第22話 燃え尽きる夢

 降り注ぐ天使の羽は、フェニックスの羽ばたき一つで燃え尽き、床へ落ちて炎となっていく。

 戒はその真下に立ち、夢美を見上げていた。


「どうかお願いです、夢美さん。律を解放してやってください」

「解放、じゃと?」

「能力が消え、ようやく律は危険に巻き込まれる獏役という仕事から離れられたんです。このままならなにもかも忘れて平和に暮らせるのに、あなたが引き戻した――わかってください。僕はあいつにただ穏やかに生きてほしいだけなんです」

「……兄、さん」


 ぽつりと呟いた律の足元に、炎は届きかけている。

 悠は慌てて枕堂の中央に向かって叫んだ。


「律! おい、律――こっちだ、なにぼーっとしてんだよ」


 普段なら、危機察知と指示は律がするところだ。

 が、その律はと言えば、呆けたように炎を見つめているだけだ。


「律ってば! こらー!」

「……あの時と一緒だ」


 ぼそりと呟いた。

 その表情が蒼白になっていることに、悠はようやく気付いた。


「あんた……大丈夫か?」

「炎がぜんぶ、俺から奪ってく……」

「おい、ちょっと!」


 慌てて雫を放り投げ、悠は律の傍へと跳んだ。

 肩を掴んで前後に揺さぶっても、なんの反応もない。

 イラっとして、思わず平手で頬をたたいた。


「正気に戻れ!」

「痛――っ、痛いだろ、この馬鹿!」

「いてっ!?」


 殴り返された。ぐーで。


「聞こえてんならさっさと動けよ! なにがそんな気になるんだ!」

「うるさいな。兄さんが俺から眼を奪って去ってったときも、こんな火事だったんだ。感傷に浸っている時に、ばしばし叩かれたら腹も立つだろう」

「こんな時に感傷に浸るんじゃねぇ、バカ!」

「馬鹿はお前だ、この馬鹿!」


 喧嘩になる二人を止める者は、ここには存在しない。

 せいぜい、徐々に周囲に迫ってくる炎と、呼吸のできない感覚だけだ――が、さすがに命にかかわりそうで、二人が同時に我に返ったのも当然のこととは言える。


「……おい、一時休戦だ」

「いいだろう」


 顔を見合わせ、雫の元へ二人で駆け込んだ。

 その間も、夢美と戒は互いの夢を上塗りし合うかのように睨み合っている。


 戒の筆が動いた直後、天使の羽にじゃらりと鎖がかかり、地上に釘づけられた。浮遊していた天使の足が床を踏み、焔に巻きつかれる。

 夢美もまた、筆先をゆるりと振り、フェニックスをガラスケースのようなものに閉じ込める。これ以上燃え立たせぬために。


 互いに一手で相手の動きを封じた直後、返す絵筆が相手の妨害を打ち消していく。

 戒は巨大なハンマーでケースを割り、夢美は斧で鎖を叩き切る。

 直後、羽根と炎がぶつかり合い、互いを打ち消した。


「互角、か」


 律が呻くように囁いた。

 隣で、悠がぐるりと肩を回す。


「仕方ねぇな。律、雫を頼むわ」

「なにを――お前、貸してやった右腕ももうないんだぞ」

「いや、だって夢美さん放っとけないじゃん」

「じゃあ、俺が行く!」

「いやいやいや。お前は手に加えて、目もないじゃん。余計不利じゃん」

「そんなのは――」

「それにあんたさ、兄ちゃんに対抗できないだろ?」


 律は、残った片目を見開いた。

 いつものようにすぐに言葉が返ってこなかったことで、悠が慌てたように首を振る。


「いや、別に実力がどうこうってことじゃないぞ。単にほら、あんた兄貴がすごい好きじゃん。だから、戦うとか気持ち的にできないんじゃないかって……」


 徐々に悠の声が小さくなっていく。

 律が反応もできずにいると、悠は言葉を止めて前を向いた。


「……ま、そんな訳でおれが行くわ。こういう時、相手のできないことを率先してやるのが相棒だもんなっ」


 弾むような声で、そう言い切る。

 その右手に、いつもの律の腕はない。


「お前……」

「雫を頼むぞ」


 律の言葉を最後まで聞かず、悠は飛び出していった。

 突然飛び出てきた人影に、先に反応したのは戒とフェニックスの方だった。

