそうさ、悟られずに脱出するための抜け穴ではなく、悟られずに侵入するための抜け穴なのだから」
意味が分からなかった。だが、そのおかげで助かったのなら良かったと松宮は笑顔を見せたが、その呼吸は荒かった。
斜面を登ってきたからだけではない。
森を一つ抜けて、廃屋が立ち並ぶ場所で松宮は膝をついた。
知ってか知らずか、二人は確実に豪切たちの経路を辿っていた。
「……車にいた方が良かったんじゃないか。足を痛めているんだろう」
桜紗は松宮の方を見ずに、立ち並ぶ廃屋に視線を流している。
松宮は答えなかった。
口を閉ざす松宮に、さっき言っていた『坊や』についてだが、と抜け穴での話を再開した。
——では直接教えてもらうよ、と桜紗は前を歩く『坊や』の細い肩に触れた——流れ込んでくる意識。
切りおとされた髪の毛が床に散らばる広い洋室で、八枝子は手にしたハサミを一心不乱に動かしている。
時折り視界に入る白い浴衣の右袖は、だらりと揺れていて、袖口から出ているはずの右手が見えない。
坊やはパラパラと落ちる自分の髪の毛を目で追っていた。
八枝子が呪詛を受けてから数年経っていると思われ、もともと細身だった体型がさらに一回り細くなり白髪と皮膚の硬化も進んでいるように見える。
その様子を、部屋の入口付近で白衣を着た三人の男たちが見ていて、何やら話している。
そのうちの一人が近づき、声をかけた。
「やえちゃん」と八枝子のことをそう呼んだ男は「坊やが生まれて四年、この場所なら安心だから、そろそろ髪型や服装も女の子らしく育てたらどうか」と言った。
そして、ちゃんと名前を与えたらどうか、と続けた。
「名前? 何を言っているの、斗南先生。この子は坊やなの。『坊や』でいいのよ。くふふふ。ねえ、坊や」
「うん、ぼくの名前は坊やだよ。なんでそんなことを言うの? おとうさん」
坊やが『お父さん』と呼んだこの男は、
「服装だってこのままでいいのよ。この子は男なんだから。もしもこの子が呪詛を受けた者の子供だなんて知れたら、もしもあいつらに見つかれば、なぶり殺されてしまう。まして女だなんてことが分かれば……地獄」
何かを思い出したのか、わなわなと八枝子の全身が震えだした。
! 突然、奇声を上げて八枝子が暴れ出し、ハサミを振り回す。
慌てた男たちは羽交締めにして八枝子を制した。
「おかあさん、おかあさん」椅子から転げ落ちた坊やが八枝子の足にすがりついて震える。
「ぼくは男の子だから大丈夫。見つかったりしないから心配しないで……おかあさん」
「ああ、坊や、私の坊や。きししし、そうよ、ずっと隠れて生きていくの。守ってみせるわ……それでも見つかった時は——」
お母さんが殺してあげるから。
震えが止まる。生まれてから毎日のように聞かされた言葉。
常軌を逸したその言動にも臆することなく、坊やは優しく八枝子の頬を小さな手で包み込んだ。
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