第三話 ディアマンティナの逸話

1. 約束

 許せない。

 絶対に許せない。許してなんかやらない。

 彼女——ポラーは、その決意を胸に、王都ディアマンティナの街の中をずんずんと歩いていた。うつむいて、けれどその歩調はまるで小走りのように早い。


(エイルがみんな悪いのよ、裏切り者‼︎)


 ぎゅうっと右手の拳を握りしめる。その手の中には、とっておきの呪物を握っているのだ。エイルを呪うために。

 エイル……あんなにかたく約束したのに‼︎

 いつのことだっただろう、ポラーはエイルと約束を交わした。結婚しようと。子どもみたいに何度も指切りもした。そして、その度にエイルは頬や額に優しいキスをくれたのに。

 それなのに、今更その約束を反故にするなんて、一人前の男のすることではないだろう‼︎

 何度も何度もわたしを抱いては愛してるよって囁いてくれたのは、みんな嘘だったって言うの⁉︎

 そんなの許せない、呪ってやる……。

 これまでの人生で、これほど屈辱的だったことはなかった。

 はっきり言って、ポラーは可愛かった。それは自他共に認めているところで、ポラーはそこにいるだけで、周りの誰からだって可愛いともてはやされるのだ。

 そして、エイルだってそう言ってくれたのに‼︎

 優しいエイルの笑顔。ふとそれを思い出してしまい、ポラーはぎゅうっと唇をかむ。

 ポラーだって女の子だ。失恋したのだ。悲しいのだ。エイルを呪ってやりたいくらい怒っているけれども悲しいのだ。


(泣いちゃ駄目よ……)


 悲しいけれど泣かない。泣けばエイルに失恋したことを認めてしまうことになってしまうから。

 そんなのは嫌だった。認めてなんかやるものか。


『ごめんね、ポラー。僕は君とは、結婚できない』


 ものすごく悲しそうな瞳をしてそう言ったエイルを許してしまうことになるから。だから、悲しいけれど泣かない。泣くものか。


『ごめんねポラー。ごめん……』

『どうして⁉︎ 約束したじゃないの!』

『ごめん、どうしても駄目なんだ。僕はね、ポラー。もう、別の女性と結婚……しているから……』

『————……‼︎』


 あの時感じた怒りをどう表したらいいだろう。頭がぐるぐる回ってぐちゃぐちゃにかき回されたあげく、回路がショートして目の前が真っ暗になったような、と表したらわかってもらえるだろうか。

 とにかく、口で説明するのはひどく困難だ。それほどの怒りをポラーは感じていた。

 だから、呪うのだ。エイルを。

 最低だ、あんな男。いくら優しそうな顔をしていたって心はケダモノ。でなければ、妻のいる身でポラーと結婚の約束なんてしない。

 二股をかけられていたのならまだ弁解のしようもあるだろう。それなのに、二股どころか別の女性とすでに結婚していたなんて‼︎


「呪ってやるわ……‼︎」


 うつむいたまま、強い口調で吐き捨てる。すでにポラーの足は小走りの域をこえてしまっている。

 そして。


「うわっ、危ねぇっっ‼︎」

「きゃあっっ‼︎」


 うつむいていたためよくわからなかったが、ポラーは何かに激しく激突してしまったらしい。激しい衝撃と共に、ポラーの体は歩道へと投げ出された。


「いっ、いったぁーいッ」


 したたかに打ちつけてしまった腰を押さえて顔を上げると、そこには彼女より少々年上らしき男が同じように腰を押さえて座り込んでいた。

 激しく顔をしかめた男は、ポラーを認めるなり、眉を吊り上げた。


「なんだよっいきなり突っ込んで来んなよ‼︎ 走るならちゃんと前見て走れよなっ‼︎」


 その大声に、元々怒っていたポラーの怒りは簡単に沸点をこえた。


「なによっっ!!」


 じくじくと痛み出した腰を押さえ、ポラーも負けずに怒鳴り返す。


「なによ、あんただって‼︎ その言葉、そっくりそのまま返すわ‼︎」


 先ほどの激突の衝撃を思い返す。一歩間違えば大怪我になるところだ。

 ポラーの指摘を重々承知していたらしく、男は一度うっと言葉につまったまま固まった。しかし、すぐに彼は気を取り直したらしく、勢い良く立ち上がる。


「うるせぇよ!」

「あんたこそうるさいわよっ‼︎」


 叫び返し、途端に目頭が熱くなってくる。こうなるともう止めようと思って止められるものではない。ひくっと喉をしゃくり上げたかと思った時には、すでに涙が次から次へと溢れ出てきていた。

 ポラーは泣いていた。


(ちっ……違うもの。これは腰が痛いから、痛くて痛くて泣いているのよ!)


 胃の中のものを吐き戻す前兆のようにひくひくと喉を鳴らしながら、ポラーは自分に言い訳をした。


「ちっ……」


 そう吐き捨てて、男が走って逃げ去ったのにも気がつかず、ポラーは涙を流しては首を振って否定し続けた。


(これは、あの男がわたしをいじめたからだわ……‼︎)


 * * *


 瞳を真っ赤に腫らしたポラーがたどり着いたのは、学校だった。使われていないがらんどうの教室へとそっと入り込む。

 ここを選んだ理由は簡単だ。広くて下にものが書けそうな場所が、他に見つからなかったのだ。ポラーの自宅から一番近い場所だったというのも理由の一つである。

 呪いには魔法陣がいるのだ。悪魔を呼び出すのだから。

 悪魔にエイルを呪わせてやる!

