2章 20年前に会った?
2章 episode 1 大学生活はスリリング
◆ 出会いは20年前? 平凡な大学生活が始まったと思ったが……
入学式から3週間過ぎた頃、舞美は2時限目の『経済学原論』を受講したが、メガネを忘れたのに気づき講義室へ戻った。教卓に散らばったプリントや書物を片付け中の青木助教授が「藤井くん、探し物はこれか?」、赤いメガネケースを指差した。
「藤井くんの自己紹介書を見た。懐かしく思い出したよ。僕は高校生のとき藤井くんの家の前を自転車で通学していた。道に面して大きな柿の木がある家だろう? 藤井くんは次の授業が迫ってるか?」
「いいえ、午後は4時限からです」
「じゃあ昼飯に付き合ってくれるか?」
「はい、今の話は本当ですか。話していただけますか」
青木助教授は正門の斜め向かいの『高田牧舎』に連れて行き、ランチセットを2つオーダーした。
「僕は高校生で、藤井くんは赤ちゃんだった。自己紹介書によると君とは高校も同じだ、僕の後輩だな。あの赤ちゃんが今は僕の生徒とは驚いたよ。もっとも僕は君より15歳は年上だから、不思議ではないが懐かしく思ったからランチに誘った」
「家の前を通り抜けるって? 青木先生はどこにお住いだったのですか?」
「君の家から100mくらい離れた官舎だ。君にミルクを飲ませたこともある」
「へえーっ、そんなことがあったのですか、恥ずかしいです」
「あれは急に大粒の雨が降り出した午後だった。お母さんは君を縁側に置き去りにして、大慌てで洗濯物を取り込んでいるときに僕は通りかかった。君はハイハイして縁側から転げ落ちそうだったから、駆け込んで君を抱えた。見知らぬ僕に抱かれて驚いた君は泣き出した。それで、転がっていたミルクを飲ませたら泣き止んでくれたよ。お礼に柿をたくさんもらった」
「えーっ、知らなくてすみません、お世話かけました」
「はははっ、知らないはずだ、君は赤ちゃんだった。赤ちゃんを抱いたのは初めてだったが、ミルクの匂いがしてマシュマロみたいにポヨポヨした生き物だった。あのポヨポヨがこんなになったのか、まさに光陰矢の如しだ」
青木は赤ん坊の舞美の女性器を見たことがあった。
オムツを替えている途中で電話が鳴ったのだろうか、母親は奥の和室に走って行った。赤ん坊はオムツを外されて気持ちいいのか、両足を自由に動かせてご機嫌だった。
突然荒れ狂う制御不能の思春期の衝動と女のあそこへの興味に勝てず、俺は人目を気にしながら、閉じられた真っ白い二枚貝をそっと開いて触ってみた。赤ん坊はキャッキャッと笑った。俺は慌てて、この小さな肉体を抱いてブランコのように揺らし続けたら、腕の中の生命体はスヤスヤと気持ちよさそうに眠ってしまった。
目の前の生徒があの赤ん坊か、不思議な再会に青木は驚いた。
「あの~ 先生、失礼ですがお子さんは?」
「残念だが存在しない。愛する人も守るべき家族も持たない」
「ごめんなさい。今の質問を許してください」
「君は入学したばかりの学生で僕の生徒だ。気遣いは無用だ。あっ、こんな時間か、次の講義だ。悪かった」
「先生、割り勘にしてください」
「旨い柿をもらったお礼だ。今日は僕に払わせてくれ。じゃあ、次の授業を頑張ってくれ」
青木は講義に戻って行った。
2章 episode 2 初心者は感じない
◆ えっ、ホント? 常識を否定した市村。
舞美の生活ぶりを心配して電話した母に、
「ママ、覚えてる? 私が赤ちゃんのときなんだけど、通りかかった高校生が縁側から落ちそうだった私を助けてくれたことってある?」
「その高校生はよく覚えてるわ。しっかりした子だったけど、それから半年かなあ、お父さんが何だか汚職事件で新聞に載ったのよ。それから見なくなった気がするけど、それがどうかしたの?」
「あのね、その人はうちの大学で経済学を教えている青木助教授なの。私の自己紹介書を見て懐しく思い出したんだって、ランチまでご馳走になったのよ。庭の柿の木を覚えていた」
「まあ、そうなの。立派になられたのね、嬉しいわ。とっても可愛がってくれて、バイバイや言葉を教えてくれたの。あれから20年近くなるのね。青木? そんな名前だったかなあ? 先生はお子さんは?」
「ううん、いないみたい」
もうすぐゴールデンウィークだ。
帰りたいような、帰るのが面倒くさいような、はっきりしない気持ちのまま決めかねていた。帰省したと知ったらリュウが訪ねて来るだろう。リュウに抱かれるのも悪くないけど、市村に抱かれたい気持ちもあった。どうしたんだろう? 市村の沈黙は不気味だったが、どこかに会いたい気持ちが残っていた。
帰宅途中の下り坂で後ろから誰かに腕を掴まれた。薄暗くて誰だかわからず見上げたら、
「えっ、大輔!」
「そんなに驚くなよ。また会おう、楽しみだと言っただろう。その驚きようでは隠し事がありそうだな。ついて来い。キミの部屋は男はアウトらしいから、俺んとこに行こう。
「いやよ、帰る」
「そうか、これでもか」
市村はスカートの上から秘部を触ったままタクシーを拾って、
「本郷三丁目に行ってくれ」
「ここだ、俺の部屋だ。遠慮なく入れ。怖いことなんてないだろう」
「帰りたい、やっぱり帰る」
「ちょっと待て、キミから合格祝いをもらってない。合格させてやったお礼もまだだ。帰るのはそれからにしてもらおう」
「何よ、脅かすの、そんな約束なんてしてない! 大きな声だすわよ!」
騒がれないように口を塞ぎ、舞美をベッドに放り投げて重なった。
「ああ、舞美の甘酸っぱい、懐かしい匂いだ。しばらくぶりだな、俺に抱かれて嬉しいだろう? ほら体がそう言ってる。どうだった、南条は良かったか?」
「知らない、帰る!」
