10章 狂った母

10章 episode 1 母の視線が恐い


◆ 娘の持ち物を切り刻んで捨てた母、昔の母ではなかった。


「待ってたぞー! 有名になったな、全国区だ。それでどうした士郎さんとは? まあ、オマエに限ってそんなことはないな! ナイスバディを待ってたんだ、今年はキン蹴りはさせないぞ! 安心しろ」

 毎日、酒井は舞美にぴったり寄り添ってパトロールを続けた。だが、日が経つにつれて舞美の笑顔が陰り始め、元気がなくなって行くのに気づいた。


 しょんぼりと弁当を食べる舞美に、

「オマエでも悩みがあるのか、オレに話さないか? オレたちはバディだろ」

「考え過ぎかも知れないけど、母は母なんだけど、でもどこか違うの。私がご飯作るのを嫌がるし、ものすごく冷たい視線で私を見るの。何だか私を拒否してるような、そんな感じで辛い……」

「オマエは考え過ぎる人間ではない、多分その直感は正しいだろう。母親は心の傷をまだ引きずっているかも知れないな。そうだ、頭がいい士郎さんに聞いてもらえよ。オレは悩やめるバディが辛い、早く聞いてもらえ」と、背中を押した。


「舞美です。士郎さん、電話していいですか」

「どうした、元気か?」

「はい、私は元気です。思い過ごしかも知れませんが母がヘンです。ときどき、ゾッとする冷たい眼で私を見ます。私のこと怒っているのでしょうか、怖いです。すみません、他に話せる人がいなくて……」

 士郎は舞美の母が供述した調書を思い出した。あのような修羅場を経験した女は、自分の娘ですら敵視するのかと考えたがわからなかった。

「お父さんにはどうなんだ? 冷たい態度か?」

「いえ、普通だと思います、ただ、パパが私を褒めると顔を背けます。シローを虐めるのを見ました。辛いです」

「舞美、休みが取れたらそっちへ行っていいか? 親父も行きたがっている。山本と中村は遊び相手がいなくてつまらなそうだ。聞いているか、自分を責めるな、悩むな! ミッキー・シローを抱いて寝ろ、そして家でもダビデは付けていろ、明日電話する」


 士郎は父に調書のコピーを見せた。泉谷は無言で食い入るように読み、大きくため息をついた。

「これほどの辛酸を味わった人間に、1年や2年で立ち直れと言う方が無理だ。わが娘でも若くて可愛い女は許せないのか、敵視するのか? それとも父と娘で寄り添う暮らしに自分の存在はないと嫉妬したのか、俺はわからんが舞美ちゃんに罪はない」


 翌日、

「士郎、時間あるか? 俺は舞美ちゃんのバイトを見に行くぞ。お前もあの子が心配だろう? 俺は行くぞ、お前は勝手にしろ!」

 

「おーい、舞美ちゃん、元気かあー」

「あらっ、おじさん、どうして?」

「うん、僕は恋人だろう、だから来たんだ」

 舞美は泉谷に飛びついてプチュした。酒井がニヤッと笑った。

「藤井、オマエは大したもんだ、呆れたよ」

 士郎は舞美のライフセーバー姿に隠された裸を思い出し、言葉もなくボーッと眺めていた。

「おい、バカ息子、しっかりしろ! いい歳してニヤけるな」

「パパに電話します。4人のお客様とナイスバディが来てくれるって!」


 泉谷と士郎を前にして、父は深々と頭を下げ、娘のピンチを救ってもらった礼を述べた。

「何の用意もありませんが、どうぞゆっくりしてください」

 台所では冷凍庫の食材をフル活用して舞美が大奮闘した。あり合わせの材料で作られた料理は、フクちゃん食堂の味がして、旨い、旨いとバク食いするSPを見て、

「藤井、たまにはオレの弁当も作ってくれないか。海の家のカツ丼には飽きた。ヨメに来ないなら弁当で我慢する、頼んだぞ」

 久しぶりの客人を迎えて賑やかな夜が更けて行った。


 客間に布団を並べて男たちは横になったが、泉谷は舞美の様子を酒井に尋ねた。

「それで舞美ちゃんは母親を心配していたんだな」

「そうです。アイツはキン蹴りをずっと気にしてます。こんな事件に巻き込まれるなんて、不憫で仕方ないです。意地っ張りなんで辛い顔は滅多にしませんが、母親の目つきが気になります。アイツは針のムシロでしょう。何もしないからオレんとこに泊まれと言ったら笑ってました。可愛いヤツです」

「酒井くん、まったくその通りだ。ただ、あの子は帰る家すら無くしたのかと思うとな……」

「明日は忙しいですが、明後日はバイトが休みです。デートしようと誘ってみます」

 黙って聞いていた士郎がビクッとした。

「俺は明日ゴルフに父親を誘う。士郎はママさんと留守番だ、中村もだ。山本は舞美ちゃんが酒井くんに拐われないようにガードだ」

 山本は、ヤッターと叫びたい気持ちを隠して喜んだ。



10章 episode 2 狂った兆候


◆ 人の心はガラス細工のように脆くて壊れやすい。


 舞美がバイトに出かけた留守に、士郎は舞美の部屋を覗いた。綺麗に片付けられた部屋だが妙な気がして、机の引き出しを開けた。鉛筆1本ない! どの引き出しも空っぽだ! 整理ダンスとワードローブを開けた。まったく何もない! これは? 人の気配に振り返ると、母親が不気味な笑顔で立っていた。

 舞美は心を休める場所すらない旅人か。母親から全ての持物を捨てられたのだろう、存在すら抹殺されたのか。母親は狂っている! 父親は知っているのか?


