1-19 酒が入ると口が滑り過ぎる

ふはりほもふたりともはひはろありがと~」


 べろんべろんの晴海はれみが言った。完全に呂律ろれつが回っていない。

 俺と月城つきしろさんのふたりで肩を貸して、どうにか晴海のマンションにまでやってきた。


「ええと……あったあった」


 俺は慣れた手つきで晴海の鞄から家の鍵を取り出すと、やはり慣れた手つきで扉を開けた。がちゃり。

 壁側に手を回して電気をつける。ぱちり。

 

 ひとまず寝言をぼやく晴海を玄関先に転がした。


「ふへふへ~日本酒ジョッキで~」

 

 まったく。頼む単位が狂ってやがる。


「お水、ここに置いておきますから」


 月城さんが途中の自販機で飼ってくれた南アルプスの天然水を、晴海の顔の横に置いた。


「ふわあい、なゆたちゃん、あひあと~」


 起き上がりもせずに晴海が言った。これは泥酔ステージのレベル5に近いな……。


「月城さん、ふだん晴海コイツに恨みとかあったりします?」

「えっ? な、ないです……」月城さんは即答した。良い人だ。「どうしてですか?」

「この状態だと、ナニをしても明日になったら忘れてると思うんで。今のうちっすよ」

「中本さんはあるんですか? その、恨みとか」

「ふうむ、そうすね」俺は即答せずにたっぷり考えて、「今日のところは勘弁してやろうと思います」と言って笑った。


 気付けば目を覚ましていた晴海は月城さんからもらった水を、まるで酒かのように美味しそうに飲んでいた。


「ぷは~~~~染みるね~~~~~」口元を腕で拭ってから、ふらふらと周囲を見渡す。「あれ~? さいが~どこ~?」

「俺は目の前にいるぞ」

「さいが~! だっこ~」

「だっこはしないぞ」

「さいが~! えへへ~」

「口からどぱどぱ水こぼれてるぞ」


 俺は持っていたハンカチで晴海の口元を拭ってやる。まったく。赤子の世話か!


 ふふっ、と後ろから笑い声が聞こえた。月城さんだ。

 

「おふたり、やっぱり仲が良いですね」

 俺は溜息を吐いた。「ただの幼馴染で腐れ縁です」

「そうでしょうか。私には、その、まるで……カ、のように見えます」


 月城さんがすこし言いにくそうにした。

 頬はやはりお酒の名残であろうか、真っ赤に染まっていて、目線は泳いでいる。


「ははは、そんなんじゃないですよ――まあ、昔になったことはありますけど」


 

「――え?」


 

 月城さんが訊き返した。まるで暖かい日光が差す花畑に、急に吹雪が吹き込んできたような音だった。


 ――しまった。喋り過ぎた。


 やはり酒が入ると口が滑り過ぎる。

 

「いわゆる……〝元カレ〟というやつでしょうか」

 

 という言葉が月城さんの口から出てきたことに少し驚く。

 なんだかイメージとちぐはぐで、ありていに言えば彼女が口にすべきではない言葉であるような気がした。

 

「ああ、いや……まあ、そんなとこっす。でも、昔のことなんで」俺は頬を掻きながら言う。

「へえ」とかなんとか。月城さんは曖昧な返事をしたが、背中越しだったのでその時の表情は分からなかった。


「さいが~、どこいるの~? えへへへへ」

「うんうん、目の前にいるぞ。……だめだ、完全に視界の焦点が定まってない」

「……大丈夫でしょうか」心配そうな声で月城さん。

「この感じなら大丈夫っすね。明日になったらアルコールもすっかり抜けてケロっとしてるハズです」


 どれだけ酔いつぶれても、それこそ救急車を呼ぶような事態になったことなどは一度もない。晴海はどこまでもアルコールに強く、ある意味ではわきまえている。

 

 飲む! たくさん飲む! 楽しい! すごく楽しい! 潰れる! 朝になる! 覚えてないけどなんか楽しかった~!