 今までぎゅっと握りしめていた右手をそっ……と開く。その手の中には、赤い石灰の棒。そう大きくはない。ポラーの掌に隠れる程度の長さだ。ポラーはもちろんしないが、小さな子どもたちがこれで道路に落書きをして楽しんでいる。

 その棒をおもむろに床に押し当てて、ポラーは魔法陣を描き始めた。

 赤い棒は、どんどん自身を削りながら、床に文様を描き出す。

 まずは大きな円を。そして、その中に三角形の頂点を上と下に向け二つ重ねあわせたものを。


「上出来だわ……‼︎」


 教えてもらって、初めて書いたにしてはうまく出来た。それに少し満足感を得る。

 これで悪魔を呼び出す準備は整った。


(あの猫に感謝しなくっちゃ)


 ポラーに悪魔の呼び出し方を教えてくれたのは、頭上に猫耳、お尻のちょっと上に猫の尻尾を持つ猫科亜人種の青年だった。割と顔も良かったような気がする。

 呪ってやる、呪ってやると叫びながら街を歩いていたポラーをつかまえて、親切にも悪魔召喚の方法を教えてくれたのだ。

 そう言えば名前を訊くのを忘れていた。また会えるだろうか。会えたらちゃんとお礼を言おう。

 うん、とポラーは頷いて、魔法陣の上に両手をつき出す。そして、呪うべき相手の顔を思い浮かべ、教えてもらった通りの呪文を唱えた。


「我を守りし守護者よ……我がもとへ来たれ。この身に幸あらんことを。我に福音をもたらせよ……‼︎」


 ————……。


「我に福音を!!」


 なにも起きない。

 ポラーは待った。約三十秒間。そして悟った。


「わたし騙されたんだわッ‼︎ なんてことなの⁉︎ あの猫ッ、今度会ったらタダじゃおかないわよッ‼︎」


 ポラーは青スジを立てて床を踏み鳴らし、絶叫した。


「許さ————————ん‼︎‼︎」


 * * *


「————」


 ポラーに危うく呪われるところだったエイルは、そんなポラーの様子を影からそっと覗いていた。最初から、彼女の後をつけていたのだ。

 そして、ポラーの様子に絶句している。


「凄いなぁ。ポラーってば、パワフル……」


 エイルの隣で呑気にそんなことを言っているのは、ポラーに先ほど罵られたばかりの猫科亜人種の青年——ジャムだった。歳は、およそ十六か十七歳頃だろうか。

 頭上の猫耳を前に向けて、ポラーが怒っている声を聞いている。


「あ、いや……。ジャム君、君には迷惑かけたね」


 エイルが、疲れたようにそう呻いて額を押さえる。


「いや、それはいいんだけど。これで怒りが俺に向けば、あんたの待遇も少しはマシになるだろうし」

「すまない。感謝している……」


 エイルは本気でやつれている。目の下に濃いクマまで出来ていて、気の毒なことこの上ない。


「いいって。小さい頃から世話になってたしさ」


 現在は引っ越しているが、昔、ジャムとエイルの住まいはごくごく近かった。そのため、父親のいないジャムはよくエイルの世話になっていた。エイルの娘であるコンスタンスにも、弟のように可愛がってもらっていたのだ。


「それにしてもさ、あんたはこんなにも温和そうなのに……ポラー、誰に似たんだ?」


 そのジャムの素朴な疑問に、エイルはため息をついた。


「妻でしょう」

「奥さん? じゃあ、奥さんもあんな人なわけ?」

「……昔は」


 へぇー、とジャムは感心したように頷いて、再びポラーの様子を覗く。

 彼女は、いまだになにかわめき散らしているようだ。


「あのさ、リリカさんもあんな人だったよな? 好み、変わってないじゃん」


 リリカ・オーブ。エイルの前妻だ。ディアマンティナで一番美しいと言われていたらしいが、気性が荒いことで有名な美女だった。

 ちなみに、ジャムを可愛がってくれたエイルの娘は、この前妻との間の子である。


「あ、でも昔はってことは、今はそうじゃないんだ? 奥さん」

「えぇ、まぁ」


 エイルは、苦笑いしている。


「まったく……。不用意に約束事なんてするものじゃありませんね。あの約束は、ポラーが四つの時にしたものなんですよ」


 まさか三年経った今でも本気で覚えているなんて……。そう言って、エイルはまた、深いため息をついた。


「美しい親子愛って言ってあげたいけど、シャレになってないよなぁ」

「えぇ。嬉しいのですが、あそこまでされると……」


 そう言うエイルの背には、哀愁が漂っている。


「まぁ、そのうち分かってくれるとは思うんですけど」

「だといいな」


 ジャムはそう言って苦笑した。軽く肩をすくめる。

 そして、ポラーが親子関係を早く理解できるようになることを空に祈った……。

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