 夕方になり、泉谷と舞美の父は戻ってきたが、士郎の表情を察した泉谷が庭へ連れ出して話を聞いた。

「そうか、想像以上に舞美ちゃんは苦しんでいるようだ。真実を父親に告げるしかないか……」 


 舞美はバイトから戻り、冷しゃぶでーすと明るく声を張り上げ、台所に消えてたくさんのおかずを持って来た。おばさん直伝の肉ジャガやナスの生姜煮に泉谷が目を細めていると、

「あれっ、士郎さんは元気ないですね、どうしたんです? おとなしく留守番してくれたんですかぁ」と訊く舞美に、事情を知っているSPの中村が背を向けた。

「明日はバイトが休みなので、バディがデートしようと名大のプールを占領したそうです。みんなで行きましょうよ」

「よし、この前は舞美ちゃんに負けたが今度は容赦しないぞ、行こう。士郎は泳げるか? 恥かくなよ」

「みんなのお弁当を作ります。パパも行こうよ? ママは?」

「私は泳げないから」

「でも一緒に行こうよ」

 会話を聞いて士郎は泣きたくなった。おい、今すぐ俺と東京に帰ろう、そう言いたかった。


 酒井は舞美にバタフライを教えた。水を得た人魚姫のように舞美の瞳は輝いていた。

「士郎さん、競争しましょうよ、100mですが、ハンデいりますかぁ」

「うーん、10mはくれよ」

 それでも士郎は完全に舞美に打ち負かされた。中村と山本のコンビは酒井と400mに挑んだが、まったく歯が立たなかった。泉谷はたくさんハンデをもらって酒井に挑んだが、勝てるわけはなかった。

「酒井くんは凄いなあ! よくわかったよ。ありがとう、世界的なスイマーと一緒に泳いで冥土の土産になった」


 泉谷はゴルフを楽しみながら、さり気なく舞美の母の主治医を聞き出していた。

 一足先に舞美たちを帰して、泉谷と士郎は南条医院に向かった。南条医院では龍平と母の南条恵子が待っていたが、泉谷が舞美の母の行動や様子を話すと、

「息子の龍平は将棋の相手に藤井家を訪れることがあります。そのとき何度も『舞美よりも私のほうがすごいのよ』と誘われたそうです。息子は舞美ちゃんとは高校から交際していますが、医者のタマゴなので異変に気づいたようです。娘のボーイフレンドを性的対象に捉えることを全否定はしませんが稀なことです」


「南条先生、母親は舞美ちゃんの服や持物の全てを捨てましたが、舞美ちゃんは恨みがましい事ひとつ言わずに耐えています。僕は舞美ちゃんが我慢しすぎて壊れてしまうのではないかと心配で、直ちに東京へ連れて帰りたい気持ちです」

 龍平が言った。

「泉谷先生、僕は通りかかって山積みのゴミ袋に気づいて4袋を持ち帰り、すぐ戻りましたが全て清掃車に運び去られていました。言ってませんが、中身は全て切り刻まれていました」

「南条先生、舞美ちゃんと父親には見せていませんが、これはご存知ですか」

「私は立会いましたから知ってますが、龍平に見せたいと思います」

 母親の調書を龍平に渡した。龍平は読み進むにつれ、驚きから何とも哀しい表情に変わって眼を閉じた。

「龍平、アンタが医者になったらこんなことはよくあることなのよ。人の心はガラス細工のように脆くて壊れやすいの。舞美ちゃんのお母さんだから、大変な目に遭った人だからと考えないで現実を直視すると、藤井幸子さんは隔離する必要があると判断します」


「泉谷さん、私が思うには、舞美ちゃんが東京へ戻ると表面上は穏やかな生活が続くかも知れません。しかし、そのうち攻撃対象はご主人になるでしょう。こんな私に誰がしたと患者は考えます。自分の愚かさがわからないのです、知ろうとしません。知りたくないのでしょう。精神科の病院に入院させるか迷っていましたが、明日にでも入院に向けて手続きします。私の力不足をお詫び申し上げます」



10章 episode 3 狂った凶行


◆ 母から命を狙われた娘に、父は会わす顔がなかった。


 帰る道すがら泉谷と士郎は思案した。泉谷が父親に話をして必要であれば調書を見せよう。舞美には士郎が事情を説明する。母親が入院するまで舞美に付き添いたいが、やむ得ない場合は山本か中村を残そう。狂った母から舞美が襲われることも考えた。