「そうか、これでも帰るか」
むしゃぶりついて離さない。
そのうち舞美はなぜか体の芯が熱くなり、市村が吸いこむタイミングに合わせて腰が勝手に揺れていた。
「そんなに声を出して騒ぐなよ、隣が驚く。南条に抱かれろと言ったのは、大人と子供の違いを教えたかっただけだ。どうだった童貞くんは? 気持ち良くなれたか? 物足りなかったか?」
「よけいなお世話よ」
「ひとつ賢くしてやろう。男は女の乳首にキスして体を触ったりするが、その行為は男を発火点に近づけているだけだ。そんなことで女は感じない、燃えない。正しくは、あそこを中心に10分以上刺激されないと女は最高潮にならない。これは医学的に証明されている。よがり声を出すのは大半がジェスチャーだ。早く挿れて終わりにしましょうってことだが、バカな男は相手も感じていると思い込んでしまう。それは間違った常識だ」
「ふーん、本当なの?」
「真実だ。舞美は初心者だから膣では感じられない。なぜだかわかるか? クリトリスには快感を感じる神経細胞が8,000以上集まっていて、外部から刺激を受けると興奮する仕組みになっているが、膣には感じる細胞が少ない。だが上級者になると、Sexの刺激で膣内の血流が増大して収縮が生じ、とても感じるそうだ。俺はそんな女をまだ抱いたことはない。南条は舞美に夢中になったか? 俺はバージン崇拝主義じゃないから、可愛い舞美に経験して欲しかっただけだ。俺の賢い生徒さん、また会おう」
2章 episode 3 忌まわしい過去
◆ 急な雨、青木に16年前の記憶がよみがえった。
舞美はゴールデンウィークに帰省しなかった。
一人で浅草や銀座に出かけ、翌日は原宿と渋谷に行って、新宿の雑踏に紛れ込む、そんな一人遊びが新鮮で楽しかった。親の干渉がない日常が、やっと手に入れた魔法の時間に思えて嬉しかった。今日の午後は神田の古本屋街で遊ぼう、素敵な男性との出会いはないかな? ちょっぴり期待した。
古書店を出ようとすると雨が降っていた。あれっ? 雨なのに虹! 交差点のビルの向こうに貧弱な虹が見えた。東京の虹って薄っぺらで小さいなと思ったとき、軒先で雨宿りしていた舞美に傘を差しかけた男がいた。
「こっちは雨だが向こうは虹だ。藤井くんは本好きなのか? 何か書籍を捜しているのか?」
「ああ、びっくりしました。先生も本を捜して?」
「そうだ。君は帰省しなかったのか? 親不孝な娘だな。どんな講座を受講しているか知らないが、法学だとしたら法律の解釈本より、その法律が制定された理由や経緯、社会情勢が示されている書物を選んだらいいよ」
「先生の経済学もそうですか?」
「経済学は法学以上に変化と変動が激しい分野だ。世界的規模の経済危機が発生すると、教科書なんて何の役にも立たない。だが、僕の講座の参考書は必要ない。時間を作って教えてあげるよ」
古書店巡りが面白く、気づいたときはすっかり夕闇に包まれていた。青木は有名な喫茶店『さぼうる』に舞美を連れて行った。
「わっ、すごくいい香りがします! 美味しいです」
「そうだろう。マシンが作る珈琲じゃなくて、人の心で淹れている珈琲だから旨い。ああ、また雨だ、すごい降りだな。さっきの虹はなんだったのか、まったく最近の空模様は油断できないな。大学まで地下鉄で戻ろう。それからは車で送ってあげる、そうしよう」
地下鉄を降りたら大粒の雨だった。青木の傘に入って大学への緩い坂道を歩いた。
「それでは濡れるだろう、遠慮しないで入りなさい」
舞美の左肩を抱き寄せて傘に入れた。えっ! 見上げた舞美に青木は微笑んだ。肩を抱かれたまま、大学近くの駐車場に停めた車の前で、
「乗りなさい。心配しなくてもいい、送り狼は僕の性分ではないから安心しなさい」
「はい。すみません」
青木は助手席に積まれた書籍を片づけて、スペースを確保した。
「先生は車の中でいつも本をお読みなんですか? すごい量ですね」
「理由もなく急に遠出したくなるときがある。浜辺で星を見ながら眠ることもある。だから、いつでも出発できるように、未読の本を車に積んでいる。気にしないでくれ」
舞美は何を話せばいいのか、降りしきる雨を見つめて黙っていた。車中には気まずい空白が漂った。
青木は、あの赤ん坊との信じられない再会と家族の不幸を、どうしてもオーバーラップしてしまう自分がやるせなかった。目の前の娘には何ひとつ罪はない。この子と出会って間もなく父は自ら命を絶った。今まで散々見せつけられた霞が関の構図だ。
だが、幸せに包まれている赤ん坊と冤罪を抱えた家長を亡くした自分を比較したことがあった。そんなことを考えてはいけない、まったく無関係だ。よくわかっていたが、そのときは幸せそうに見える人間全てが腹立たしく、殺してしまいたい衝動に駆られていた。
しばらく走って女子寮に着いた。傘を掲げてガードする青木をロビーに招き入れて、
「先生、ありがとうございました。女子寮なので男性はここまでです。ここで失礼させてください、ごめんなさい」
「ご両親はよほど藤井くんを心配されているか、信用してないかどっちだ? ここは恋人でも部屋に入れないのか」
「はい、そうらしいです。恋人はいませんから関係ありません」
「君は大学生活が始まったばかりだが、卒業まで4年もある。恋人の一人や二人出来るのが普通だ。親から離れられた自由な時間が今は楽しくってしょうがないのだろう?」
返事に困った舞美の前で小さく笑って、エントランスのドアの外へ消えて行った。車に乗り込む青木を追いかけて、
「せんせーぃ、ありがとう!」
大声の舞美に、右手を上げて走り去った。
2章 episode 4 青木の急接近
◆ あれは男子トイレ? ああ、恥ずかしい!
