3
蛇の目を通して、カイル青年の記憶に入りこむ。
そこは夢に墜ちた戦場、或いは鮮やかな犯罪行為だった。
この戦い。戦いですらなかったが、そのように評したい。
ラジウスの砦は、竜鱗騎士団領の最南端にある。
東西に山岳地帯、渓谷を遮るように建造され、北部から開拓地である南部の回廊地帯への出入り口となっている。陸の物流の要所として運用されていたが、今はここで塞き止められている。
物見の塔から、カイルは大欠伸をして草木まばらな平原を見張っていた。
飛んでくる鳥にパンくずなどを与え、暇を持て余した他の衛兵とカードで賭けに興じていた。ただし、その日は違った。
「あそこに、人がいる」
同僚が鏡玉を目に当て、そういった。
カイルはゴーグルを下ろし、同僚が指さした先に注意を払った。
騎乗した、赤いドレスローブの姿があった。手には交渉を求める白旗がある。
「夢幻の鷲馬に、幻想の月。眠りの魔術師の象徴印に相違ない」
すぐさま、連絡用の鉄管を開き、
「全軍に通達! 眠りの魔術師の到来である!」
短く連絡を伝えた。ドレスローブの姿は四百メートルほどの距離にいる。
そこから動かず、静かに影を落としていた。
城壁に長弓兵が並び、床弩が起こされ槍ほどの矢が装填される。
大門の内側には突撃騎兵と、砦内には重装兵が配置された。
「いつからあそこに?」
焦りを含んだ声で同僚が問う。
「君のカードの手札を俺が盗み見ようとしていた隙にかねえ」
カイルが自嘲気味に答えた。
三千メートル先の獣の狩りを見て取れる目を買われての見張り塔への抜擢であったが、かた無しだ。その姿は遮蔽物のない平原に突然現れたとしか言いようがなかった。鉄管に備えられた鐘がなり、応答を求める。
「赤い旗をあげよ」
それは宣戦布告を表す色である。五つの物見塔にラジウス伯ディランの竜爪に炎を纏った細見剣の紋章が掲げられた。
「動いた」
眠りの魔術師は旗を掲げたまま、馬を進め始めた。
「当てられるか、カイル」
「白旗上げてる女に弩を打ち込むのかい? くそくらえだ」
悪態をつきながら、弩の台座を落とし、矢を装填する。
「ああ、ぜひお願いしたいね。眠りの魔術師の国、南に陣を引いていたとこじゃ、将校以上は全員、昏睡状態が続いているそうじゃないか。つうかよ、そっちで交戦中じゃないのかよ? なんでこっちにアレがいやがるんだ、クソ!」
同僚は恐怖を押し殺すためか、机を蹴飛ばした。並べたカードが散らばった。
何百という弓に狙いを定められている女が不用心にこちらに近づいてくる。
「奴の睡魔の術は魔法防御を突き抜けてくると聞く。対抗魔法もなし。射程に入られたらおしまいだ」
騎士団領の正規軍はあらゆる攻撃魔法に対して耐性を持つ加護の武装を身に着けている。騎士団同士の戦において魔法は補助に過ぎず、戦力に組み込まれるものでは無い。
「その射程もわからないんだろ」
未知の力を持つ眠りの魔術師に対し、全ての国は最高額の討伐報酬を定めた。
これを討ったものは眠りの魔術師の治める国の統治権も約束されている。
北部から南部にかけての陸の交易路、眠りの魔術師が住む中枢の桜の楼閣の都。
その全てを与えられる。
(ああ、今は余計なことは考えなくていい)
カイルは狙いを定めることに集中する。
自身の目に加え、遠見のゴーグルの的を絞り、眠りの魔術師に照準をあわせた。
すると、眠りの魔術師は馬を止めた。
「ぐっ」
ぞわり、と背中から悪寒が昇ってきた。まるで狙っているのを知っているような、当ててみろとあざ笑われたような気がした。
ドレスローブのフードに手をかけ、後ろに外した。
二本に纏めた金髪が風に流れる。口元で薄く笑っていた。
