第三章:溶けていくふたりの『秘密』

3-1 一夜明けて、フラッシュバック

 帰りたくなかった。

 

 だからマンションの近くの公園に寄り道をした。

 意味もなくブランコを漕いだ。

 という寂しげな金属音が夜の住宅地に響いた。

 

 ――ねえ、才雅さいが。リリと今ここで、キスして♥


 その現場を那由なゆに見られた。

 あのあとすぐに那由を追いかけたが……彼女は既にデスクにはいなかった。

 

 部屋に戻ってきたらリリの姿も見当たらず、俺はひとりでのあと片づけをしたのだが――正直、その近辺の記憶はあやふやだ。


 ――一体いったいどう言い訳をすればいいのか。


 どんな言葉であれば〝正確な事実〟を伝えられるのか。

 否。そもそも正確な事実を伝えてしまってもいいものだろうか。


 そのことで――俺と那由の間のナニカが終わってしまわないだろうか。


 分からない。

 俺にはもう、まともに考えるだけの思考能力は残っていなかった。


(随分と色んな事がありすぎた……)


 那由との〝マンションデート〟の証拠を撮られ。その説明をめいっぱい求められて。

 最後にの一撃のように突き付けられたリリとのキス。そして那由との邂逅かいこう

 

 神様なんていない。

 すべてが悪い方向に転がっている。そんな予感がした。


「……はああああああ」


 溜息を思い切り吐き切って。

 俺はブランコを漕ぐ足を止めた。


 ここで時間を無為に過ごしていても、事態は一切変わらない。

 

 複雑に絡まり合った糸はままで。

 我々の間に残ったわだかまりはままだ。


 人と人との関係性を変えるためには、何かしらの【行動】が必要である。過去の俺がそう言っていたではないか。

 変化にをする前に――俺は那由に〝伝えなきゃいけないこと〟がある。


「そうだ。このままでいても、なにも変わらない……!」


 俺は意を決して、マンションへの帰路を急いだ。


       * * *


「……ふううううううう」


 たっぷりと深呼吸をしてから、がちゃり。

 合鍵を回した。そろそろとドアを開ける。


 中は真っ暗だった。


 玄関で照明のスイッチを入れる。

 急にいた人工的な光が目に染みた。


「……那由?」


 おかしい。

 俺は玄関に靴と鞄をほっぽりだして、那由を探した。

 しかしその姿はどこにも見つからない。


『おかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにおられるか、電源が――』


 電話をするが留守電で繋がらない。LINEも既読がつかない。

 

 俺は諦めてリビングのソファにぐったりと倒れ込んだ。

 那由ひとりを失ったのマンションは、ひどくうつろで広大な廃墟のように思えた。


「……那由は、ずっとひとりだったんだもんな」


 窓から外を見ると、相変わらずプールの底から幻想的な光がはなたれ空ににじんでいる。

 いつもより風が強いのだろうか。水面が揺れて、ライトもそれに合わせて震えるように揺らめいていた。


「――く、うっ……」


 まただ。――氷を踏み抜いて、真冬の湖の下に落ちていったあの時の恐怖が全身をつんざいた。

 足元の氷は溶けかけている。だれもそのことを教えてくれない。薄氷が砕けた音は、雪の中に吸い込まれて消えていく。俺の身に何があったか、だれひとりとして気づいていない。


 声が出せなくなる。全身が固まる。深くて冷たくて暗い水の底にゆっくりと落下していく。

 遠く遥か上空に【月】が見える。手を伸ばしても届かない。


 ――そんな記憶のフラッシュバック。


「はあぁっ、はあぁっ……!」


 過呼吸になって思わず胸部を押さえる。

 頭の中がひどく重たい。意識が闇の中に沈み込んで、それ以上何も考えることができない。


 ――俺はそのまま、着替えもせずにソファで眠り込んでしまった。



       * * *


 

 その夜、那由が帰って来ることはなかった。

 

 

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