「藤井くん、ちょっと待ってくれ。ついて来てくれ」
青木は舞美を呼び止めて、14号館の出口に急いだ。
「さっき、君がそこのトイレから出て来たのを見たが、あそこは男子トイレだよ。知らなかったのか」
「えっ? うそっ、ああ!」
舞美は真っ赤になった。確かに男子トイレの青いプレートが見えた。入試のときにそのトイレを使って、それから疑わずに出入りしていた。
「あの~ うちの大学って男子が多いから、トイレで男子に会っても気にしませんでした。すみません」
青木は爆笑して、
「男子トイレに堂々と入って来る女子がいるってウワサは知ってたが、君だったのか。なぜ、気づかない? アレを見られそうで入りにくい、落ち着かないと苦情があった。君はヘンタイ女子に思われてるぞ」
「ど近眼なのに受講中以外は見栄はってメガネしてないから、よく見えないんです。そして、小さいことをあんまり気にしないタチなんです。恥ずかしいです、気をつけます。コンタクトにします」
「面白い子だなあ。神経質に見えるがそうではないらしい、呆れたよ。まさか君がウワサのヘンタイ女子とはね。実に愉快だ。夕飯まだだろう、連れて行きたい店がある、小さな食堂だが実に旨い。いつも学生でいっぱいの店だ」
『フクちゃん食堂』に連れて行き、カウンター席に座って、
「おばさん、この子は僕と同郷の新入生だ。ホームシックにならないよう旨いもの食べさせてくれ」
「はいよ、あたしは息吹おろしのど真ん中で育ったんだよ。次は具沢山のきしめんを作ってやるから寄んなさい。先生は鯖の味噌煮定食でいいかい? 肉ジャガとマカロニサラダ付きだよ。学生さんは嫌いな物、食べられない物はあるかい?」
「大丈夫です。先生と同じものでご飯は少なめでお願いします」
「あんた、女だってご飯はしっかり食べなきゃダメだよ。病気して親に心配かけるんじゃないよ」
おばさんが運んで来た鯖の味噌煮定食は、ご飯が丼に山盛りだった。眼を丸くした舞美に、青木は自分の丼に1/3ほど移して笑った。
「先生、家で食べてるみたいです、美味しいです。家に帰りたくなりました」
「そうだろう。お袋の味だ。コンビニ弁当やハンバーガーだけでは体に悪い。しっかり食べたいときはこの店に来なさい。煮込みハンバーグも旨い」
青木は、後のテーブル席の男子学生たちに向かって、
「ヘンタイ女子とはこの子のことか? 僕が注意したが、男子トイレとまったく気づいてなかった、そんな子だ。ノゾキ趣味はないと言っている。ど近眼で周りが見えないまま進む子だ。許して欲しい。君たち、これからは安心してゆっくりやってくれ。みんなにも言って安心させて欲しい」
えーっ、さっきの話はこの店で話題になってたのか、きゃー、恥ずかしいと俯いたら、店中に笑い声が爆裂した。おばさんが大声で笑ってエブロンで笑い涙を拭いていた。
青木は舞美を送り届ける途中で車をコンビニの駐車場に停めて、舞美を試した。この娘の経験値を知りたくなった。
「藤井くん、親元を離れて独りで淋しくないか? 僕を見てごらん」
舞美の顎を抑えてキスしようとしたが、舞美は拒否して顔を反らした。
車中には「鯖の味噌煮定食」の匂いが充満して、舞美はキスする気分ではなかった。キスするならもっとロマンチックにしてください。先生は女子の気持ちがわからないのかな、そう思った。
「先生、ごめんなさい。私はキスするほど先生が好きではありません、先生を知りません」
「そうか、謝るのは僕だ、悪かった。つい懐かしい思い出と重ねてしまった。勝手だが忘れて欲しい」
バツが悪い表情で車を走らせながら、この子はキスを拒絶したが取り乱してはいなかった。震えてもいない。なぜだ? 今日のところ経験値は不明だが、あの真っ白い二枚貝の記憶が瞼に鮮明に蘇り、青木は下半身に翻弄されそうになったが踏み止まり、舞美を送り届けた。
2章 episode 5 絶望の市村
◆ 頼む、どうかしちまった俺を朝まで抱いてくれ……
ロビーに市村が所在なさげに座って、舞美を待っていた。
「お帰り。今の車は誰だ? お持ち帰りかと思ったが、ここじゃ無理だな。誰だ?」
「誰だっていいでしょ、受講してる講座の青木先生よ。何か用なの? 早く言ってよ。私、不機嫌なんだから」
「そんなこと言うな、話がある、出よう」
市村と関わりたくなかったが、珍しく沈んだ表情が気になって外へ出た。児童公園の前に来たとき、
「おい、ブランコに乗れよ。押してやるからさ」
「どうしたの、ヘンなの、話って何?」
ブランコを押す市村の両眼から涙が溢れていた。恋人に振られても泣くような男じゃないのに、どうしたのだろうか?