 藤井家に戻った二人は溢れるような笑顔の舞美に迎えられ、「ハーイ、新作を披露します」と大皿に山ほどおかずが盛られていた。そんな舞美がいじらしくて泉谷は目を伏せた。


 山本に母親が外に出ないように見張っとけと士郎は言い残し、舞美を散歩に誘った。

「舞美の部屋を見せてもらったが何もなかった、驚いた。辛かっただろう」

「はい、とっても哀しいです。でも、物はお金で買えますが、心はどんなにお金を出しても無理です、辛いです。私は恨まれてるのでしょうか?」 

「そうじゃない、君の母親は普通じゃない、病気だ。舞美、我慢しないで東京へ戻ろう」

「いいえ、父が心配です。まだ戻れません!」

「そんなに我慢するな! 言いたい事は山ほどあるだろう! 南条先生に会った。先生は薄々気づかれていた。息子さんを何度も誘ったらしい」

「えっ! 本当ですか」

「龍平くんはウソ言ってない。それを君のお父さんに話すべきか悩んでいた」

「リュウ、ごめんなさい。リュウまで苦しめてしまって……」


「結論から先に言うが、お母さんの心を療すには入院しかないと南条先生が判断された。今は娘を攻撃対象にしているが、舞美が東京へ去ったら、次は不満を爆発させて夫を攻撃すると言われた。悲しい話だ。

 舞美の持物を切り刻んで捨てたのは、若さに輝く女が憎らしくて抹殺したいという願望だそうだ。もう自分の娘だと思っていないほど、お母さんは壊れている。父は君のお父さんに話をすると言った」

 ブランコに座ったまま肩を震わせ泣き出した舞美を士郎は抱きしめた。あまりにも哀しい現実に泣いていた。


「舞美、よく聞いて欲しい。父と僕は明後日に東京へ戻るが、山本を残すことにした。山本は信頼できる。君の部屋の床に寝かしてくれないか。ただし、パンツを履いてパジャマを着ろ、山本に失礼だ。そして言いにくいがお母さんは君に何をするか予測がつかない。10日以内に入院先が決まると思うが、それまでの辛抱だ」

 涙と鼻水でグシャグシャの顔で、舞美は空を見上げた。

 舞美が心配で南条は舞美の家に行こうとして、泣いている舞美を士郎が背後から抱きしめている光景を見て引き返した。舞美、これ以上遠くへ行くな! 南条も泣いていた。


 その夜、客間では泉谷親子と舞美の父が話し込んでいた。二人のSPは隣室に控えていたが、夜更けにさしかかった頃、“ダビデの星”が突然鳴り響いた。山本が走り込んだとき母親は床に倒れ、舞美は喉を押さえて咳込んでいた。就寝中に首を絞められ、驚いて目覚めた舞美は足蹴りしたようだ。床には果物ナイフが落ちていた。母が娘を襲った現実に舞美の父は茫然と立ち尽くした。


 むせって咳き込んでいる舞美が哀れで、士郎は舞美を抱き包んで眠れぬまま夜明けを迎えた。6時に起きた舞美は朝食や昼飯と弁当の用意を始めた。

「無理するな、バイトは休みなさい。メシの心配なんてするな!」

「行きます。行かせてください。何かしてないと辛いです」


 いい匂いがするワカメの味噌汁にシラスが入った卵焼きとアサリの茶碗蒸しを並べて、

「バイトに行きます。お昼は中村さんにお願いしてます。じゃあ、頑張って来まーす」

 山本が運転する車でバイトに向かった。父は娘に会わせる顔がなくて部屋に閉じこもったが、母は何食わぬ顔で食卓に座った。自分が何をしたのか忘れたか、知らないふりしているのか、誰にもわからなかった。



10章 episode 4 隔離された母


◆ 精神科病院に入院した母に、舞美はまだ自分を責めていた。


 泣き腫らした眼をサングラスで隠した舞美に酒井は、

「どうしたんだ、士郎さんに振られたのか? オレがいつでもヨメに貰ってやるから泣くな」

 舞美が更衣室に消えた隙に、山本は酒井に昨日の出来事を話した。

 まだ追いかけて来るのか、終わってないのか、酒井は水平線を見つめて呟いた。


 酒井と山本はすっかり打ち解けて、

「去年、藤井に恋人はいるかと訊いたら3人いると言うんで驚きましたよ。東京の女子大生ってそんなものかと思って、からかったら泣かれました。気持ちもないのにどうしてこんなことするのかって。そのときアイツは膝でキン蹴りの用意をしてました。完全に振られました」

「ここだけの話だけど、泉谷先生が舞美ちゃんを湯河原に呼び寄せて、士郎さんと寝かしたんですが、カケに負けて士郎さんは何も出来なかったそうです。『士郎はパンツの中身もバカ息子か』と嘆いたので、陰で中村と大笑いしたことがありました」

 酒井は「士郎さんの気持ち、よくわかります。アイツに横でぐっすり眠られたらヤバイです、オレもそうかも知れません。早く立ち直ってくれよ!」


 泉谷と士郎は東京に戻ったが、山本は舞美の部屋で寝起きして24時間ガードした。

 母の入院が9月1日に決まり、8月31日、酒井は山本に頼まれて舞美の家に泊まった。山盛りのご馳走で歓待された後、舞美を真ん中に両側を酒井と山本が固め、寝たふりして守っていた。真夜中、密やかな足音が近づいて来たが戻って行った。そのとき舞美はビクッと震えてミッキー・シローを抱き直した。母親が別れの挨拶に来たのか知れないが、山本は会わせたくなかった。


