老人の痛み

馬刺良悪

老人の痛み

 ――老人、一人の老人がいる。


 焚き火がパチパチと燃える室内、木製の台の上に、彼は仰向けで寝ている。開かれた碧眼は、黒色に毒されている。


「あ”あ”ぁ……、痛いぃ”」


 硬い感触に背を任せ、息を吐きながら呻いた。


 老人は長い間『それ』に苦しめられてきた。彼にとって『それ』は、一方的に絡んでくる鬱陶しい隣人のようなものだ。肝心な時に限って激痛を発し、全てを台無しにして消える。

 意図的なものではない。されど、それが『それ』の性質の悪さを極めている。人の努力を蹂躙し嘲笑うような『それ』を、老人は恨み、忌み嫌っていた。


「やっとだ……やっと、おさらばするときが来た――」


 そう考えるだけで、年甲斐もなく胸が躍る。この瞬間を待ち望んでいたとばかりの高揚感に、老人は弱々しく微笑んだ。


 老人は『それ』の痛みと苦しみから開放される覚悟を決めた。だからこの場にいる。


 老人は右手を天に掲げた。深くシワの刻まれた手には、彼の人生の苦労が垣間見える。


 一度、掠れた深呼吸をし、


 ――右手を、腹に突き刺した。


 乾燥した皮膚を破り、赤い飛沫が噴出する。脂肪を押し退け、血管を穿ち、右手は『それ』に到達する。表面の膜が血でヌメヌメとした『それ』は生物のように蠢いている。

 『それ』を掴んだ。憎悪に震える手で、嬲るように握る。そして、


 ――引き抜いた。


 体と『それ』を繋げる管がビチビチと音を立てて千切れ、『それ』は腹から取り出された。初めて外界に出た『それ』は、嬉しそう……でもない。そもそも、『それ』に感情など存在しない。

 なぜなら、


『それ』は、『胃』なのだから。


 手に持った自分の胃を、老人は眺める。赤い血がべっとりと付いたピンク色の袋だ。これを忌々しく感じていたと思うと、なんだか可笑しい。血で滑ることを除けば、握った感触はただの伸縮性のある膜だ。例えるなら、ネズミの赤子の皮膚だ。


 破れた部分から漏れ出す黄色い液体はツンと臭うが、それも大したことではない。


「よかったぁ”ぁ”……、これで痛みから開放される……。……痛み?」


 そう考え、老人は違和感に気付いた。


 腹が、熱いのだ。


 腹の中が灼熱に焼かれるように熱い。苦しみの根源を断ったはずなのに、熱くて熱くて堪らない。焼き焦がれた体の内側を、爪を立てて掻き毟りたいほど熱い。


 ――熱い、熱い、熱い、熱い熱い熱い。


「――ごへッ!!」


 老人は声を出そうとした。だが出ない。代わりに口から出たのは血だ。悍ましいほど大量の赤い液体が溢れて吐き出される。


 途端に、全身に力が入らなくなり、視界が赤く明滅する。胃を握ることもままならず、胃は手をすり抜け、ベチャっと生々しい音を立てて落下した。


 辛そうだ。苦しそうだ。しかし、老人は頬を緩めた。残った僅かな力で満足そうに微笑み、目を瞑る。そのまま、体から生命力が吸い取られるように全身の力が抜けた。



 安らかな激痛の中で、老人は静かに息絶えた。


 静寂に包まれた部屋を見守るように、燻る煙だけが残った。


 

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