「母ちゃんが死んだ。ドアの前で倒れているのを隣の部屋の人が気づいてくれたが、俺が病院に着いたら死んでいた。母ちゃんは働きづめで脳内出血だった。俺は国家公務員上級に合格するために阪大から東大に鞍替えしたんだ。母ちゃんに楽させたかったんだ。虚しい悪あがきで終わってしまった」
舞美は肩を震わせて泣く市村を抱きしめた。小さなお母さんのように、背伸びして涙を拭いてやった。心の中なんて一度も見せたことがない市村が泣いている。家族の話は聞いたことがなかったし、興味もなかった。
「舞美、頼む。どうかしちまった俺を朝まで抱いてくれないか。迷惑だとわかっているがお願いだ。俺はすべてを無くした。東大に入ったのは母ちゃんを楽させる近道と思っていたんだ。お願いだ、抱いてくれ」
タクシーで市村のアパートに行き、もつれるように部屋に滑り込んだ。市村は床に転がって、泣きながら舞美の秘部に食らいついて離そうとしなかった。
「幾人もの女を抱いたが、舞美の匂いがいちばん好きだ。今日だけは甘えさせてくれ」
母を思い出しているのか泣いていた。いつまでも遊んでいた。
舞美に甘えながら、市村は母親を思い出していた。
県立トップ校に合格するために俺は中学1年から有名な進学塾に入れられて、週末はいつも模試に追いかけられた。ある日、風邪気味で塾を早退してアパートに戻ったとき、通路に面した窓の隙間から香ばしいコーヒーの匂いが漏れ漂っていた。そっとドアを開けたら男物の靴が見えた。俺は慌てて外へ出てアパートを見ていた。男を見送る母ちゃんは少女のように頬を染めていた。男が壱万円札を母ちゃんに握らせたのをはっきり見た。
なんだ、そういうことか! 淋しかった。俺は父親の顔を知らない。1片の写真さえなく、親父が何をしてどんな人間だったか、知りたいことは山ほどあるが、訊いてはいけないと胸にしまった。母ちゃんは間もなく40歳になる。いつまでも男から金をもらえる歳ではなくなる。俺は塾に頼らず自分で勉強して合格しよう。そう決心した夕暮れを思い出した。
舞美、ごめんな、甘えてしまった。俺はお前に嫉妬している。上場企業に勤める父親と専業主婦の母親、勉強部屋を与えられ、何不自由なく育ったお前が羨ましかった。お前を弄んで蹂躙したかった。南条だってそうだ。ヤツは俺と同じ母子家庭だが母親が女医だ。生活レベルは俺とは比較にならない。
塾の月謝のために母親が男に抱かれるなんて、お前らは信じられるか? お前らが憎らしかった。何も考えず何ひとつ苦労せずに安穏と生きている人間に腹を立てた。人生のスタート地点でどうしようもない格差があることが恨めしかった。
ものすごく暑い夏の午後だった。俺は静かに鍵を開けて部屋に入った。今日は男の靴はなかった。スリップだけの母ちゃんは股を開いたまま眠っていた。俺はそっと近づいて、母ちゃんの股を見た。そのとき、表現できない奇妙な匂いを感じた。精液と混じった何かが匂っていた。母ちゃん、こんなことはやめてくれ! 俺、勉強するよ、いい大学に入って母ちゃんに幸せになってもらうよ! 俺は部屋を出て街をほっつき歩いた。確か中学3年生の夏だった。
2章 episode 6 舞美のアイデア
◆ 東大生が教える勉強会で、生活資金を稼ぐ妙案。
夜が明けた。舞美は裸のまま抱かれて俺に訊いた。
「大輔はこれからどうするの? 仕送りがなくなるんでしょ。どうやって暮らすの?」
「俺さ、大学なんてどうでもいい。東大に入って喜んでくれた母ちゃんはいないし、どうでもいいや!」
「何言ってるの、ダメよ、そんな弱気じゃ。死んだお母さんが可哀想じゃないの。大輔を立派にしたいって、その気持ちを無視する気? 仕送りで暮らしてたんでしょ? バイトは? お金あるの?」
「うん、少しはある。母ちゃんの貯金と、アパートを引き払って家財道具を売り払った金だ。母ちゃんは俺の4年間の学費を茶箪笥の引き出しにしまってた。封筒には『東京大学 年間授業料』と書いてあった。どれほど苦労してこの金を工面したのかと思うと、阪大に通わずに1年浪人して遊ばせてもらった親不孝の俺が情けなかった。舞美、悪かった。こんな話をするつもりはなかった。明日からバイトを探すよ」
市村の話をじっと聴いていた舞美にひとつの妙案が浮かんだ。
「私、ひらめいた!! ねえ、本当に大輔は東大生なの? 学生証を見せてよ、見たことないもん」
手渡された学生証は正真正銘、東大文1類の市村大輔だった。
「善は急げよ、いいかな? 私のアイデアを言うわ。大輔は週に2回、あの女子寮のラウンジで高校生に勉強を教えるの。月謝はいくらにしようかな。寮には30人くらい高校生がいてその子たちは、親が海外赴任中か東京の私立高校に通う地方出身者なの。そして、家庭教師を付けたくても寮は男子禁止で、家庭教師の家に行かせるのは不安でたまらない。だけど有名大学に入れたい、親はそう考えているはずよ」
「何言ってんだ、お前の話は突拍子もない! どうして俺が? うーん、そうか、バイトか。東大生をウリにした効率いいバイトか。そんなに上手くことが運ぶか?」
