3-11 俺は、キミのことが

「むにゃむにゃ」と気持ちよさそうに立ったまま寝言を呟く晴海。


「さっきのは一体なんだったのよ……」と困惑交じりに頬を引きつらせるリリ。


 事態が次第に混沌カオスへと陥っていく最中で、ふと。

 

 さきほどから沈黙を続けていた【那由】のことを見やると――


「んっ……ごめんな、さい……うう……」


 彼女はぽろぽろと大粒の涙を零しながら

 

「な、那由……⁉」


 状況はさらに混迷していく。


「なんで那由が泣いてるんだよ⁉」

「いえ、すみません……私、になるとは、思っていなくて、その……ううっ」

 

 彼女は指で涙をすくいとるが間に合わない。

 せきを切ったように那由の瞳から涙は溢れていく。


「那由、いったん落ち着くんだ……!」


 いずれにせよ状況を整理する必要がある。

 那由だけじゃない。俺自身の乱れた心を落ち着かせるためにも、俺はあたりを見渡して、そこにるひとつひとつを確認していった。

  

「――っ!」

 

 空にはぽっかりと月が浮かんでいる。見事なまでの満月だ。

 東京の空は深い紺色をしていて、建造物ビル凸凹でこぼこになった地平線はまだ地上の光で薄く輝いているようにもみえる。細切れになった雲が低いところを速いスピードでぎっていく。


 ――くっ、なにがどうなってるんだ……⁉

 

 俺は深呼吸をして、この短時間で自分の身に起こったことを確かめる。

 

 すべて終わってもいいという覚悟で。

 むしろ――すべてをで。

 

 俺は【月城なゆた】の大ファンであったことを白い月光のもとにさらした。

 てっきり軽蔑されたり、ののしられると思っていたのに――まったくそんなことはなく。


「もー! 才雅、どうにかしなさいよねっ!」


 ぷりぷりと頬を膨らませる担当アイドル【風桜リリ】によって。

 俺が懸命にしたためた〝退職届〟はびりびりに破られ空に舞って。


「……う~ん、駆けつけ100杯? 任せといて~……むにゃむにゃ」


 確実にアル中で搬送されそうな寝言を呟く酒豪幼馴染の【江花晴海】に〝愛の告白〟をされ。

 しかもそのあと返事は催促されることなく、立ったまま寝始めて。


「……うぅ……ぐすっ」


 俺が〝もっとも秘密を知られてはならなかった〟ハズの元・推しアイドル【月城なゆた】は、原因も分からないままに満月の下でしている。


「一体なんなんだ、この状況は……!」


 分からない。何がどうなって事態がこんなにも複雑化したんだ?

 すべての始まりは――俺が月城なゆたのファンであるという秘密を暴露してからだろうか。

 

 人と人との関係性を変えるためには、何かしらのが必要であるというのは事実だったのだ。

 

 だとしても――これはいささか想定外すぎる。

 事態をどう収束させればいいのか見当もつかない。

 

(やっぱり、俺はこれ以上ここにいるべきじゃないんだ)


 本来であれば。

 俺は【秘密】を打ち明けた段階で、もっとみんなに軽蔑されて。

 退職届も受け入れられた上で、同棲生活も疑似恋愛も解消になって……。

 

 俺はそのすべてを受け入れるつもりだった。


 ――すべては、みんなの足元の氷を溶かさないために。


 俺以外の誰かが踏み込んで、黒い水の底に落ちてしまう前に。

 場をかき乱したすべての原因である俺は、どうしたってこの場所から離れるべきなのだ。


「みんなっ!」


 俺はぐらぐらと揺れる頭を、どうにか今だけ落ち着かせて。


 言った。


「――今まで、ありがとな」


「「……え?」」


 那由とリリが目を見開いた。

 もうひとりは爆睡していた。


「待ちなさいよ! 今までって……本当にお仕事、辞めちゃう気⁉」

「そんな……才雅さん……っ!」


 俺はプールサイドのに立って。

 視界の先で輝く〝ふたりの星〟を見る。

 

 怒りを露わにする太陽みたいなリリと。

 

 その隣に立つ幻想的な月のような那由。

 俺がどこまでも憧れた偶像アイドル――月城なゆた。


 遥か彼方の星と近づこうだなんて。

 やっぱりどうしたって、人間の俺には届かない夢だったんだ。

 ならばせめて、夢のまま――


 俺はこの場所を去ろうと決めた。

 

「……荷物は、今夜中にまとめる。物量は少ないんだ」

「才雅、さん……」


 那由は目をうるませている。

 どうして彼女はそんなに悲しいことがあるのだろう?