 翌朝、迎えの車に乗って母は去って行った。いつまでも手を振る娘に父は詫びた。

「もとはと言えば夫婦の問題で、何度も怖い思いをさせてしまったが、いつも周りの人から助けてもらった。心配して寄り添ってくれる人を持った舞美を誇りに思う。素晴らしい人たちだ。それに比べると僕は本当に恥ずかしい父親だ」

「パパ、哀しい時は無理しても楽しいことをしなさいと、お医者さまから言われました。パパが好きな将棋をやりましょうよ」

「そうだな、山本さんは将棋をご存じですか。舞美から贈られた駒をお見せしたいですがどうでしょう」

「僕は親父が交番勤務の巡査だったので、近所のオヤジさんと縁台将棋をよくやりました。ぜひお願いします」


 父と山本は同じレベルらしく、なかなか勝負がつかず昼飯も忘れて熱中していた。そのとき、母の入院を知った南条が訪れた。舞美はぼんやりと台所の壁を見つめ、何かを思い出しては首を振っていた。

 SPのガード付きだと南条はがっかりしたが、「力になれなくてごめんね」と舞美の肩を抱いた。この夏休み、一度も抱けなかった舞美が可哀想で仕方なかった。なぜ拉致される? どうして母親から命を狙われる? どう考えても理解できなかった。


「おじさん、以前のように将棋の相手をしてくれますか」

「嬉しいなあ、いつでも大歓迎だ。それより、今は負けそうなんだ、頼む、代わってくれないか」

 盤面をしばらく眺めた南条は飛車角をパチっと動かした。

「龍平くん凄いじゃないか!」、どうやら勝負がついたらしい。山本はフーッと大きく息を吐いた。この若造はスゴ腕だが隠している、ニヤッと笑った山本に南条が笑い返した。


 夕飯を食べて帰ろうとする南条に山本は、

「舞美ちゃんは明日東京に戻る。キミは舞美ちゃんが好きなんだろう? 舞美ちゃんに送らせよう。ただし僕は後ろについて行くが、見えない聞こえないカカシだ」

「好きだ! 舞美、どうしようもないほど好きだ!」

 公園の片隅で舞美を抱きしめてキスする南条を見ていた山本は、二人はこのまま幸せになれるだろうか、大人になる前に壊れていく青い恋か…… そんな未来を垣間見た。



10章 episode 5 泉谷の陰謀


◆ 何かに夢中になって心の傷を忘れさせたい、ダンスパートナーの道。

  

 山本と東京へ戻る舞美にいつもの明るさはなかった。山本は、

「舞美ちゃん、話を聞いてくれないか、僕の家族のことだが」

「はい?」

「僕は15歳まで本当の両親を知らなかった。生まれてすぐ母の父、つまり祖父の戸籍に入って母の弟になった。本当の両親は10代で親になってすぐ別れた」

 舞美は驚いて山本を見つめた。


「高校生のとき祖父は本当のことを話して、両親の住所を教えてくれた。訪ねて行った僕に、母は『どうしたの坊や、道に迷ったの?』と、置き去りにした息子だと気づかなかった。父は何しに来たかと拒絶した。僕は両親を恨んではいない。それは恨んだり憎むほど知らないからだ」

 聞かされた事実を心に思い浮かべた舞美は、ボロボロと泣いた。

「祖父の跡を継いで警察官になったが、自分が生まれなければ両親はそのまま幸せに暮らしたのかと悩んだとき、泉谷先生に会った。先生は『人は生まれて来たときは人ではない。自分で人になるんだ、親があろうとなかろうと関係ない。キミは気にかけてくれる祖父母がいる。不幸ではない』と言われた。

 士郎さんは、父親が偉大すぎていつも比較されてしまう気の毒な人だ。ただ、少し我儘だけどね。外から見ていると幸せそうに見えても中身はいろいろだ」


 東京駅に着いた。「ほら、我儘な人が待ってる」、舞美は山本と顔を見合わせた。

 迎えに来た士郎は、「山本、ご苦労だった。感謝する」

「父が会いたがっている。悪いが議員会館に寄ってくれないか、言い出したら退かない」


「舞美ちゃん、元気な顔を見て安心した。腹減ってないか、食べに行こう」

「おじさん、ありがとう!」

 舞美の肩を抱いて近くの大きな中華料理店に入った。舞美は少し痩せたか? 士郎が舞美を見つめたときケイタイが鳴った。一瞬緊張して席を立った舞美は、

「なーんだ、近藤さんですか。どうしたんです。東京に戻ってます。えっ、はぁ? そんなの無理です、出来ません。2カ月あっても私は素人です。近藤さんに迷惑かけます。ごめんなさい」


「どうした、困りごとか?」、泉谷が訊いた。

「近藤さんのパートナーがアキレス腱断絶で踊れないそうです。他の女子は全員退部したのでスペアがいない、助けてくれないかと言われました。役に立ちたいですが、エントリーは全日本選手権です。ペアの方とここまで勝ち上がって来たみたいです。私がヘルプ出来るレベルではありません。お断りしました」

