眠りの魔法使いの倒し方
あれからどれくらいの月日が流れたか。
失われた時を取り戻すにあたり『竜王歴』とでも名付けフィン殿下との邂逅の時より記録してもよかったが、そも綴ることが無意味といえた。
この世界では、いわゆる朝と夜が、黒の獅子なる神と太陽の仔なる神の争い如何で気まぐれに訪れる。また、ドラゴン達……いえ、殿下とそのご兄妹は、‘忘れる’ということがない。
ヒトが営むにあたり約束事の期限を示すのに、精々、夜の一刻・昼の一刻、と時間を数え、十二回これらを繰り返し一日、これが三十日集まるとひと月、十二個月を合わせて年。……ふむ、三百年ほど経過したことです。
ヒトの行使する魔法の編纂を終え、新たに発見された魔法を解呪ができるものであれば加え、そうでなければ却下する。それが今の私、百識の魔術師――或いは翠玉竜の巫女の役目となっている。わかり得ぬ知識も文字も、筆を走らせれば水で滲んでいるような薄い線をなぞるように浮かびて字となり、ヒトの言葉に変換される。フィン殿下の与えてくださった権能の僅か一部にすぎない。
商業はマーチャントギルドに任せ、研究や開発はマジシャンズギルド、開拓はアドベンチャーギルド。それぞれに独立し、私の手の及ぶところにない。
この身をフィン殿下に捧げて以来、容姿は十七歳当時のまま変わらない。制服が、
思いを馳せていると、頬が熱くなってきた。不遜であることは承知の上だが、フェルトで縫われた子犬サイズの写し身(ぬいぐるみ)を胸に抱き、顔をうずめた。今日はリラックスハーブの香りがした。ああ、
「少し良いか」
そのお声に、心臓が跳ね上がる。
なんということでしょう、御身であれば夜霧の中でも見つけられましょうが、この執政室に来られるにあたりその身をヒトの姿に降としてくださっていてはさすがに気付くことができません。筆をおき、立ち上がると
「そのままでよい」
と窘められた。わかっております、そのお心遣いの言をいただきたく、わざと席を立ったのですから。着摺れの音をほどほどに、姿勢を正した。
ヒトの身のそのお姿は、曰く、私の内の
いつまでも見惚れていたいところではありますが、フィン殿下はそのような無駄はお好みにならない。襟を正し、正面に見据えます。私はどのようにあなたの瞳に映っているのでしょうか。そこは非常に、気になります。
「それは何だ。俺か?」
「カーネリア皇女殿下が手慰みに作られたと」
愛らしいお姿を大切に御本人にお見せした。
「あれも食い気以外にそんな趣味があったか」
「ヒトの身に慣れるためと。地上でとれた新しい繊維で妖精の手を借り作られたのだとか」
「新しいことに興味を持つのは良きことだ」
テーブルの上の水差しをお手に取られると、涼しげな音をさせ口に運ばれた。
手ずから私が点てて差し上げたいのですが、フィン殿下はそのような所作は求めておりません。何もないところにちょうど良い水差しとちょうどよいグラスを出現させる魔術の手腕を評してくださっているはずです。千年樹の身から僅かにとれる朝の雫をこの日のためにいつでも出せるようにしておきました。
いかがでしょう……ああ、次は何をふるまいましょう。
準備に色めき立つというもの。
「少々厄介なことになった。あの時の子どもを覚えているか」
「子ども、ですか」
「ハルに懐いていた子どもだ」
フレスアルタ・ハルコン殿下。子ども。
並べてみたが、関係性は生まれない。
忘れるということはないはず。
竜の権能により忘れるということを失っているのですから。
「少し待て」
フィン殿下は目を閉じた。ああ、なんと美しい睫毛でしょう。目尻に少し紅もさしておられます。まさか私のためにわざわざ化粧を? なんということでしょう!
今、フィン殿下と思考が繋がっている。至高の幸せと言えるでしょう、思考だけに。
「お手を煩わせます、どうかお許しを。この子どもが、なにか?」
「やはりお前の記憶からも消えているか」
フィン殿下の意図が読み切れない。
ああ、ですが。そこで思考を停止させるわけにはいかない。
関連付け、空想と妄想で空白を埋める。これはヒトにだけ許された権能なのです。
「どうやらこの子どものことを私は知っているのですね。しかし、思い浮かべることもできない。夢の中の出来事を覚えていないような感覚です」
フィン殿下は頷き、私の次の言を俟った。
「半年前、サクラムの町にて奇妙な消失事件がありました。誰が消えたかは、またも私の記憶から抜け落ちてございます。不自然な欠落です」
「
「異世界の存在が私たちの世界に干渉があった、ということですか」
「そうだ。それは虚無の海からお前たちについてきて、何らかのきっかけで孵化した」
「拝命いたしました」
言を俟つ必要はありません。解決せよ、とのことでしょう。
「任せる。必要な情報を与え、伝えよう」
再び、思考が繋がった。
お母さん探しに行こうか。
これはフレスアルタ・ハルコン殿下が、子どもにかけたお言葉。
お父さんもお母さんもいないみたい。あたしがめんどうみようか?
これはカーネリア皇女殿下。
私共が?
魔術師の素養を持った夫婦。
顔は判別できない。フィン殿下の記憶でさえ、欠落させられている。
仮名、「夢幻の魔術師」「幻想の魔術師」とする。
子どもは二人に預けられた。
サクラムの遺跡の調査に、マジシャンズギルドより派遣。
この二人、夢幻と幻想の魔術師を長として任命。
消失事件。
「お二人は夢の世界を研究していたそうです」
疫病竜を打ち取ったヒトの勇者の一人の言質。
二人に子はいない。
残されたその子は?
誰だ、この子は。
夢幻と幻想の研究の完成か、成果か。
起源を持たない存在を顕現させた。
「これだ。ここですね」
まるで夜の海に浮かぶ幽鬼の姿であったが、その存在を認知した。
「名を与えねばなるまい」
「夢の世界よりの来訪者。虚無の化身、巨大な夢と書いて巨夢。夢界の……」
「眠れる世界の、眠りの魔術師」
確認し合う。フィン殿下のお声に、合わせて。私の声を。絆魂の幸せ。
わたしはキャロライン・キャナルよ、ドラゴンさん。
唐突に、暗がりの幽鬼が笑ったように思えた。
刹那、思考の接続が切断された。
幽鬼の全貌、姿が見られる直前だった。
「む……」
左目を抑え、殿下が低く唸った。
「殿下!」
殿下の瞳から、血が滲んでいた。
「咄嗟に回線を切ったが、お前に障りはなかろうな。ヒトの身にあれの姿は危険と判断した」
「だ……」
大丈夫ですか、と喉の手前、舌の上にまで乗ったが、不遜な言葉を飲み込んだ。
フィン殿下に限り、何事もあろうはずもない。
代わりに、席を立ち、身中の魔法の素、マナを己の影に集中させた。
「〈マーティライズ〉」
竜語魔法、無機物に生命を与える秘術。
影が伸び、その姿を小さな魔女に変えた。
それは私に代わり、眠りの魔術師に気付かれないように忍び寄り、そして。
「支配の竜王、翠玉竜フィンブルヴェト・ビュルム様。どうか、詔を」
あなた様の杞憂を、必ずや取り除くことでしょう。
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