 

 ――その繰り返しだ。

 ようするに酒が入るとコイツはポンコツになるのだった。時々羨ましくもなるし、もはや尊敬の念すら抱く。人生こうだと楽しそうだな。

 

「……本当に、されていたのですね」

「え?」

「ああ、いえ。……なんでもありません」


 月城さんは小さく呟くように何やら言った。

 俺は首を傾げてから、朦朧としている晴海の肩を軽く叩いた。


「俺たちは帰るからな。いいか? 扉が閉まったら、お前が内側からカギをかける。がちゃり。そのあとは水をたっぷり飲んでベッドに行って好きに寝ろ。服装や風呂とかは明日考えればいい」

「はい! たいちょ~!」しゃっくりをしながら、晴海は敬礼のポーズを取った。

「扉がしまったら?」

「がちゃり。鍵をかけるであります!」

「よろしい」

「えへへ~」彼女はどこか楽しそうに左右に揺れている。「あ、ふたりはどうするの~?」

「お、俺たちは……一緒に帰るよ。なんだ」

「そっか~気を付けてね~」


 ふりふりと手が見えていないカーディガンの裾を振りながら、晴海は『けぽっ』と可愛らしいげっぷをした。


「まったく……羞恥心の欠片もないな」


 俺は嘆息しながら扉に手をかける。


「いいか? 扉がしまったら?」

「がちゃり!」

「ようし、良い子だ」


 がちゃり。

 きちんと鍵がかけられたことを確認して、俺と月城さんは安堵の息をついた。

 

 どこかから運ばれてきた涼やかな風が廊下を吹き抜けた。酔って火照った頬を心地よく冷やす。

 晴海のマンションから帰る時に空を見上げたが、そこに月を見つけることはできなかった。

 多分、他のビルか何かに隠れてしまっているのだろう。


「ともかく……これで任務完了だな」


 ふう、と息をついていると月城さんが言った。


「お疲れさまでした、――あの、こちら。よろしければ」


 彼女はまるで運動部のマネージャーのように、ハンカチで水滴を取ってからペットボトルを渡してくれた。


「あ……ありがとう、ございます」


 人生で一番美味しい水だった。

 


       * * *


 

 ――俺たちは一緒に帰るよ。同じ方面なんだ。

 

 同じ方面どころか――【同じ家】に俺と月城さんは住んでいる。

 無事に晴海を送り届けたあと、俺と月城さんはタクシーで帰った。

 窓を開けて夜風に当たっていたら、マンションに着いた頃には程よく酔いも醒めていた。


 24時てっぺんも回っていたし、てっきりそのまま今日は『おやすみの時間』になるかと思ったら、

 

「あの……よかったら、少し飲み直しませんか?」


 と月城さんの方から誘ってくれたのだった。

 俺はどもりながら『もちろん!』だか『ぜひ!』だかの返事をして、近くの高級スーパーでお酒とおつまみを買ってマンションに戻った。


「月城さん、お酒強いっすね」

「そうなのでしょうか。こんなに飲むのは、はじめてなので……どこまで飲めるか、自分でもあまり分かっていません」

 

 俺は『すい』のジンソーダ、月城さんは『ほろよい』のレモみかんを飲んでいる。

 あまりアイドルではしているのを見かけないが、お酒の広告のイメージガールをしても月城さんはとても似合いそうだなあと思った。

 白い肌に差すかすみのような赤み。とろんとした瞳。何かをいざなうように微かに開いた桜色の唇。

 ポスターにでもなっていたら、10年くらいは眺めていられるレベルだ。


 そんな彼女の頭が、ふらり。

 舟を漕ぐように片側に揺れた。


「だ、大丈夫ですか⁉」

「ん……大丈夫です。たしかに、今日はすこし飲みすぎたかもしれません」

 

 声色にはどこかつやっぽいものが混じり、視線はぽうっとしている。

 ついつい惹きこまれてしまいそうになるのをぐっと抑えて、


「あ、サプリ……飲んだ後にがあるんです。良かったら持ってきます」

「……ありがとうございます」


 俺は自分の部屋に戻って、机の引き出しから袋入りのサプリメントを取り出した。アルコール代謝を促進してくれるとかなんとかという優れものだ。


 ちなみに机やベッドなど一通りの家具は月城さんが『私のマンションの部屋ですし』と買い揃えてくれた。


『中本さんの入社祝いでもあります』


 などと安くもない家具をプレゼントしてくれるなんて、やはり元・芸能界の頂点トップは色々とスケール感が違うぜ。

 なんてことを思い出しつつ&あらためて感謝しつつ、俺はサプリの袋を手にリビングに戻ろうと足を速めた。

 


 ――その途中で、俺はマンションの中で


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