「そうか、近藤くんは学生チャンピオンになって、次は全日本で大勝負か。舞美ちゃんは助けてあげる気はまったくないのか?」

「私がへたり込んだとき助けてくれました。本当は力になりたいですがレベルが違います。全日本なんて水泳だったら酒井さんがバタフライで優勝したレベルです。私は近藤さんの足を引っ張って沈めたくないです!」


「そうだな、士郎とのダンスはお遊びみたいなものだ。全日本か、舞美ちゃんがどんなに頑張っても到底無理だろう。この話は忘れよう」

「おじさん、士郎さんとのダンスはお遊びではありません。バカにしないでください! 士郎さんと私は必死でした。士郎さんに失礼です!」

 舞美は泉谷をガシッと睨んでキッパリ言い切った。泉谷はニヤリと笑った。


 送り届けて戻った士郎に泉谷は、

「近藤くんにもう一押しだと言え。そして舞美ちゃんの辛い経験、哀しい思いを話してくれ。2カ月間あの子を貸し出そう。服や小物は全てこっちで用意するから、心の傷を癒せるかと訊いてくれ。

 あの子は何かやってないと不安で辛いと言っていた。今は夢中になるものが必要だ。残念だが士郎には夢中になれないらしい」

 甘く切ないキスをしたが舞美はずっと泣いていた。シローを背負って寮に消える姿が儚く見えた。


 士郎は谷川に電話して、舞美が遭遇した母の狂乱を話した。あの子は精神的にかなりまいっている。もし援けを求めたらすぐ対応して欲しいと頼んだ。話を聞いて驚愕した谷川は青木に訊いた。

「舞美ちゃんは大学ではどうなんだ、どんな様子だ?」

「そうだな、授業は出ているが、声をかけようとするとスーッと行ってしまう。そんなことがあったのか。俺は舞美が赤ん坊のときの母親しか知らない、20年前だ。明日にでもダンス部を見に行く」



10章 episode 6 鬼の近藤


◆ ダンスマシンになって辛いことを忘れたい、壮絶な猛練習が続いた。


 部員を帰した4号館地下ホールで、近藤は舞美を相手に容赦ない指導を連日繰り返した。

「ダメだ! ダメだ! 最初からもう一度! どうした、そんな顔するな!」

 舞美は怒りで顔を真っ赤にしながら、必死に食らいついた。

 恐々覗いた青木が思わず顔を引っ込めるほど苛烈な練習だった。

 午後11時過ぎにやっと練習が終わり、マットに舞美を寝かせて体のケアを長いことやっていた。


「先生は車ですか、藤井を送ってくれませんか? 僕はもう少し続けるので」

 午前0時に近いというのに、まだ何かやるという近藤に青木は呆れた。恐ろしい男だ。

「藤井くん、送って行くよ。ひどく疲れているようだが大丈夫か? 近藤が相手では大変だろう?」

「私はまだ踊れる体じゃないそうです。近藤さんはアマチュア部門で入賞を狙ってますが、私がダメなんです」

 舞美のフーッと大きく息を吐いた眼には悔し涙が溜まっていた。

 なぜダンスなんかするんだと訊いたら、なぜでしょうかと眼を泳がせた。コイツは辛いことを忘れたくてここにいるのか、それを知った青木も辛かった。


 谷川に舞美の様子を報告したら、

「うーん、いつまで体が持つかなあ、瞬発力は凄いが持久力は普通レベルだ。長時間の負荷は心配だ、オレもそのうち見に行くよ」 

 練習を見学した谷川は泉谷に状態を知らせたが、心配する士郎に泉谷は、

「放っておこう、その程度であの子はギブアップしない。それよりも、そろそろドレスの用意をしよう。楽しみだなあ。お前は近藤くんに会って、舞美ちゃんを見て来い」


 士郎は近藤から舞美を採寸したデータを渡された。ドレスのイメージを告げ、素材やメーカーを事細かに指定した。あの子は元気かと訊く士郎に、

「藤井は叩けば叩くほど反り返るハガネです。やっと踊れる体になりました。今日はちょっと重そうなので1時間の休憩を与えました。もうすぐ戻るでしょう」

 近藤は用件を告げると練習を始めた。相手がいないのに、鏡で確認しながらダンスを続ける近藤は異星人に見えた。


 戻った舞美はトイレに消えてなかなか出てこなかった。腹具合でも悪いのかと士郎は気になったが、

「すみません、時間かかって。さっぱりわからなかったんです」

「最初は何でもそうだ。気にするな。さあ、始めるぞ」

「あらっ? 士郎さん、どうしたんですか」

「君が元気かどうか見に来た」


 しばらく練習を眺めた。士郎にはメロディに乗って軽やかに踊っていると見えるが、近藤のダメ出しは度重なった。胸を大きく上下させて口呼吸している舞美の頰を叩いて、「甘えるな! しっかりしろ、出来るはずだ」と次のステップへ引きずって行く。やがて舞美はキッと天井を睨みつけ、近藤に抱かれて踊り始めた。こんな過酷なダンスもあるのかと士郎は初めて知った。


