花萎む家

水涸 木犀

第1章 小学生篇――退魔の鈴

1、天女のような美少女①

 咲耶さくや家にはいってはいけないよ。


 僕の住む辺りで、この言いつけを聞いたことのない子どもはいない。「知らない人についていってはいけない」「人のものを盗んではいけない」などと同じ文脈で、親に言い聞かせられる。

 咲耶家は、町の端っこの小高い山の上にある。建物は深い森の木々に囲まれていて、僕の家からは見ることができない。だが大昔から、木造の立派なお屋敷が建っているらしいという噂だけが広まっている。


「でっかいお屋敷があるっていうならさ、行ったことがある奴いるんじゃないの?」

 腕を組み、机に足を乗っけた大将の言葉に、僕はこっそりと耳をそばだてた。

「でもパパもママも、“ずうっと前から、あそこには誰も立ち寄らないんだよ”って言ってたよ」

「そうだよ。だってあの小山、道も明かりもないし、危ない生き物もたくさんいるって」

 不安げに言い募るクラスメイトたちを、大将は鋭い目で見渡してから息を吐く。

「そんなの、ぜんぶ親から聞いた話じゃん。誰も行ってみたことがないなら、何で山に危険な生物がいるとか、お屋敷があるとか言われてるんだよ」

 取り巻きたちが押し黙る。少し離れた席にいた僕も、思わず身体を固くした。

「今日、学校終わったら行くぞ」

 僕たちのクラスで、大将に逆らうことは許されない。異を唱える者が現れるはずもなく、僕たちは放課後にするはずだった予定をいくつか諦めながら、午後の授業を受けた。


  ・・・


 「全員で行ったら目立つだろう。お前らだけ付いてこい」

 授業が終わり、大将の動きをこっそり目で追っていた僕は、放たれた言葉に三度みたび身を固くした。

 大将がお前ら、といって見渡した視線の中に、僕の姿も捉えられていたからだ。

 どのみち皆で向かうのだから、せめて遅れて不興を買わないようにしておきたい。そう思って近くにいたのが災いした。ロックオンされてしまった以上、さりげなく離れるという手はもうとれない。僕はなるべく大将とも、ほかの取り巻きたちとも目を合わせないようにして彼らのあとをついていった。


 大将を先頭にして、小山の中をずんずん進む。

 山の上にあるといわれているお屋敷のみならず、町のはずれにある山自体が立入を制限されている。だから一度山に入ってしまえば、大人たちに見つかる心配はほとんどない。

 それはあくまで、人間の大人たちに限った話だが。


 バキッ


 木の枝が折れる大きな音がして、大将が立ち止まる。一番前の人が立ち止まったのだから、当然後続にいる全員が静止する。

「何だ?」

 訝しげな大将に応えるように、それは姿を現した。


 ウゥウゥウゥ……


 低いうなり声と共に現れたそれが視界に入った瞬間、僕は草むらに飛び込んだ。

 叫び声、小枝を折る乾いた音、地面を蹴る靴音……様々な音を聞きながら、僕は身体を丸めて頭を膝の間に突っ込んだ。蜂は払うと攻撃してくる。犬に背を向けると吠えられる。だから、逃げずにじっとしていた方がいい。ただそれだけを考えて、強く身体を抑えこんだ。


 木の影がだんだん長くなっている。獣の気配も、大将たちの気配もいつの間にかなくなっていた。でも、いつ獣が戻ってくるかわからない。相手も存在感を消しているだけで、こちらが動いた瞬間に反応するかもしれない。そう考えると、身じろぎすることさえためらわれた。

 とはいえ、いつまでもじっとしていたら夜が来てしまう。真っ暗になったら、余計に動きにくくなる。頭ではわかっていても、さきほどの獣を思い出すと身体はこわばるばかりだった。


 チリン、チリン


 気のせいだろうか。小さく、澄んだ鈴の音が聞こえる。


 チリン、チリン


 軽やかな音色は次第に大きくなり、散らばった小枝を踏みしめるパキン、パキンという足音も聞こえてきた。少なくとも、さきほどの獣でも、逃げて行ったクラスメイト達ではないことはたしかだ。

 鈴の音と足音がすぐそばまで迫る。それでもなお、僕は飛び出す勇気がもてない。

――とりあえず、見るだけなら――

 身体を覆う笹の葉をかき分け、指二本分くらいの隙間をつくる。

 細い隙間からは、足元のけもの道しか見えない。わずかに左へ視線をずらすと、小道の上に一足の草履が見えた。険しい山道を歩くのにはふさわしくない、白い足袋がちらりと覗く。上は深緑色の袴と桃色の着物だ。さらに、上へと視線を向けると……

 大きな瞳と、目が合った。


 どきりとして、思わずバランスを崩し尻餅をつく。笹の葉がざわざわ揺れて、小枝が何本か折れたのを感じる。和装の少女はくすりと笑った。その時初めて、僕は彼女の顔をはっきり見た。大きな瞳に整った目鼻立ち。今まで見たことのない、きれいな子だった。

「どうして、こんなところにいるの?」

 口元に手を当てたまま、鈴を振るような声で美少女は尋ねる。

「えっっと、山の上に行こうとして、おっきい動物が出てきて、隠れてた」

 大将に言われてついてきたというのは恥ずかしくて、それ以外のことを正直に伝える。

「ゴーカク」

「え?」

 呟きを聞き取れずに問い返すと、美少女は手をどけて微笑んだ。立ち姿はさながら妖精のようで、僕は小さく息をのんだ。

「ねぇ、わたしとお話しない?」

 彼女の瞳から目をそらせないまま、僕は糸に引っ張られるように頷いた。


  ・・・


 美少女は咲耶さくや 千穂ちほと名乗った。「咲耶家にいってはいけない」という親の言葉を思い出し、彼女のことをまじまじと見つめてしまう。

「じっと見ても、何もわからないよ」

 僕の考えを見透かすかのような言葉に、慌てて目をそらす。またくすくすと笑う千穂が視界の端に映った。下の方でゆるく二つに結ばれた長髪が揺れる。


「今のわたしを見るだけじゃ、何もわからない」

 千穂はもう一度そういって、僕に片手を出すように促した。お皿の形で差し出した手のひらの上に、赤ちゃんの握りこぶしくらいの大きさの鈴が置かれる。

「この山には獣がでるから、入るには鈴がいるよ。こうやって服とかにつけて、鳴らしながら歩いていたら獣は逃げていくから」

 体をわずかに上下に揺すった千穂の腰あたりで、チリン、と軽やかな音が鳴る。見ると、袴の腰ひもに、僕が受け取ったのと同じ大きさの鈴が二つぶら下がっていた。


「ありがとう。でも、どうして鈴をくれるの?」

「鈴が無いと、キミは帰れないでしょ?それに」

 千穂は坂道を見上げる。

「わたしはもっと話したいけど、キミはもう帰らなくちゃいけない。だから、また来てほしい。わたしは明日もここにいる」

 ね? と首をかしげる千穂を見て、拒否できる人はいないと思う。僕はすぐに頷いた。

「よかった。山を出るまで、鈴は付けたままでいてね」

「うん」

「じゃあ、待ってるよ」

 千穂は小さく微笑んで、ふわりと山道を上の方へ二、三歩進みこちらへ向き直る。見送ってくれるらしいと気づいた僕は、ずっと見ていたいのを我慢して彼女に背を向けた。

 どうしてももう一度見たくて、数歩歩いて振り返る。斜面の上で僅かな木漏れ日を浴び、微笑む彼女は天女さまみたいだった。


――ほんとうに、天女さまなのかもしれない――

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