第3話 麗国ホテル、崩壊の序曲
「今日からよろしく頼むわね、健二さん!」
「お任せください、礼子さん」
次期社長の礼子と、彼女はヘッドハンティングをしてきた黒松はバックヤードで人知れずキスを交わした。
場でひっそりとこうしたことをして、スリルを楽しむ。礼子の悪癖の一つである。
一通りスリルを楽しんだ礼子は意気揚々と、黒松を自慢のホテル自慢のセラールームへ案内する。
「おお、素晴らしい! さすが麗国ホテルですね」
「これぜーんぶ、私が仕入れたのよ!」
「さすがです礼子さん」
「でね、ここを黒松さんへお見せしたいのは……」
礼子はセラールームの最奥で、大事に保管されていた木箱を開く。
途端、中身のワインボトルを見て、黒松の表情がさらに色めきだった。
「こ、これは……2009年のシャトーマルゴー!? しかもこんな本数を……」
「すごいでしょう? ふふ……」
2009年。
この年はフランス・ボルドー地方にとって、葡萄の出来が非常に良く、素晴らしいワインが生み出された年だった。
故に出た当初から今日まで、この年のワインは非常に高値で取引されている。
更に生産者は、5代シャトーの一つで、名実ともにボルドー地方のワイナリーのトップの一つに数えられる"シャトーマルゴー"
ワイン好きなら、是非味わってみたい逸品だ。
「この09年のマルゴーを今月中に全部売り切って欲しいわ!」
「ーーッ!?」
礼子がそう言い放った途端、黒松は驚愕の表情を浮かべている。
「09をマルゴーを全て、今月中にですか?」
「そうよ! 黒松さんならできるわよね?」
「それは……」
「できるわよね!?」
礼子は即答しない黒松へ苛立ちを覚え、声を荒げた。
せっかちなきらいのある礼子は、こうした対応をされるのが一番気に食わないからだ。
「……か、かしこまりました」
「くれぐれもよろしくね、黒松さん! これで是非、貴方の麗国ホテルのデビューを飾って!」
自分がヘッドハンティングした人物が、デビューでいきなり大成果を上げる。
しかも父親が大切に保管していたワインを勝手に使って。
これを機会に父親をさっさと社長の座から引き摺り落として、社長となる。
なにせ麗国 礼子はあのシャンパン2000本事件を見事な手腕で解決した若き経営者として、雑誌やテレビによく出ているのだ。
そんな麗国 礼子が遂に100年続く老舗ホテルの若き社長にーーメディア受けすることは間違いない!
愚かな礼子はそんな絵図を頭の中へ描いているのだった。
●●●
09年のシャトーマルゴーは非常に傑出したワインだ。
故に小売価格でも最低10万円は超えてくる。
それをホテルのレストランで出すともなれば、一体いかほどの値段になるものか。
しかしそれ以上に黒松自身は……
(まだ09年のマルゴーを開けるのは早い。早すぎる。この手のワインは更に熟成をさせないと……少なくとも後10年は……)
とはいえ、"やる"と宣言してしまった。
ならば礼子に拾われた身として、このミッションをこなすしかない。
(……俺ならできる。俺はネオオーニタにいたんだ。あそこの連中は俺を認めなかったが、ここならば……! 鶏口となるも牛後となるなかれ! いや俺はいずれ、牛口にさえなってみせる!)