 送ったが舞美は疲れていた。

「どうした? 元気ないなあ」

「あの~ 今日はアレなんです。なんだか気になって集中出来なくて、迷惑かけました。近藤さんはすぐ気づいて、タンポンにしろって言いました。近藤さんの1日はダンスだけです。私は近藤さんの命令どおりに踊る人形なんです。人形に魂はない、魂を入れるのは僕だけだ、必ず魂を入れるから信じてくれと言う人です」

 鬼の近藤には舞美は人形か…… 耐えられるのか、心配は膨らんだ。大丈夫か、壊れないか? 心配でたまらなかった。ふと見たら舞美は眠っていた。楽しい夢を見ているのか、にっこり笑った。いじらしくて仕方がなかった。起こさないように、目覚めるまで寮の周囲を何周も走った。


 本番までのカウントダウンに入った。舞美を心配した7人の学友が当番で寮へ送り届け、谷川と青木も顔を見せたが、近藤は見学者を完全に無視して、舞美をオモチャのように舞い回していた。

 人形になり切った舞美は、キリリと吊り上がった目尻と溢れるような色香を漂わせた女の顔に変っていた。


 明日が本番という日、近藤から電話があった。

「泉谷さん、藤井を迎えに来てください。ただしダンスに集中させたいので、絶対に藤井を抱かないでください、約束してください、お願いします」

 舞美はボーッと外を眺めていた。明日のシミュレーションで緊張しているのだろう。降ろそうとしたら、

「怖いです。もうドキドキしています。キスしてください」

「いいのか?」

「はい、ずっと優しくキスしてください」

 少し戻って車を停め、抱き包んでキスすると腕の中で舞美は眠ってしまった。ダンスの顔とはまったく違う幼い寝顔を士郎はいつまでも見つめていた。 



10章 episode 7 予想外の大健闘!


◆ アマチュア部門第2位、鬼の近藤が号泣した。


 全日本ダンス選手権では、近藤・藤井ペアはまったく注目されてなかった。パートナーの負傷で素人にチェンジした近藤に同情する関係者はいたが、誰も期待してなかった。

 ところが午前の予選で着実に得点を獲得したこのペアは午後の決勝に進んだ。

「アレをやるか? 成功したら入賞が見えるがどうだ?」

「やりましょう、ラッキーな予感、あります!」


 決勝が始まった。泉谷と士郎、7人の学友と谷川や青木、舞美の父と酒井が観客席で見守った。4番目に登場した近藤・藤井ペアはミスがない演技と高難度構成が認められ、予想以上に得点を伸ばした。最終種目では、腕を伸ばして高くリフトする近藤の頭上で、舞美は開脚のまま1回転して華麗にフィニッシュした。

 観衆のため息と喝采を浴びたこのペアは、5種目の総合点でアマチュア部門の第2位に輝いた。実績がない大学生ペアが2位になるとは誰も予想してなかった。酒井は「おーい、惚れ直したぞー、いつでもヨメに来い!」と人々を笑わせた。


 表彰式が終わり、ステージの袖で初めて舞美を抱きしめて「ありがとう」と近藤はさめざめと泣いた。鬼の目にも涙はあるのかと周囲は驚いた。

 誰よりも喜んだ泉谷は、ドレスのまま観客席に挨拶に来た舞美に我先に近づき、よくやったと繰り返し頭を撫でた。青木の姿を見つけた舞美は泣きべそ顔で飛びついたが、すぐさま酒井が青木から舞美を取り上げた。

「オマエのダンスを見てオレは考え直した。引退するつもりだったがヤメタ、ヤメタ! 子供のオマエがやったというのに、オレが遊んでいられるか、泳ぐぞ! Nice buddy, thank you!」と叫んで、舞美を頭上に持ち上げた。

 

 やっと顔を見せた近藤に泉谷と士郎は頭を下げた。

「舞美ちゃんがいちばん辛い時間を支えてくれて本当にありがとう。だいぶ吹っ切れたようだ。どう感謝すればいいのかわからない」

「いえ、礼を言うのは僕です。藤井があれほどやるとは思ってませんでした。これ以上イジルと壊れるかなと思うと、跳ね返して来ました。部屋で大きな縫いぐるみを抱いて練習したようです。僕のステップを覚えて縫いぐるみを自分に見立て、ターンのタイミングや角度を探ったようです。出番前に『私は Loved one(=最愛の人)なのよ』と笑ったので、張り詰めていた気持ちが楽になりました」

 

 小型酸素吸入器を背負って観戦していた谷川は、近藤の言葉を聞き本当にほっとして舞美を讃えた。

「青木、あの子はよくやったなあ! だが、オレが舞美ちゃんの男だったら、彼女が頑張らないでいい世界に封じ込めたい。ピンチヒッターで泳いだりダンスしたり、それも遊びごとでは済まされないレベルだ。そんなことはさせたくない。酒井くんはジョークばかり飛ばしているが舞美ちゃんに惚れている。今晩は湯河原の本宅にみんなを招待したいと泉谷さんが言っていた。青木、オマエも来ないか?」

