第21話 対峙する夢
ぐるぐると回っていた視界が、徐々にまっすぐに戻る。
悠は、幾度かたたらを踏みながらもなんとか堪えた。
温かい午後の日差しが、格子状の窓から差し込んでくる。
いつも通りの枕堂は、いつも通りに平和な様子だった。
夢入りの時の布団もそのままに、いつものメンバーが戻ってきている。
悠の隣には、まっすぐ前を睨みつける律。
視線を追えば、雫のすぐ目の前に、律が兄と呼んだ男――戒がいた。
雫はぐったりと目を閉じ、戒がその肩を支えるように立っている。
「おい、あんた! 雫から離れろよ!」
悠の声を聞いているのかいないのか、戒にも雫にも変わった様子はない。
これは実力行使が必要かと腕まくりした瞬間、とん、と背後で軽い足音がした。
「なんじゃ、騒がしいの。客が来たならそう言うがよいぞ」
とつとつと近づいてきた足音が、悠の背を軽く叩いた。
宥めるような小さな手のひらの感触に肩の荷が下りたように、ほっと息を吐く。
「……夢美さん」
「まさか、自ら訪れるとはの。弟を陥れたことの謝罪と贖罪に来たのなら聞かぬでもないが」
紅い振袖を引っかけただけの細い肩が、ずい、と悠と律の前に出る。
しゅるりと衣擦れの音が鳴る。
対峙する戒は穏やかな笑顔で、微かに首を傾げて見せた。
「謝ることなどなにもありません。僕は、返して貰おうと思っただけです」
「返す?」
「律を、です」
言葉と同時に、大きく雫の身体が揺れた。
ぐい、と喉を引かれたらしい。だが、抵抗する様子もなく、瞼を伏せたままだ。
気を失っているか、少なくともそれに近い状態にあるに違いない。
「――やめろって言ってんだろ、雫を離せ!」
「残念ながら、それはできませんね。彼女がいなければ、この夢は維持できない。古より連綿と続く枕坂の血はさすがですね」
「……夢?」
悠はふと、自分の右手を見た。まだある。
つまり、ここは現実の枕堂ではない、夢の中――らしい。
ふん、と夢美が鼻を鳴らした。
「雫も、雫の両親も、自らが枕坂の血を引くなど知りもせぬわ。それを利用するなど義にもとると思わぬか――最初から知って、引きずり込んだのであろう」
「それは、つまり……雫が来た最初の件は、戒の仕組んだことということですか?」
律が、いつになく頼りない声音で呟いた。
夢美はゆっくりと頷く。
「察するに、そもそも北条を唆したのが戒であろ。その後の事件の連発も、ほとんどが戒の意図したもの――最初から雫を使ってここに夢を繋げることを企だてておったのじゃろ」
戒はにこやかな表情を変えないまま、夢美に向かって答えた。
「さて、巻き込んだのはどちらでしょう。あなたがしゃしゃり出てこなければ、彼女を関わらせる必要なんてなかったのですよ」
「律と雫の二者択一を迫っておるつもりか? いずれかを諦めろとでも言うか」
「いいえ。そんなことは言っていません。僕にとっては、こんな女はどうでもいい」
ぽん、と無造作に雫の身体を放り出す。
「雫――!」
律が駆け寄ろうとしたのを押しのけて走ると、悠は、床に倒れ落ちそうになっていた身体の下に滑り込んだ。
どさりと重い雫を、両手でしっかりと受け止める。
「せーふ!」
「……と、思いましたか?」
くすっと笑う声は、腕の中から聞こえた。
直後、雫の両手が伸びてきて、悠の首を締めあげる。
「ぅぐっ!? な、雫、あんた――」
「能力のポテンシャルはすごいですが、どうにもコントロールする力が希薄ですね。やはり、数百年単位で放置していたのが問題だったのでしょう」
馬乗りになり体重をかけて、悠を窒息させようとしてくる。
雫の瞳は、閉じられたままだった。
「ぐ、こ、れ……操られてん、のかよっ……クソっ」
「無関係な人間をこれ以上関わらせたくないというだけですよ。その気持ちはあなたも同じでしょう、夢美さん?」
じっと戒を見つめていた夢美は、ふるふると首を振った。