「私に任せて。ただし、商品に手をつけないでよ。その子たちとのエッチは厳禁! 絶対よ! 女の子はおしゃべりよ、親にバレたら叩き出されるか、未成年者ナントカで警察だわ。ヤキモチで言ってるんじゃないのよ、これだけは守ってちょうだい。清潔で爽やかで優しい東大のお兄さんでいてね」
「俺は何をやればいい?」
「今日の午後7時過ぎにロビーで私を呼び出して。あっ、それから服は白のシャツに下は黒にして。あまりしゃべらないでね。怖い寮長に根回しするから。あっ、時間だわ、じゃあね」
舞美はバックからエルメスのスカーフを取り出して肩に掛け、出て行った。
子供だと思っていた舞美にお膳立てしてもらい、愉快なようで情けなかった。アイツは朝帰りをカモフラージュするためにスカーフを使った。けっこう油断できない女かも知れない。市村は一人ごちた。
午後7時30分、女子寮のロビーで寮長と面会した。
「藤井さん、どうしました」
「寮長先生お願いがあります。週2回ラウンジで2時間ほど勉強会をしたいのですが、お許し願えませんか」
「どういうことですか? そしてお隣の男性はどなたです?」
「はい、バカな私を特訓して大学生にしてくれた高校の先輩の市村さんです、家庭教師だったんです。寮長先生、聞いてください。先輩は母子家庭でお母さんから育てられました。でも、東大に入ったのにお母さんが働き過ぎて、1カ月前に突然亡くなられたんです。先輩は仕送りで暮らしていたので、大学を続けることが出来ません。お願いです。寮長先生のお力をお貸しください。生徒さんを募って少し月謝をいただき、ラウンジを借りて勉強会をしたいのです。それが可能であれば先輩は大学を辞めないで済むかも知れません。お願いします」
「話はわかりましたが、私の一存では決められません。寮の運営会社や管理会社に相談してからです。その際に何らかの条件が出ることもあるでしょう。まず、市村さん、学生証を見せてもらえますか」
寮長は市村の憔悴した顔をまじまじと眺め、北海道大学に進学させた一人息子を思い浮かべた。彼女は社員寮の賄い婦や管理人を務めながら息子を育て上げた。市村と同じ母子だけの境遇だった。市村の亡くなった母親の気持ちは痛いほどわかって辛かった。そのことを舞美は母から聞いていたからこそ、この計画を思いついた。
「市村さん、私の力は微々たるものだからあまり当てにしないでね。この書類に連絡先や希望要件を書いてください」
市村は俯いてしょんぼりしたまま、書類に記述した。いつものなぐり書きではなく、印刷と見間違える几帳面な文字が並んでいた。いったん奥に消えた寮長は、湯気が立った味噌汁と大きなおにぎりを差し出して、
「こんなときこそしっかり食べるのよ。お母さんの気持ちを忘れちゃダメよ!」
市村は上を向いて涙を我慢していたが、堪えきれずに大粒の涙を流しながら、おにぎりを頬張った。寮長は母親目線で市村を見つめていた。これで決まったなと舞美は思った。
2章 episode 7 魅かれる青木
◆ なぜか青木先生と会うといつも雨が降る。
翌日、許可が下りればいつでも行動開始できるように、舞美は正門通りのコピーショップで、受講生募集のチラシを100枚コピーした。寮内にいっぱい貼ろう。参加したい子は親に相談するだろう、そのためのコピーも必要だった。見出しは『現役東大生が教える、必勝受験講座』だった。
午後の講義で通りかかった青木と鉢合わせした。舞美が抱えたチラシをチラッと見て驚いた。
「藤井くんは何してるのか? これは何だ、塾でも開くのか?」
この前は俺のキスを拒否して、この娘は何してるんだ? 青木は不思議に思った。簡単に事情を説明されて、
「君がそんなに心配している東大生は恋人か?」
「いいえ、市村先輩は家庭教師だった人です。私が好きな人はまだ高校生です。後輩です」
ああ、そうか。今の高校生ならキスぐらいするだろう。その高校生とキスの経験があるのか、だから驚かなかったのかと納得した。相手は高校生の坊やか、なぜかほっとした。
チラシを抱えた舞美と肩を並べて歩きながら、お嬢さまとばかり思っていたこの子にそんな才覚があるのかと驚きながら、知らず知らずに魅かれる自分に戸惑った。
「あれっ? また雨です。先生と会うといつも雨なんですね」
「急ごう、大降りになりそうだ。走ろう」
青木は腕を掴み、カバンで舞美の頭を庇いながら大学へ滑り込んだ。「あっ、虹だぁ!」、西の空に小さく頼りない虹が架かっていた。二人は顔を見合わせて笑った。
母に市村が困っていることを伝えたら涙声になって、
「寮長さんに手紙を書こうかしら。市村さんは東大に入れたのに続けられないなんて可哀想、パパに言うわ。あの女子寮はパパの会社の子会社がやってるのよ。きっと力になれると思う。息子さんが立派になる前に亡くなられたなんて悲しい話だわ」
2週間ほど待たされたが、『現役東大生が教える、必勝受験講座』は許可された。寮の目立つ場所にチラシを貼り、ラウンジにも置かせてもらった。すぐ生徒は集まった。学力を知るためにテストをしたかったが、先着順受付にすると10名の受講希望者がいた。10名を火曜日と木曜日に分けて教え、ラウンジの使用料金は1カ月5,000円に決まった。9月から開始だ。