かくして黒松は目標を達成すべく、レストランホールへ出てゆくのだった。
「黒松主任、あちらの窓際の席に座っている方々が"関夫妻"で、山東物産の社長さんですよ」
古くから勤めている従業員が、そう教えてくれた。
山東物産はこの地域発祥で、全国に支店を持つ優良商社だ。
そこの会長となれば、金は有り余るほど持っているはず。
09年シャトーマルゴーを売りつけるには、最高の相手だ。
早速黒松は、関夫妻と接触を図るべく、堂々とした態度でホールを歩んで行く。
「いらっしゃいませ、関様」
「おや? 君は?」
人の良さそうなお爺さんが、早速黒松を見遣る。
おそらくこの方が本日のホストで山東物産の社長だろう。
「本日よりトゥール・ドォールでソムリエをすることになりました、黒松と申します」
「よろしくね、黒松さん。ところで、緑川さんを見かけないのですが、今日はお休みですか?」
婦人はやんわりと、そのことを指摘してくる。
「み、緑川は退職をいたしまして……」
「あら、そう……残念だわ……とても愉快な方で、またお会いできるのを楽しみにしていたのに……」
婦人は酷く残念そうにそう言った。
どうやら前任の緑川はかなり信頼されていたらしい。
しかし緑川は所詮このホテルでの勤務経験しかない叩き上げのソムリエだ。
対して黒松は国内屈指のネオオーニタホテルでの勤務経験があり、更に若い頃は大小様々な飲食店でのソムリエ経験も積んでいる。
1ヶ月もここで働けば、お客は皆緑川のことなどすっかり忘れてしまうだろう。
「お飲み物はいかが致しますか?」
黒松は早速ワインリストをお爺さんの方へ差し出した。
すると、お爺さんは少々困ったような表情を浮かべる。
(なるほど、おそらくこの社長はワインのことをよくし知らず、緑川が選んでいたからこんな困った表情をしているのだな)
そう踏んだ黒松は、リストの最上段へ書き加えた、09シャトーマルゴーを指し示す。
「本日から特別にシャトーマルゴーの09年をお出ししております。いかがでしょうか?」
「こ、これは……とても高級なワインだね……?」
「本日のお料理にはとてもよく合います」
「ど、どうするね?」
金持ちなのに、この程度の価格で狼狽えている。
婦人を招いている側なのに、この体たらく。
意外と山東物産とは大した会社では無いのかと、黒松は思った。
「見せてくださる?」
すると婦人がにこやかな笑顔で、そう告げてきた。
「渡してあげてください。社長に。この価格じゃ私の一存では決められませんので」
「ーーッ!?」
痛恨のミスだった。
黒松はお爺さんの方が社長で、ホストであると完全に勘違いをしていたのだ。
「た、大変失礼をいたしました!」
「すみませんね、ややこしくて。一応私が社長で、夫は副社長なのよ。この妙な関係に緑川さんは、初めて来店した時から気づいてくださいましたけどね」
婦人ーーもとい、山東物産の関社長は、黒松から受け取ったワインリストを眺め始める。
「シャトーマルゴーの09年ってまだ若いわよね?」
「お、おっしゃる通りで……」
「他に何かあります? なにかこう、驚くような面白いワインが飲んでみたいわ」
「でしたら……」
黒松はリスト状にある、比較的面白みのあるワインを次々と提案した。
しかし話せば話すたびに、関社長の表情が曇ってゆく。
「案内ありがとう。今夜はこのシャンパンでお願いするわ」
結局、関社長が選んだのは、当たり障りの無い銘柄のシャンパンだった。
完全に出鼻をくじかれた黒松は、ガックリ肩を落としつつ、関夫妻の席を離れてゆく。
「前に緑川さんが提案してくださった、アレをまた飲みたいわね」
「シチリアの赤だろ? 確かにあれは美味かったなぁ……」
「惜しい人を手放したわね、ここって……」
きっと関社長はあえて、聞こえるようにそう言っているのだと黒松は思った。
ーー結局、黒松はこの日、シャトーマルゴー09年を一本も売ることができなかったのだった。
そしてこれが老舗ホテルの崩壊の序曲になったとは、今は誰も知らない……。
★★★参考ワイン★★★
*価格・ヴィンテージは2022年冬のものであり、価格変更が生じている可能性があります。
【シャトーマルゴー2009 ¥151,800〜】
【シャトーマルゴー2018 ¥92,400〜】
【シャトーマルゴー2019 ¥99,000〜】
飲み頃はいずれもヴィンテージより10年以上です。
最良年は最大50年ほどと言われています。
パヴィニョン・ルージュ・ド・シャトーマルゴーはセカンドラベル(いわゆる廉価版)になります。
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