口が動き、それがカイルに向けられた言葉と気づいたとき、叫びとともに矢が放たれた。真正面から見た姿、あれを払拭しなくては。目に、瞼に、一生焼き付く。
砦から歓声が上がった。
誰しもが躊躇していた最初の一矢は、恐慌状態の兵たちにとって救いの攻撃だった。克己した彼らから一斉に弓が放たれ、空に弧を、或いは一直線に対象に向かっていった。
熱気は数秒後には動揺に変わった。矢が宙で見失われたのである。
「当たってないのか?」
「矢が消えた」
鉄管から錯綜する声。
「蛇」
誰かの呟きで声が止まった。
「俺は見たぞ、へ、蛇になって、矢が落ちたんだ」
地面が蠢いていた。何百と放たれた矢は全て蛇に変化していた。
矢雨が止まったことを確認したのか、眠りの魔術師は再び馬を歩ませ始めた。
地面から、蛇腹の擦れる音とかすれた鳴き声が聞こえる。
「なんだあれは、頭がおかしくなりそうだ。指示はないのか?」
「騎兵を出さないのか」
「白旗あげているじゃないか、交渉に応じる、とか」
「馬鹿、門を開けたらどうなることか」
兵達に恐慌状態が伝染していく。
目を凝らさずとも顔がわかる距離まで、あれの接近を許していた。
そこで再び眠りの魔術師は歩みを止めた。手を、手前に。その動作を繰り返す。
「何やってんだありゃ」
「術式? まじないか?」
手を合わせて、外に広げる。
「門を、開けろ?」
カイルの呟きに鉄管からの声が止まる。
皆、指揮を執る将の意見を待っている。
数秒が長く感じられた。
「全軍に告ぐ、ディランである。
各自警戒態勢を。白兵戦に備え、騎士はホールに集え」
「籠城かよ」
同僚が脱力気味に呟いた。カイルはゴーグルを外し、眠りの魔術師を見据えた。
案の定、向こうもこちらを見ていた。
『門 を 開ける わ』
唇の動きでそう読み取れた。
風に交じり、聞いたことのない音がした。その音は、どんどん増えている。
「どこから」
同僚がカイルの疑念を代弁した。
「地面だ、地面が動いてる!」
鉄管からの誰かの声。
無数の蛇が、無数の鼠に姿を変え、黒い波になって砦に押し寄せてきていた。
先程からの聞きなれない音は鳴き声、地面を覆う鼠の鳴き声だ。
弓がいくつも放たれるが、群れの中に溶けて消えていく。
「火矢を放て!」
魔力付与された燃える水に浸された矢が撃ち込まれ、群れに火柱が上がる。
だが、燃えるままに群れは流動し、砦の裾にとりついた。
やがて城門が黒く覆われ、ものの数秒でチーズのように穴だらけになっていく。
鉄管から兵の悲鳴や怒号があがるが、おぞましい数の鼠の鳴き声がそれをかき消してしまう。
「ホールに行こう」
カイルは同僚の手を引くが、既に発狂しているらしく、震えるばかりで腰が上がることはなかった。舌打ちを一つ、カイルは物見塔の下り階段に向かった。
砦の中に入ると、喧騒は遠のき、階段を降りきるころにはカイルの靴音だけになっていた。
(耳がおかしくなってしまったのか?)
塔を出て、城壁沿いの階段を降りる。しん、と静まり返っている。
(門が破られ、鼠がなだれ込んだのではないのか?)
不安から警戒へ、やがて、駆ける足はゆっくり、慎重な足取りに変わっていった。
数歩先に、人がうつぶせて倒れている。
「おい」
肩を揺らすが、反応はない。外壁に目をやると、そこに立っているはずの兵の姿はない。
精査の間もなく、城内への通路を抜けてホールを目指す。
道々に兵が倒れていて、どれもピクリともしない。
(眠りの魔術師に眠らされた? あるいは、俺が夢の中にいるのか?)
(あの口元を、読唇したとき? あの時、あれは俺に何と言った?)