夏休み直前のある日、14号館で青木とすれ違った。
「藤井くん、あのトイレはもう使ってないか?」
「当たり前です。男子トイレは止めました。失礼します」
「ちょっと待ってくれ、休みは家に帰るのか?」
「そうです、親が待ってます」
「次の日曜日は時間あるか?」
「いいえ、上野や博物館で一人遊びします。先生、国会図書館ってどんなとこですか? 行ってみたいなあ」
「国会図書館は登録しないと入れないはずだよ。あそこは冷やかしに行く場所ではなく、何を知りたいか調べたいかを決めてからいく所だ。連れて行ってもいいが、一人遊びって何だ?」
「ふーん、調べものか、だったらいいです。一人遊びって一人でウロチョロして楽しむことです。一人が好きなんです。気を使うこともないし」
「僕がついて行ったら邪魔か?」
「うーん、一人で行くつもりでしたが、背後霊みたいに後ろにいても私の気ままを許してくれるなら、デートしましょう!」
「へぇー、デートかい、僕でいいのか、迎えに行こうか?」
「先生はいっつも車なんだから、まったくしょうがない人! 電車にしましょう。待ち合わせは上野公園改札口を出たとこで9:30にしませんか。先生、気が変わったら来ないでください。ちっともかまいません。あっ、それから背広はイヤです。フツーの服でね」
日曜日、曇空から時おり薄日が差すだけの蒸し暑い日だった。
藤井は濃紺のTシャツに白のパンツで足元はピンクのコンバースを履き、ガイドブックを熱心に見ていた。生意気なことを言うが小柄で化粧気がないせいか、大学生にはまるで見えない、中学生のようだ。俺も無地のTシャツにGパンでサングラスをかけていた。博物館を見学し、ランチを食べ、午後は不忍の池でボートに乗った。久しぶりにデートした気分でハイになった自分に驚いた。
2章 episode 8 青木と初デート
◆ 何だかわからないが舞美が倒れた。
あちこち見学した後で「先生、フランクフルト買ってぇ」、「ソフトクリーム、おごってください」と、ねだられて木陰のベンチに座った。
「ホントに暑いです、ああ暑い! たくさん歩いていっぱい食べたら眠くなりました。少し寝ます。いいでしょ」
藤井は青木の膝を枕にして本当に眠ってしまった。
気持ち良さそうにスースー眠っているこの子はいったい何だ? 寝顔を見ながら思った。そうだ! 俺を男として見てないからだ。教えてくれる先生か、甘えられる父親に近い存在か? そうかも知れない。
俺が高校生のとき赤ん坊だった距離は埋められないのか? 安心して眠っている藤井に呆れながらも可愛いと思った。俺はこの子を見守るしかないのか、少し淋しい気がした。
子供の顔で眠っている藤井に見とれた。こんな天真爛漫の表情で眠れるのが羨ましかった。遠くで雷が鳴って、目を覚まして驚いた顔をしたが、すぐ俺の首に手を回してプチュとキスした。驚いたのは俺だ。キスにはさっきのソフトクリームの味がした。
「先生、キスしようとしたでしょう? この前はごめんなさい。これでいいですか」
俺は笑った。この不思議な子に返す言葉はなかった。
「先生、手を繋いでいいですか?」
「僕でいいのか、恋人じゃないけど」
「いいです。手を繋ぐとすごく気持ちが落ち着きます、恋人じゃなくってもね。あっ、雨になりそうです。先生と会うといつも雨が降っちゃう。いつもそうなんですか?」
家族連れが空を気にして退散した夕暮れに近い時間に、池の周りにいたのは俺たちだけだった。この子が眠ったから仕方ないが、ずぶ濡れになる覚悟をした。
「おい、最悪の場合はびしょ濡れだぞ、走ろう、途中に売店があったら飛び込もう」
見つけた売店に二人は走り込み、傘を買おうとしたが売り切れていた。雨宿りさせてくれと頼んだが、売店は5時に閉店ですと告げられ、仕方なく床に敷くビニールシートを2枚買って雨の中を走った。
「大丈夫か?」と藤井を見たら、髪から雨が眼に溢れ落ちて泣いていた。こんな薄いシートでは雨は凌げない。大木の陰で2枚のシートを重ねて二人で入った。辺りが金色に眩しく輝き、すぐ近くに落雷が走った。
「とっても寒いです」と舞美は言った。不安になって引き寄せたら冷えきった体が震えていた。額に手を当てると熱かった。
「走れるか!」と訊いたら首を振った。俺は抱きしめてなぜかキスしていた。それも永い時間。藤井は腕の中で気を失った。抱き上げて車を拾える大通りに出たが、近くに落雷したのだろうか、真夏の6時だというのに上野の街は真っ暗だった。
やっと車を拾って女子寮に送り届けたが心配だった。このまま知らんぷりは出来ない。藤井を横抱きにしたまま責任者に連絡する内線番号をプッシュして待った。
「まあ! 藤井さん、どうしたのです!」
びっくりした表情で寮長という人が対応に出てきた。青木は大学の身分証を見せて名刺を渡した後に、
