壱師の花紅〜ささやかな日々〜
KaoLi
【冬】彼岸花は独りでに落つる
今日は、十二月一日。
僕の、三十歳の誕生日。
三十路に片脚を突っ込んだ気持ちはどうだと晴に笑われたのは記憶に新しい。少しムカついたので、晴も来年には三十路ですよと言い返してみた。うぐっと晴が顔を
それはそうと、先程『
渡された小包みに入っていたのは、色付きのリップだった。
いつか話題に出たリップの話を彼は律儀にも憶えていたのだろうか。んふ、本当にマメな男である。
しかし、女性ものっぽいデザインのリップに僕は首を傾げる。どうしてこのパッケージのものを買ったのだろう、という疑問が一瞬
リップの絵柄に立派な大輪を咲かせた彼岸花が描かれていたからだ。
調べてみればそれは期間限定の商品だったらしい。それから人気の商品であることも分かった。
わざわざ買いに行ったのだろうか? それともネット注文? コンビニにも売っていたらコンビニかもしれない。
なんだったとしても、晴の心遣いに嬉しくなる。
同時に——。
これは、僕に対する贖罪なのか?
そう、問われているような気がした。
◆◇◆◇◆
六年前の「今日」——僕は一度、死んだ。
家業である老舗旅館『彼岸屋』で、管理していたはずの
一瞬の事だった。僕は暴走する烽火九尾を止められなかった。次期当主の名が聞いて呆れる。生き残ったことよりも先に情けなさが勝った。
後で人
一体どうやって、いや、一体何を犠牲にして治めたのだろう。
僕は気が気でなかった。
あの時のことは朧気にだが少しは憶えていた。意識が朦朧として遠のく中で、やっとのことで駆けつけた彼は、何を思ったのか僕の口元に付着していた血を拭うと「女みたいで、綺麗だな」と泣きそうな顔をして言ったのだ。
あの時の、晴の
それから晴は僕に隠し事をするようになった。今までは無かったことだった。
訊こうと思っても向こうは話してはくれないだろうことは重々分かっていた。でもどうしても知りたかった僕は、その元凶とも言える烽火九尾に尋ねることにした。
このことは誰にも伝えていない。もちろん、晴も知らない。
彼岸池に向かえば、全身を楔に打たれた烽火九尾はあの日と全く同じ声音でギャハギャハと耳障りな笑い方をして僕を見ていた。そして「順調そうで何よりだ」と獣は言った。
どういう意味かと問えば、なんだ知らぬのかと
「ギャハ……なんだ鳴? 今日はえらくご機嫌斜めだなぁ?」
「早く教えてください。後に仕事が控えているんです」
「それが、ものを頼む態度か? 随分と不良に育ったのだなあ、鳴?」
「黙れ」
ギチリ。楔はどんどん食い込み、もうすぐ骨断する勢いだった。
命の危険を感じたのだろうか。烽火九尾は黙ってしまった。次に何を言われたとしても、まともなことを考えるようなやつじゃないことを僕は知っている。僕はといえばどうあの獣の骨を断とうか考えていた。
再び開かれた獣の口から、晴の名前が出るまでは。
「晴はわらわと命の契約を交わした。お前を生かすためになぁ」
————。
僕は絶句した。晴が、契約?
僕のために、自分を、この女狐に売った?
女性との逢瀬で付いたと思っていたあのキスマーク。
晴だって、男性だから性欲の一つや二つあるからと触れずにいた痕。
あれはこの女狐に付けられたものだったのだと、僕は今確信した。
僕は、馬鹿だ。
僕なんかのために、彼は自らを犠牲にしていたのだ。
なんで、という言葉が、軽く聞こえてしまう。
晴が背負う必要はなかったのに。
そう彼を想うだけで、胸が張り裂けそうだった。
「晴が死ねば鳴が死ぬ。逆も同様であるから気をつけろ? 朔日の夜に血を捧げることで血の縁は結ばれ契約は都度完了する。すぐには殺さぬ。すぐに死んでしまったら、面白くないだろう?」
拘束が緩み、調子を戻した烽火九尾が
僕は、聞かなきゃ良かったとも、聞いて良かったとも思えない、複雑な感情に
◆◇◆◇◆
ふと、目の前の鏡に映った自分に、僕は思わず苦笑してみせる。
酷く感情の無い表情だった。記憶の回想から脱した僕は一回深呼吸をした。そうして見えるクリアな世界もあると知っているからだ。これで幾分かはマシな表情になっていることだろう。
ゆっくりと瞼を開けば、外では雪が降り始めていた。
「今年も寒くなりそうだなあ……」
冬生まれだけれど、寒いのは得意じゃない。
体がこうなってしまったからなのか、冬は寂しいとなんとなく感じてしまうからなのかはわからない。でも、今年も晴がいてくれる。それだけで心は自然と温まる。体は冷えても、気持ちで温まることはできるから。
「…………あとどれだけ生きられるかな……」
僕の独りごちた言葉の音階たちは、外の雪のように一瞬で空気に融け消えてゆく。
あとのことなど考えるだけ無駄だと分かってはいても、晴のために考えずにはいられない。
——どうせ、一緒に死んでしまうのにね。
なんて、自虐気味な思考に堕ちる。
僕が死にたいと言えば、きっと晴は一緒に死んでくれる。
晴が疲れたと言ってくれれば僕もそれを許すだろう。
命という糸で繋がれた僕らの縁は、そっとやちょっとのことでは揺らがない代わりにどうも
晴には幸せになって欲しいのに、晴は僕のために簡単に命を投げる。おかしな話だけれど、僕はそれがすごく嬉しくて、同時に悲しく思うのだ。
部屋の外から「おーい」と、僕を呼ぶ声が聞こえた。その声は記憶の中の悲しい音ではなく、僕の大好きな、力強い彼の声だった。
「はーい、今行きます!」と僕はできる限り声を張って彼に伝える。
ふと目の端にリップが入った。数秒間、どうするかを考えた僕は——。
◆◇◆◇◆
「……なんだ、結局使わなかったのか、口紅は」
「ああ、はい。せっかく晴から貰ったものだから、大切に使いたくて」
「? ただの消耗品だろう。……まあ、もうあげたものだし、それをどう使うかは個人の勝手だから無理
「はい?」
「今年も、誕生日、おめでとう」
「……。……はい、ありがとうございます、晴」
そうして巡る日々。僕らは前を歩みだす。
僕たちに残された時間は
考えてしまえば、刹那にも満たない命かもしれない。
それでも僕たちは生きるために互いを補い合うのだ。
幸せな日常を、いつも通りに生きるために。
これは僕の——秘密の独白。
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