「行く理由がない、遠慮したい」

「選挙のときオレは青木よりも舞美ちゃんを身近で見ていた。今のあの子はオマエが知っている子じゃないかも知れない。それと泉谷親子が面白いぞ。来いよ、泉谷さんに顔を覚えてもらったほうがいい。教え子の学生らは行くぞ、ついて来い、人生修行だと思え」


 父と娘は言葉もなく向き合った。

「明日は仕事だ、士郎さんに舞美を頼んで僕は名古屋に戻る。龍平くんを誘ったが、怖くて見られないと断った。舞美がだんだん遠くへ行ってしまう気がしているようだ」 


 湯河原を目指す車中で、青木は心細くて泣いていた舞美を朝まで抱いたことを思い出した。あの子は俺たちの手に負える子ではないと谷川は言ったが、舞美の心はどこにあるのだろうか……

 到着した途端、7人の学生は一目散に走り出した。彼らの目的は温泉を引いた大浴場だった。谷川と青木が覗くと、歓声をあげて子供のように遊んでいた。

 泉谷が、「キミたちは士郎を最後まで支えて頑張った戦士だ、ありがとう」と頭を下げた。

「僕らは藤井の家来ですから、あいつに頼まれたらどこでも行きます。士郎さんを手伝って大人の世界を知りました。ありがとうございました」

 泉谷は、若者らしい屈託ない言葉が嬉しくて相好を崩した。



10章 episode 8 湯河原の宴


◆ 理解できない、ダンスマシンのラストダンス。


「みなさん、用意が整いました。どうぞ客間に」と士郎が告げると、泉谷は「お前も舞美ちゃんを誘って風呂に入ってこい」と笑った。

 風呂を覗いたら、舞美は裸でくるくるとターンして踊っていた。おい、素っ裸で踊るな! 声をかけようとしたら近藤が入って来たが、士郎は眼中にないらしくさっさと服を脱ぎ、

「相手をしよう。僕に一生の思い出をくれないか」

「えっ?」

 二人は裸の体をぴったり合わせて踊り始めた。


 まっ、まさか! 士郎は信じられない光景に驚いた。洗い場で舞美を幾度も回転させては抱きとめ、最後に浴槽に投げ込み、近藤も飛び込んだ。

「そう、ここだ。藤井がいちばん綺麗に見えるシーンだ。ありがとう、僕は忘れない、君と踊ったことを。藤井、幸せになれよ」

 そう言って出て行った。


 士郎は唖然として一部始終を見ていた。全裸の女を抱いてまったく勃起せずに踊っている近藤が信じられなかった。あの男は何者だ、それに舞美も! 宇宙人か?

「舞美、用意が出来ている、もう上がりなさい。それとも僕と入るか?」

「いえ、いっぱい入りました。もう出ます」

 士郎の前を通り抜けた。


 冴えない顔で宴席に戻った士郎に、

「どうした? 舞美ちゃんと長湯して湯あたりしたか?」

「いいえ、さっさと出て行きました」

「また振られたか、情けないやつだなあ」

「気にしなくてもいいですよ。アイツはそんなヤツです。男を振り回すとんでもない小娘ですから」

 酒井が豪快に笑った。


 泉谷が谷川と青木の席に移ったとき、士郎は酒井に尋ねた。

「さっき風呂を覗いたが、舞美と近藤くんがダンスしていた。近藤くんは全裸の舞美を抱いていたが欲情してなかった。驚いたが、そんなことは有り得ることなのか?」

「そうですか。あの二人は男と女を超越したダンスマシンですから、アリでしょう。多分、近藤は藤井と別れるのが惜しくて、自分だけの思い出を作ったんでしょう。就職が決まったと言ってました。気にしないことです」

 酒井の説明は理解できなかったが、二人のダンスを見て驚きはしたものの、俺の分身も反応しなかった。そんなものかと思った。


 伊豆の美味い魚と寿司に舌鼓を打った一行に、

「舞美ちゃん。朝は大盛りのカニの味噌汁だよ。そしてプールで泳ごう、たっぷり遊ぼうね。今晩は大広間でみんなで雑魚寝しよう。舞美ちゃんの隣は中村と山本にするか? 俺は勘弁してもらおう」

「いや、ここは酒井さんと近藤さんに両脇を固めてもらいましょう」

 山本がそう言ったとき、舞美の寝相の悪さを知っている家来どもは顔を見合わせて笑った。


 全員が寝静まった深夜、「痛っ! 誰だ?」、蹴飛ばされて酒井が起こされた。舞美の足がドデンと酒井の胸に乗っていた。しばらく経つと近藤が頭を蹴られて飛び起きた。その気配に酒井も起きて、

「キミもか、とりあえず僕らの安全を確保しよう、このチビをスマキにするか?」

「僕たちが抱きついて動けないようにしましょう」

「そりゃあいい! しかし贅沢な女だ。チャンプ2人に抱きつかれて寝るとは呆れたヤツだ。両隣にいい男が寝てるというのに遠慮なく回し蹴りをするとはなあ、こんなヤツをヨメにするのも考えもんだなあ。近藤くんと代わろうか?」