「書店で入手できない文献が必要で、教え子の藤井さんを伴って博物館や図書館に行きました。帰ろうとしたら夕立に遭ってびしょ濡れになって、それで風邪を引いたのかも知れません。病院に連れていけばいいのならそうしますが、寮の提携医療機関はないのですか、教えてくだされば運びます。どこなんです? どこへ運べばいいのですか!」
提携医院は休診で応答がなかった。ご両親に連絡しましょうかと慌てた寮長に、
「少し待ってください。知り合いに医者がいます。大学病院の勤務医なので家にかければ連絡が取れると思います。電話をお借りします」
電話はすぐ繋がった。手短かに説明すると、
「そこには20分で行けるが、診療には差し支えないが少々酒を飲んでしまったから女房に運転させる。ところで患者は何歳だ? 体重は?」
「はあ? まあ19歳くらいだろう。うーん、体重は」
傍で聞いていた寮長が受話器をひったくって、
「名前は藤井舞美。舞扇の舞に美しいと書きます。19歳と3カ月、155センチ、42キロ。食物・薬物のアネルギーおよび持病はなし。早稲田大学法学部在籍、名古屋市旭丘高校出身、保険証あり、明朗快活、行動力抜群」
「ああ、よくわかった、ありがとう。青木、待ってろ」
2章 episode 9 不安の扉が開かれた
◆ 人の世の怖さを知らないから綺麗なのか。
青木は藤井を部屋に運び、エントランスで谷川を待っていた。
叩きつける雨の中、礼子が運転する車で谷川は到着した。青木は礼子と6年ぶりに会った。
礼子は中年太りなのか、想像できないほどボテボテになっていた。この女と1年ほど半同棲したが、紹介した谷川にあっさり乗り換えられ、俺は捨てられた。男を値踏みして、大学助手の俺よりも研修医だった谷川を選んだ。聞いたこともない短大を出て小さな会社の事務に就いていたが、頑固で気が強い女だった。谷川と結婚すると知ったとき、俺は全てを忘れるから幸せになれよと別れたことを、思い出した。
谷川を連れて部屋に戻ったが、藤井はパジャマ姿でぼんやりとベッドに横になっていた。
「藤井くん、心配しなくていい。僕の名は谷川だ、よろしく。青木と高校の同級生で君の先輩になるらしい。どうした? いつから体調が悪かったのか思い出してごらん?」
体温と血圧を測って聴診器に耳を澄まし、谷川は舞美に優しく語りかけた。
「そうか、昨日から体が重かったんだね。診察するから楽にして。痛かったら痛いと言うんだよ。礼子、患者さんのパジャマのズボンを下げてくれ。青木は横を向いてろ」
胸から腹部にかけて触診し、横を向かせて背中から腰に至るまで指と掌で押して、炎症の有無を確かめた。
「念のために採血するよ。怖がらなくていい。ちょっと痛いだけだからね、我慢しょうね。女の子で早稲田とはよく頑張ったね! エライ! 次は熱を下げる注射で、これで終わりだ。まあまあ痛いが、あっという間だ。頑張れ、旭丘の後輩くん」
藤井の頭を撫で子供を諭すように言い聞かせて、下着を引き下ろして尻に注射した。藤井はピクンと動き、谷川は注射の跡を抑えていた。
「寮長さん、藤井くんの熱は朝には引くでしょう。今夜はぐっすり寝かしましょう。親元を離れたストレスや疲れとホームシックでしょう。目に見えるものではないので本人も気づきませんが、入学して3カ月で胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患うケースもあります。炎症反応はないので潰瘍の心配はありません。名古屋の親御さんへの連絡は必要ありません。青木、今夜は付き添ってやれ」
「谷川先生、ここは男子厳禁なんですが」と寮長が不安がった。
「はははっ、病気の場合は特別でしょう。それに青木は助教授でその辺のチンピラ学生とは違います。分別ある大人です、信じてやってください」
谷川は寮長に名刺を置いて帰って行った。
「私が付き添っても構いませんか? 体調が悪いのに気づかず、1日中藤井くんを引っ張り回しました。申し訳ありませんでした」
「そうですね、本来は男性の入室は厳禁ですが、大学の助教授さんだから信頼しましょう。お願い出来ますか。私は朝8時には出勤します。先生は奥様に電話しなくても大丈夫ですか? 下の電話を遠慮なく使ってください」
「すみません。後でお借りするかも知れません」と告げ、青木は妻帯者を装った。
藤井の寝顔を見つめたが、額や首筋から汗が流れ落ちていた。多分、胸や背中もそうだろう。全身の汗を拭いて着替えさせるのがベストだろうが、そんな仲ではない。だが、あまりにも大汗なのでバスタオルを探し出し、パジャマをめくってそっと拭いてやった。
額や顔、首から胸や腰を拭くと、無意識のまま寝返りを打った。背中がびっしょりだ。背中を拭いてパジャマのズボンを少し下ろしたら、白地に真っ赤なバラが描かれた小さな下着が見えて、慌てて目を逸らすと何か寝言を言った。聞き取れなかったが、閉じられた眼から涙が溢れ落ちた。次の瞬間「パパ…… ママ……」と呟いた。