「理解の範疇外だ」
声に出し、自分の声を思い出す。カイルは首を横に振った。
ホールには重装歩兵が整列し、最奥にディラン伯。
傍らにはその娘で筆頭騎士のロジエの姿があった。
門は扉が消えて、ぽっかりと空間が開いている。
破壊されたではなく、まるでそこに初めから枠だけがあったかのよう。
そこに影が立つ。
眠りの魔術師は馬から降りると、労う様にそのたてがみを撫でた。
馬は嘶くと、片足を上げた姿勢でそのまま彫像になった。
もう、いちいち理解しようとするのはやめたほうがよさそうだった。
「ひかえよ、下郎ごときが」
ディラン伯が強い口調で言い放った。
一歩、眠りの魔術師が足を踏み出すと、重装歩兵が一斉に武器を構えた。
「白旗にお答えいただけたことかと思いましたが」
冗句なのか判断が難しい平坦な声の調子だ。
「戦いにもなっていなかったとでも言いたそうね」
ロジエが吐き捨てる。大剣を抜くと、ディラン伯と眠りの魔術師の間に立つ。
「別に戦いに来たわけじゃないわ」
眠りの魔術師は子どもを窘めるように、ロジエに端に退くよう手をひらひらさせた。
「ここで交易を塞き止められたら困るの。そういう嫌がらせはやめてもらえるように親書を五回も贈ったのに一向に返事が返ってこない。だから直談判に来た」
「手前勝手なことだな。そして愚かなことだ」
ディラン伯が前に出て、今にも斬りかかりそうなロジエを下がらせた。
「貴公が報奨をかけられてから、幾多の辺境伯が挑み、それを貴公は悉く退けた。称賛に値すると言わねばなるまい。だが騎士団を持たない貴公の国は、ならず者の絶好の隠れ蓑となってしまった。ラジウス領を教皇庁から預かる身として看過できぬ」
「お話がずいぶん違いますね。守護を担っていた中立領の騎士団に派兵をせぬよう伯から呼びかけがあったとお伺いしましたが」
「立場が分かっているのか? 賞金首の、ならず者」
「私に挑むのは、まあ仕方がないと思うわ。いつでも攻め込んでいただいて結構。そこに住む人達を困らせるのはやめて欲しいといっているの」
「話にならん。未だに貴公の地に留まる民は、沙汰の外にあると言わねばなるまいよ。あるいは貴公が恐怖をもって縛っているのか? 民に伝えよ。そちらからくる分には門戸を開くとな」
これ見よがしな忍び笑いがホールに流れた。
「わかったら去りなさい。それともこの砦を滅ぼしていく? 大戦の引き金を作りたければそうなさい」
「そんなつもりはないわ。血は嫌いだもの」
眠りの魔術師は丁寧に白旗を床に置いた。
「なるほどそういうやりかたもあるのね。乱暴狼藉、短絡的な攻撃ではならず者といわれても仕方がない。理不尽ではありますが、あいわかりました」
ホールを見まわし、ドレスローブのフードを被ると。
「当事者以外をだしにしたのは、そちらが先よ? 伯。なら、私も‘それ’をしてもまさか咎めないでしょう」
「あ……あ?」
ロジエの床に接する手足、顔が、軟体生物のように広がり、厚みを無くしていく。
「なんだと」
「おと、おとう、さ、サ……」
人と同じ大きさの、ところどころに甲冑を残す
「ホーロロロウ、ホーロロ……ル……」
やがて広がった口から言葉は消え、空気の抜ける音だけに変わった。
兵士たちから恐れを含んだ声が上がる。
「おのれ!」
ディラン伯は曲刀と細身剣を抜くと、眠りの魔術師の首を一閃、心臓を細身剣で貫き、腹のあたりを蹴り飛ばした。
「さすが、悪竜殺しの英雄の一人。速いわね」
水面に映ズタ袋を、波立たせた程度。彼女は確かに斬られ、突かれたが血が飛び散ることなく、衝撃で吹き飛ばされることもなかった。
「お気づきかもだけど……あなたがたは微睡の世界に入っているのよ? 夢でよかったわ。一度に三回も殺されていたかも」
「おのれ、おのれ!」
幾度も繰り出された必殺の剣だが、とうとう眠りの魔術師の微笑を消すことはできなかった。しかしそれでも、ディラン伯は肩で息をしながら、剣をふるい続けた。
やがて体勢が崩れ、変わり果てたロジエのすっかり柔らかくなった顔か腹部かわからないところに倒れてしまった。
深緑の体液がどろりと流れ出て、ディラン伯の顔を染める。
「ああ、意識は姫のままだから、暴れたりはしないわ。裸……と、言っていいものかどうか。外套くらいかけてあげるのが情けではなくて?」
冗談のつもりなのか、あるいは挑発か。
周囲から反応がないことに肩をすくめる。
「じゃあ帰るわね。ディラン伯、蛞蝓姫の姿を見飽きた頃に書簡をくださいな。ふふ、五回ほどは無視するかもだけど。ごきげんよう」
とても人間のものとは思えない伯の咆哮が、ホールに響き渡った。
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