夜雨

相原梨彩

1話

 数日前までの真夏のような暑さから一転、急に冷え込んできた十月中旬。


 塾からの帰り道、学校近くの塾に通っている私は電車を乗り継ぎ家へと向かっていれば大粒の雨が降ってきた。


 一応と鞄に入れておいた折り畳み傘を取り出し開く。


 雨は嫌いだ。雨が傘に弾かれる音がいいだなんて言う人もいるが私はこの音が嫌いだった。不規則なテンポ、音の大きさもまちまちのこの音は私のリズムを崩す。


 頑張ってレールから出ないように一定の速度で歩くように周りに合わせているのにかき乱してくる。


 小さな折り畳み傘では私を覆うには面積が足りなかったようで肩と足元が濡れる。


 水滴が体にまとわりつく。気持ち悪い。音も感触も何もかも。


 早く家に帰って湯船に入ろうと家路を急ぐ。


 道の角にある見慣れた小さな公園を左に曲がろうとした時、その時見つけてしまった。


 街灯に照らされた公園のベンチに塾が一緒の名前すら知らない彼が座っていた。


 そもそも話したこともない、この辺りに住んでいることも知らなかった彼。


 知らないふりをして通り過ぎてもよかった。


 彼もそれを望んでいるような気がした。


 けれど私は公園の入り口から一歩も動けなかった。


 いつからいたのだろう、制服はぐっしょりと濡れ髪は乱れていた。


 彼はじっと空を見上げていた。


 雨がやむのを待っているのか何かを探しているのか、彼の見上げている方向を見るけれど何も分からなかった。

 

 しばらくすると今度は足をパタパタと動かす。その動きを私はずっと目で追っていた。


 足の動きを止め下唇をぎゅっと噛み締めたかと思えば彼の目からは雫がはらはらと流れ出す。


 明らかに雨ではない、瞳から流れ出ているその雫に目を奪われたと同時に私は駆け出した。


「ねえっ、これっ」


 ベンチの後ろに回り込み私も彼もどちらともなるべく濡れないように傘をさす。


 鞄の中からタオルを出し差し出せば、


「……いらない」


 手で払われた。


「風邪引くから」


「いらないって言ってるだろ!」


 怒鳴られても何故かあまり怖くなかった。


 それは彼が泣いているからなのか、泣いている彼の背中が小さく見えるからなのか、どちらにせよそこで私は怯まなかった。


「そのままじゃ気持ち悪いでしょ」


 もう一度押し付ければ、はあっとあからさまに大きなため息はつかれたが受け取ってもらえた。


 立ちあがろうとしない彼の後ろで傘を差し続けていれば彼は言う。


「……いつまでいるつもり?」


「わかんない」


 そもそも何故彼が声をかけてほしくないと望んでいることを分かっていたのに声をかけたのか声をかけたその先何をしたいのか、私自身も分かっていなかった。


「変な人」


 彼は私が来てから初めて笑った。


「そっちこそ変でしょ、こんな雨の中傘ささずに雨浴びてるんだもん」


 言い返せば彼は何も言わなかった。


 公園内にある大きな時計の秒針を見つめる。


 ちょうど二回転した時彼はまた言葉を口にした。


「溶かしてくれないかなって」


「え?」


 主語のない文の意味を理解することが出来ず聞き返す。


「ほら酸性雨っていうじゃん、コンクリート溶かしたりするやつ。だから人も溶かせないかなって」


 そんなのあるわけない、と笑い飛ばすことは出来なかった。彼は本気だった。


「もうさいっそこのまま消えてなくなりたいと思ったんだ。周りに合わせて歩くなんてもうごめんだ」


 ポツポツと雨音は強まったり弱まったりを繰り返す。


「君はさ、今楽しい?」


 その質問の答えは一択だ。


「最悪」


 彼は何も言わない。


「敷かれたレールを一定の速度で歩くだけの生活にうんざりして一定のリズムで落ちてこない雨音を羨むくらいには最悪」


 レールから抜け出したいなら抜け出せばいいのに、一定の速度で歩くのが嫌なら止まったり走ったりすればいいのに、ただ不満を抱えるだけで決して実行には移せない。それは私が弱いからだ。誰も歩いていない道を一人で切り開いて歩いていくのが誰かに置いていかれるのが怖いから。だから私は結局敷かれたレールを一定の速度で歩く。


「そっか、君も俺と同じなんだね」


「……ねえ隣座っていい?」


 彼は少し左に寄る。私は傘を閉じて彼の右に座った。


「ほんとだ、溶かしてくれそう」


 大嫌いな雨を全身に浴びれば全て溶かしてくれるような気がした。


「……いつかさ、レールから抜け出せる日は来るのかな」


 強くなれる日は来るのだろうか、と彼に問えば彼は空を見上げながら言った。


「それは分からないけどさ、もしまたうんざりしたら一緒に雨を浴びればいいんじゃない?」


「そう、かもね」


 一人でないと分かれば今まであんなに嫌だった雨もそれほど嫌に感じなくなっていた。


「また来る?」


 私が問えば彼は頷く。


「来るよ、定期的に溶かさないとやってられないから」

 

 儚げに笑う彼の右手が私の左手に当たる。


 そのまま手を動かさないでいれば彼はそっと手のひらを重ねた。


 雨で濡れた手のひらは冷たくてでも何だか温かかった。

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夜雨 相原梨彩 @aihararisa

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