この子は谷川の診断どおり淋しいのか? 家に帰りたいのかと思うと羨ましかった。ミルクを飲ませた記憶が蘇った。赤ん坊だった子が若さに輝くフォルムを横たえ、目の前で無心に眠っている。そうだろうな、19や20歳では人生の恐ろしさなんて知りもしないから、心も体も綺麗だ。そのうちこの子も礼子のように男を品定めして世間を渡って行くだろう。汗を拭ってやった贅肉ひとつない若く弾ける体を思い浮かべ、そんなことを考えた。
2章 episode 10 神の悪戯か
◆ 女はこんなに可愛いときがあるのか。
夜明けが近いらしい、どこかでカッコーが鳴いている。突然グラッと横揺れがした。また茨城あたりで地震かと思ったら、舞美が目覚めた。
「えーっ、先生どうしたんですか? ここは男子は禁止ですよ。私は寮長に叱られて親に言いつけられます」
「はぁ? 何を言ってるんだ。僕は夜通し付き添ってやったんだ。ありがとうぐらい言ったらどうだ! 熱が出て倒れたことを覚えてないのか? 昨日君はベンチで眠ってしまった。既に体調が悪かったのだろう、気がつかなくて悪かった。キスしたことは覚えているか?」
「ああ、プチュでしょ。すみません、イタズラしました。先生がどんな顔するか試したかったんです」
抱きしめられた永い永いキスはまったく記憶にないらしい。
「医者から診察を受けた記憶はあるか? 注射は?」
「うーん、エロっぽいヒゲのお医者さんと怖そうなデブおばさんを覚えてます。何かいろいろ言ってたけど、眠かったから記憶はちょっとしか残ってない」
エロっぽいヒゲの医者と怖そうなデブおばさんか、青木は笑いそうになった。
「先生はずっと起きてたんですか? 何かしませんでした? 死にそうなキスされた夢を見ました」
「冗談はやめてくれ、何もしてない。君を教える立場の人間だ。熱を出して寝ている生徒にそんな卑怯なことはしない。それよりも熱を測れ、そこに谷川の体温計がある」
「うわっ可愛い、ライオンさんの体温計だ!」
「あいつは小児科なんだから我慢しろ」
「ええっ、私は小児科の先生に診てもらったのですか、ふ~っ」
「寮の提携医院が休院だったから窮余の策だ。今日は大学は休んだほうがいい。君の受講スケジュールを見せてくれ。先生方には僕から言っておく。誰だって? 2回欠席すると試験を受けさせない千田さんかぁ。ヤバイなあ、うまく言うしかないか、コンビニで何か買って来るから待ってろ」
「美味しいでぇーす」
藤井は鼻のてっぺんにマヨネーズを付けたまま、俺に抱きついて甘えた。まったくの子供だ、何か食べたらやっと安心したらしい。女はこんな可愛いときがあるのかと付き合った女を思い起こしたが、こんな素直な女はいなかった。
ドアがノックされた。寮長だ。
「藤井さん、元気になりましたか、熱は下がりましたか? 今回は病気なので特例ですよ。青木先生、ご苦労様でした、あとは私に任せてください」
「はい、そうさせていただきます。藤井くん、明日は谷川の病院で検査結果を聞こう。今日は静かに寝ていた方がいい。わかったね」
青木が去ったあと寮長は、「先生は外泊して奥様に叱られなかったかしら」と案じた。先生は寮長を安心させるために、家庭がある振りをしたと舞美は気づいた。
青木は谷川に礼を言おうと電話した。
「おい、文献探しとか難しいこと言って、あの子とデートだろ? ストレスやホームシックなんてガバッと抱いてドカンとやっちまえば、どこかへ消えて行くんだ。よく覚えておけ! 8時間は絶対に目を覚まさなかったはずだ。俺がそうしたがあの子を抱いたか?」
「バカなことを言うな、俺の受講生だ。ふざけんな! 藤井を連れて検査の結果を聞きに行くがいいか」
「俺らの可愛い後輩は貧血ぎみだが、他は問題ない。あの年頃の子には貧血はよくあるから心配ないが、連れて来てくれ。オマエはいいなあ、あんな女子大生に囲まれてるのか、羨ましい限りだ。俺のお客様は可愛げがないガキで、鬼のような親が付いて来る。家に帰れば三段腹だ、抱く気にもなれやしない。あんな子を抱きたいなあ! 俺に女子大生を紹介しろよ」
「ふざけんな、切るぞ! 俺は今から講義だ。じゃあ明日会おう」
翌日、舞美は白い襟が付いた薄緑のワンピースで現れた。一分の隙もないお嬢様ルックだ。青木は眩しく見える舞美を連れて谷川の診察室を訪れた。
「先生ありがとうございました。お休みだったのにごめんなさい。本当にありがとうございました」
青木は藤井の完璧な挨拶と、膝を閉じて足を斜めに流して座った姿を観察していた。両親に愛され大切に育てられた娘はこうなのかと思った。かつて俺が手に入れた女とは違って見えた。谷川も顔を崩して見とれていた。
「僕の専門は小児科だが、いつでも相談に乗るから心配しないでいいよ。発熱や頭痛や風邪引いたら僕のところへすぐ来なさい。何と言っても後輩だからね。診察券を渡しておこう」
「はい、ありがとうございます」
くそっ、谷川は涎が落ちそうな表情で藤井を見つめていた。俺のテリトリーを荒らすな! お前は三段腹と貧しい夢でも見てろ!
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