「妾は無関係な人間を枕堂に置いたりはせぬ」
悠は無関係などではない――少なくとも夢美はそう思っている。
ならば、応えなければならないだろう。
悠は、もがく手をぐるりと振り、いつもの絵筆を取り出した。
ここは夢。まだ絵を描くことはできる。
「――っ悪ぃ、雫!」
ばしゃっと絵筆を振る。
雫の身体を振り払うような筆の動きに、一瞬、隙間ができた。
喉を解放され、悠は咳き込みながら息を吸う。
雫は、すぐに悠の方へもう一度手を伸ばそうとした――が、その両手が思うように動かずもがいている。
「手錠ってあんな感じでいいのか……? まあいいや、ちっと大人しくしてろ」
「おや、素早い。手ごわい敵ですね」
「そんなにやにやしたまま言われても、煽られてるように感じるんだよな!」
「煽っていますのでね」
振りかぶった絵筆を、戒の方へ振り下ろした。
が、最小の動きで戒の絵筆がそれを止める。
みちり、と気味の悪い音がして、戒の額で三つ目の瞳が開いた。
「うっわ、なにそれキショ!」
「愛しい弟の眼球に、滅多なことを言うものじゃないな」
一気に戒の表情が厳しくなった。
言われて、慌てて振り返る。
眼帯をはめたままの律が、なんとも言えない顔でじっと悠を見ていた。
「え、悪い……これ、あんたの眼なの?」
「うるさい。キショでもキモでもいいから、今はそっちに集中しろ……!」
「ふむ、悠や。そのまま戒を押さえておれ」
たんっ、と踏み切る音が聞こえた。
細い筆をふぅわりと持ち、上から夢美が降ってくる。
その筆が柔らかな線を描き、空中に、悠の二倍はあろうかという巨大な人影を生んだ。
どこか夢美本人にも似た、整った顔立ちに中性的な身体つき。背中に白い羽を負ったそれが、悠に向かって微笑んだ。
「……天使?」
薄い絵具を塗り重ねた柔らかな印象は、岩絵具によるものだ。
最小限の洗練された動きによって、天使の羽織る衣が、羽が生き生きと描かれている。
「へえ、それが噂に聞く、枕坂夢美の兄上ですか」
からかうような口調で、戒は悠に向けて絵筆を振った。
筆を受けようと手を動かし――次の瞬間、どさっと足元になにかが落ちた音がした。
「……え?」
「小蝿が鬱陶しいな」
下を見る。
筆を握ったままの右手が、悠の足元に落ちていた。
現実感の無い、白磁のようなきれいな断面が、自分の腕の付け根に見えている。
目にも止まらぬ一閃で、戒は悠の腕を――律の能力を刈り取ったのだった。
「おれの、手が――」
「おれのなんですって? 借り物の能力を我が物顔で……それは弟のもの、つまり僕のものだ。返して貰いますよ」
拾い上げた腕を、頬ずりでもせんばかりに抱きしめる。
そこへ、上から白い羽根の群れが、鋭い矢のように降り注いだ。
危うくよろめきながら、戒は後ろへ飛び下がる。
「――悠、無事かや? 雫を連れて、下がっておれ」
「夢美さん……!」
夢美の指が筆を微かに操るたび、悠の頭上の天使が戒に向け、攻撃を放つ。
店の長椅子を、棚を、敷いたままの布団を盾に、戒はその矢の雨を避けていく。
焦れた大きな手がその身体を握りしめようと追った瞬間、振り返った戒の瞳で第三の眼が輝いた。
筆が大きく動き、一瞬で空中に赤い姿を描く。
「朱雀か。さて、腕を上げたと褒めるべきか」
「フェニックスですよ、失礼な」
拗ねたような声で応えたと同時に、天使と対峙した巨大な赤い鳥が、鱗のように反射して輝く羽を、大きく羽ばたかせた。
ぼう、と音がして床が燃え上がる。
「やっべ……!」
悠は転がしておいた雫を抱え直し、炎を避けて壁際に退いた。
夢美の身体は浮遊する天使が抱え、戒の周りだけは炎の方が避けているかのように鎮まっている。
ただ一人、律だけが――今はなんの力も持たない律が、炎の中心に取り残されていた。
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