 楽なところを狙うように、焔の弾丸が悠に向かって降り注ぐ。


「うわっ、とっ、はっ、とぁ!?」


 奇声を上げつつ、妙なダンスのステップのように跳んで避ける。

 戒がその間抜けな動きを嘲笑った。


「へえ、すごい勇気だな? 僕の夢の中で、なにも持たずにどうするつもりですか」

「う、うるせぇ!」

「悠、手伝うなら早うせい」


 夢美の腕の一振りで、悠の左手に絵筆が生まれる。


「おっ、やった! これがあれば百人力だぜ」

「一時的なものじゃ。けして気を緩めるでないぞ」

「そうですね。二人がかりでようやく面白くなりそうだ」


 戒が、どこか律に似た顔でゆっくりと笑った。

 絵筆が動き、フェニックスの姿がぎゅるりと渦のように巻き上がる。

 細く細く縒り合された綱のようになった赤い炎が、耳まで裂けた口を開き、咢をひらいた。

 改めて身をよじり、羽を開いたのは、細長く巨大な幻想の爬虫類だった。


「龍だ……!」

「ドラゴンと呼んでください。古臭いな」

「阿呆が。古かろうがなんだろうが、龍は龍じゃ。呼び名だけ変えてもなにも変わらん」

「変わらないかどうか、自らの身で試してみては」


 ドラゴンが巨大な尻尾を振り回す。

 それが床を強く叩くと、枕堂の木製の床が燃え上がった。


「おっしゃ、水、水っ!」


 いっそ楽しげに筆を動かし、描いたスプリンクラーで悠が消火していく。

 その隙に、夢美は天使の羽根で牽制しながら、空中に巨大な剣を描いた。

 八股に幹からわかれた枝刃が、まっすぐにドラゴンを狙う。


「――終いじゃ」


 ぎらりと光る刃が、頭から尻尾までドラゴンの身体を両断した。

 二つにわかれ、ぐらりと揺れて倒れる――直前。

 燃え立つ炎が刃に絡まり、ぐいと引いた。


「……なんじゃと?」


 狼狽する夢美の声に、くす、と笑う戒の声が重なる。


「斬られたくらいで、炎が消えるとでも?」

「――夢美さんっ! この炎、水かけてもぜんぜん消えねぇ!」


 端で消火にいそしんでいた悠がばたばたと夢美の元に戻ってきた。

 二人の眼前で、ドラゴンが、両端から焔を絡ませ合って一つに戻る。

 同時に、間に挟まっていた刃が燃え上がり、焼け落ちていった。

 降り注ぐ火の粉の一つが夢美に触れ、肩にかけていた振袖の裾が燃え上がる。


「――っ!」

「夢美さんっ」


 慌てて伸ばした悠の手を、夢美が強く払いのける。

 体勢を崩した悠の前で、焔に巻かれた少女の姿が、くるりくるりと舞うようによじられて、紅い光に覆われていく。


「ご老体が無理をするからこうなるんですよ。そろそろ新鋭の若手に席を譲っていただきたい」


 戒の声が、柔らかに響く。

 焔の中から、眉を寄せた夢美の顔が一瞬のぞく。

 その視線が一瞬、悠を見て、それから律の傍らに転がる雫に向けられた。


「雫、ぬしは――」


 ゆっくりと小さな手を合わせ、その内側に涼やかな水をすくうかのように開いた。

 手のひらから、たくさんの蝶が一斉に舞い上がる。煙に巻かれ、風に煽られながら、その一匹がひらりひらりと雫の傍まで飛んでいった。

 虹色に光るはかなげな翅が、微かに上下する。


「……最期のあがき、ですか」


 戒の手が、蝶の群れに焔を放ち、半数ほどは羽を燃やされ地面に落ちた。

 が、もう半数は、落ちた天井の隙間から夜空へと飛び立っていくのが見える。


 それを最後まで見届けることもできず。

 くるくると踊る火柱は、ぼうと燃え――そして、塵になって砕けた。


「……夢美、さん?」


 悠の手が、ゆっくりと下りる。

 その手の中から、絵筆が宙に溶けるように消えていった。


 戒の冷たい瞳が、最後までそれを見届け、そして――微笑みながら、律を振り返る。


「さあ、邪魔者は消えた。今度こそ一緒に行こう、律」


 差し出された手は、律のよく知る兄の手だった。

 幼い頃から、何度も、繰り返し。

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