 明け方、酒井が目を覚ますと近藤に抱かれて舞美は眠っていた。近藤は小学生のハナタレ小僧の顔をして寝ていた。コイツも無理してんだなあ。鬼の近藤と呼ばれてもオレと同じか…… よし、しばらくヨメを貸してやろう、酒井はプールへ向かった。

 やっと起きた舞美は抱きついている近藤に、「近藤さん、何してるんですか?」と笑った。近藤はボーッと舞美を見て、「あっ、そうか、失礼した」と慌てて腕を緩めた。



10章 episode 9 普通の恋人たち


◆ 舞美の哀しく歌う心を包んでやりたい士郎はデートに誘った。


 カニの味噌汁を上機嫌で食べまくっている舞美のケイタイが鳴った。廊下に出た舞美は、

「リュウ、どうしたの?」

「舞美、テレビを観たよ、おめでとう! だけど、僕と違う世界で頑張っているのを知って、嬉しい気持ちと寂しい気持ちが両方で、僕はわからなくなった。僕を忘れてないか?」

 舞美は返す言葉がなかった。そうか、そう思われても仕方がない。この2カ月間ほとんど電話しなかった。だってリュウは私の時間と空間にいなかった。

「そんなことないよ、だって、だって……」

 電話は切れた。戻った舞美を見た山本は名古屋のあの青年だと思った。


 士郎は舞美を送りながら、

「これからどうするつもりだ?」

「はい、ずっと食堂に行ってないので、明日からおばさんの手伝いします」

「そうではなく、3年後、5年後を考えたことがあるか? これからとはそういう意味だ」

「なーんだ。進路ですか? 少しは考えています、1つは母校で社会科の教師になって父と暮らします。2つ目は大学院に進むかも知れません。青木先生に相談します」

「何を学ぶのか?」

「へへっ、内緒です。大学院に進めるほど頭と成績がよくないし、考え中です」


「東京に残ってくれないか、この前も言ったが僕の前から消えないで欲しい、デートしてドライブや旅行に行きたい。そうだ、デートしよう。二人っきりで出かけたことがない」

「あれっ? あります、いつも送ってくれました。モーテルも行きました。あれはデートじゃないんですか?」

「いや、それは送って行って、どうしても君を見たくてそんな所へ寄っただけだ、忘れて欲しい。どこか行きたい所はないか?」

「えーっと、霧雨に濡れながら肩を寄せて、横浜の港や鎌倉の小径を歩きたいです」

「ラブロマンスのヒロインになりたいのか? それなら北海道に行かないか?」

「えーっ、そんなに遠くだと……」

 舞美は眼を伏せて俯いた。泊りはまだ無理か、じゃあ鎌倉にするか。

「今度の日曜日は鎌倉に行こう、デートだ」


 日曜日、二人は鎌倉を散策した。霧雨とは無縁の憎らしいほどの秋晴れだが、美しい紅葉の長谷寺で、「鎌倉の西方浄土」と評判の庭園に眼を奪われ、うっとりと眺めた。ときどき見つめ合うだけのデートが士郎には懐かしく思えた。

 あの切通へ連れて行こう。あそこには大きな祠がある、キスするには絶好な場所だ。横浜や鎌倉の隅々まで知り尽くしている士郎は、舞美を引っ張って化粧坂(けわいざか)切通に向かった。鎌倉には敵の侵入を防ぐために7カ所の切通があり、化粧坂切通は武蔵方面から鎌倉に攻め入ろうとした新田義貞軍の主力が、死闘を繰り広げた激戦地だ。


 紅葉した落葉がはらはらと散り舞う小道で、急に舞美の手は小刻みに震え始めた。

「どうした? 寒いのか」

「いえ、何でもありません。たくさんの人が私に何か言ってますが、わかりません。怖いです、走りましょう」

 見通しが利く場所まで走り抜け、ふーっと空を見上げてやっと落ち着いたようだが、この子は何かを感じるのか?

「君は幽霊とか、そんなものが見えるのか?」

「いいえ、見えませんがヘンな所へ行くと気持ちが悪くなります。あそこはヘンです。ごめんなさい、せっかく連れて来てもらったのに」


 それから由比ヶ浜で遊んだが、舞美に変わった様子はなかった。強引にホテルに入る決心がつかず、送っていく車内で、

「だんだん舞美を好きになっていると言ったが、本当に好きになった。僕だけの人になってくれないか」

「私は士郎さんを好きになりました。でも、わかりません」

「わからないとは何だ?」

「自分がわかりません、不安です。母を待ってると言いましたが、待っていない自分がいます。何かに夢中になっていないと、辛いことや怖いことに押しつぶされそうです。自分がわからないんです。自分がわからないまま士郎さんに愛されたら、士郎さんを不幸にしそうな気がします」

 士郎は何か気の利いた言葉をかけようと思ったが、この子が抱えている哀しみや苦しみを思うと、言葉は砕け去った。

「力になりたいが、僕に何か出来ることはないか?」

「はい、士郎さんの時間が空いたときにデートしてください」

「そんなことでいいのか?」

 泣きべそ顔の舞美があまりにも愛おしくて、抱きしめた。早く、忌まわしい記憶から抜け出せ! 君の人生は始まったばかりだ! 狂おしいほどのキスしても舞美の心がどこにあるのか士郎にはわからなかった。

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