善行

「なかさとくん、なかさとくん」

 午前の授業が終わるなり忍ばせるような声で呼ばれたので、ノートを閉じる間もなく振り向くと、困ったような笑顔の矢野がこちらへ身を乗り出していた。

 矢野早苗。斜め後ろの席に座るクラスメートで、いつも友達に囲まれているような印象がある。昼休みになるたびに別のクラスからも人が集まってくるので、近い席の身としては毎日迷惑していた。

 とはいえ、彼女に対して悪印象があるのかといえばそんなこともなくて、友達の多いことも納得できるほど、話しやすくて性格の良いやつだと思っている。付け加えるならば頭も良さそうだし、顔もまあ良い方だ。

 なに、と返事をすると、矢野は一瞬だけ目をそらした。

「嫌なら、ぜんぜん、無理に、とは言わないけどさ」

 いつもの溌溂とした喋りかたとは打って変わって、探りを入れるような、いまいちはっきりしない物言い。

「今度、集合の小テストあるって言ってたじゃん。それさ、はらっぺ……ええと、大原さん、よく分からないんだって。だからね」

 矢野がお願いを言い終わる前から、おれは心の中でああ面倒くせえなとつぶやいた。

「仲里くん、勉強できるしさ、教えてあげてくれたらなあって」

「それぐらい、矢野でも教えられるんじゃねえの?」

「いやあ、あたしはさあ、教えるのはかなり苦手で」

 しょうもない嘘。矢野が他の友達に英語を教えているのを、おれは見たことがある。随分と、相手は納得していたじゃないか。

「まあ、良いけど」

 教えるだけで済むのなら、ここで断るよりはいろいろと楽な気がする。途端に安堵の表情になる矢野を見て、なんだかそれだけで良いことをしたような気分になった。

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