 分からない。分からないことだらけだ。どうして月が泣くことがあるのか。


 ――悪いのは全部、隠し事をしていた俺であるはずなのに。


 早くこの場から離れなくちゃいけない。

 決心が迷ってしまわないうちに。

 

(最後までジェットコースターみたいだったな……)


 心臓が大きく高鳴っている。

 その脈動が視界を揺らしている。

 身体が熱を持っている。


 俺は不規則になった息をどうにか整えながら。


 【月城なゆた】のグッズが詰まったスーツケースを閉じようとした。


 その刹那。


「――あっ」


 屋上を吹き抜けた風が。

 その中の一枚のポロライド写真。


 月城なゆたが今日と同じような満月の下、海辺で劇的に微笑んでいる――

 彼女の象徴的なその一枚の写真を。


 ふわり。

 空に飛ばした。


「……っ!」


 俺は反射的に手を伸ばす。

 それはびりびりに破られた退職届おれのけついなんかとは違う。

 空に飛んで消え去ってはいけないものだ。俺にとっての一番の想い出で。

 

 ――俺が人生で一番見続けてきた月城なゆたの笑顔だ。


「くっ!」


 写真を追いかけて俺は駆け出した。

 それはひらひらと渦を巻くようにプールの上空を舞うと――


 やがて水槽の中央部に落ちきた。


「……っ!」


 たまらず飛び込もうと思ったが――

 身体がどうにも動かなかった。


 あの真冬の湖で。溶けた薄氷を踏みこんで。壊して。

 仄暗い水の底に落ちていった時の途方もないトラウマが脳裏に蘇る。


 ――く、そっ……!


 このままじゃ写真が水の中に落ちてしまう。

 手を伸ばしても届きそうにない。思い切り飛び込めば――確かに届く距離にある。

 それでも。足がすくんで動かない。唇を噛み締める。喉がからからに乾いていく。


(だめだっ……!)


 写真が。

 水面に落ちるその瞬間。


「な……っ⁉ 那由⁉」


 俺とは逆サイドに立っていた月城那由が思い切り。

 その写真目掛けて、プールの中央に――飛び出した。


「――!」


 それはどこまでも本能的な反射だった。

 水面に向かってゆっくりと倒れていく那由を見て。


 俺の足が


「那由ーーーーーーーーーっ‼」


 写真の行方はもはや分からない。

 黒い水の記憶は咄嗟とっさに消し飛んだ。


 俺は那由のために。

 彼女のためだけに。


 ――水の中へと飛び込んだ。


「「~~~~~っ‼」」

 

 ざぶん。ふたつ分の水音が空に響いた。

 飛沫しぶきが上がり、水面みなもが揺れる。


 俺と那由、ふたりが落ちたプールの中心の水上に――


 月城なゆたの写真がゆらゆらと浮かんでいた。


(那、由……!)


 水の中で。

 俺は無我夢中だった。

 

 果てしなく深くて黒い水の中に、俺たちふたりは落ちていく。

 プールはこんなに深かっただろうか? 底がまったく見えない。

 水床から空を照らしていたライトもどこにも見えない。

 

 ただただ静かで、ただただ暗い水面下だった。


 遅れて俺の身体が、今水中にいるという事実に気づく。

 過去の記憶が蘇る。心臓が脈打つ。頭が真っ白になる。

 全身を恐怖がつんざく。怖い。冷たい。寒い。苦しい。

 

(~~~~~っ‼)

 

 俺のまわりで水泡が無限に生まれ。

 生まれては弾けて消えていく。

 

 生じた泡の中に――

 これまで俺の目が捉えてきた【月城なゆた】の記憶が投影される。


 はじめてキミの偶像を見かけた渋谷のスクランブル交差点。

 あの日から俺の世界に光が満ちた。

 ネットで検索して探したキミの肖像。YouTubeで見たミュージック・ビデオ。

 海辺で劇的に微笑むキミ。月と一緒にたたずむキミ。

 はじめて買ったCD。はじめて買ったグッズ。はじめて行ったライブ。

 生音。肉声。飛び散る汗。呼吸。圧倒的なパフォーマンス。

 

 そしてある時――舞台で足を滑らせたキミ。


 それを助けようと、思い切りステージ前に飛び込んだ時の記憶。


(ああ――あの時と同じじゃあないか)

 

 自分の身体のことなんて一切気にせずに、無我夢中にキミの無事を祈ったあの瞬間も。

 俺は落ちていく〝月〟目掛けて――思い切り飛び込んだのだ。


(那由ーーーーーーーーーーーッ‼)


 思考はまた水中に戻って来る。

 

 俺はどうなったっていい。

 全身に絡みつく重たく黒い水を振り払って。

 水の底に浮かぶ月のようなキミに向かって――


 俺は今この瞬間、手を伸ばした。

 

 

 ああ。

 キミの裏側を知った今でも。





 

 ――俺はキミのことが、






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